第26話 過ぎたもの
「いつから、気づいていたの?」
「初めて見たときからです」
「そう……」
女御が顔を伏せ、顔が見えなくなると小さく笑いだした。
しじまのようなそれも、次第に大きくなり、再び顔を上げたときの女御の顔は苦痛と怨嗟にまみれ、歪んで見えた。
「あはははははははははっ!!!」
小鳥のような声だったそれは、屋敷中に広がっているようだ。そんな大声を出せば屋敷の人に気づかれていそうなものだったが、いつまでたってもひとの気配がしない。
「乳母殿や、采女の姿が見えないけれど?」
「今は眠っているわ。わたくしが欲しいのはあなただもの」
「え?」
自分と同じ顔をしておきながら、欲しいとはどういう意味だろうか。いとが言葉に詰まっていると、すすっと女御が歩み寄ってきた。
「この姫の体は弱すぎるのだもの。わたくしが乗り移ってからというもの、まともに動くことすらできないのだから」
「それで、私を……?」
「ええ、体の丈夫な姫はいないのかと左大臣に言ったら、ちょうどいい娘がいるとあなたを連れてきたのだわ。聞いているのよ、あなたが紀伊の国で何をしてきたか」
「!?」
気づけば女御がいとの目の前に現れた。まるで空を飛んでいるかのようだった。
「かわいそうに。見も知らぬ姉の代わりをさせ続けられるあなたがかわいそう」
「かわい、そう?」
いとの目が見開かれていく。女御の体を乗っ取った”誰か”は繰り返しいとにかわいそう、と告げた。
「
頬を白い手がなぞる。その手の冷たさにいとは驚いた。まるで氷のように温度が感じられなかった。足がすくみそうになるのを必死にとどめた。
「私は、かわいそうなのではありません。あなた様は何がしたいのです?」
「わたくしはずっとずっとずっとこの屋敷で育ったの。外にも出られず、雛遊びも貝遊びもできず、ずっとずっとずっと!」
「私の体を乗っ取って、どうするというのです? 私は罪人だと、言われている……のですよ?」
言い返してみたものの、上ずってしまいうまく舌にのせられなかった。いとの言葉に、女御の体を乗っ取った怨念はせせら笑った。
「そんなくだらないことを言うの? 同じ顔なのだから、誰も気づかないわ」
「……」
ひやり、と冷水を頭からかぶせられた気がした。初子さまに乗り移った怨念は、とんでもないことを言っている。同じ顔だから、乗り移ってしまえば言いくるめられると思っているのだ。
「それに、うれしかったの。わたくしはこの体を手に入れてから、恋ができたのだから」
そういう徳子の顔は恍惚としていた。それはどこか幼さが感じられた。魂に引きずられているのが手に取るように分かった。
「恋、ですか?」
「ええ。この体に乗り移ってすぐのことよ」
はじめはすぐに返そうと思っていた。自分はただの”想い”でしかない。
自由に歩き回りたい。
自由に話したい。
自由に……恋をしたい。
遠い昔の誰かの”想い”でしかない自分なのだから、今生きている誰かを縛るのはよくないと思った。しかも、手に入れた体はあまりにももろかった。少しでも無理をすれば寝込んでしまうほどだ。
呪いである自分のせいだとは思うが、それにしたって弱すぎる。それでも、せっかく手に入れた動く身体を満喫しようと思った。朝起きるたびに、体が動くかを確かめ、そして外に出た。
桜の木に触れるたびに、心が落ち着くのを感じた。それもそのはず、自分はその桜に埋もれた誰かの”想い”。自由を願った誰かの慟哭だ。
そんな中、宴が催された。宮中で話題になり、夜桜を見るのも一興と誰かが言い出したのだ。この世のものとは思えない大ぶりな枝垂桜を見たいと帝もおっしゃったのだから、あれよあれよと決まった。
「そこでわたくしは出逢ったのです」
「……」
夜桜の中豪奢な衣装をまとい一心不乱に舞う貴公子。絵物語から抜け出たかのように優雅なそのいでたちに、心惹かれた。歌を朗する声も低く滑らかで、小川のせせらぎのようだった。
身分や家のことなど、考えることができなかった。それほどまでに、完成された空間を見ていたかった。
叶うならば、そばにいたい。
「あなたが宿った姫君に負い目などないのですか?」
「あるわけないでしょう。わたくしはここで過ごした皇女なのですよ」
ただ淡々と言い返す声に温度はなかった。呪いとしての自我と、その元となった皇女の思いが溶け合ってしまっている、そういとは思った。思いをつづった文にはもう”霧”は見えなかった。
(呪いの発生源が変わっている。移動した本体はどこだろう)
あれほどまでに自我が確立した呪いなら、宿主の負担は計り知れない。女御の顔色が悪いのは呪いに蝕まれていることのほかに、本来の体力に限界が来ていることの証拠にもなる。
「あなたは私に役目を押し付けてどうするおつもりです。その体で過ごしても、3年持つかどうかも分からないのに」
深くなってくる呪いの気配に鼓動が高まるのを感じる。ひやりとした気配に、容易にいとの命を奪うのだろう、そう思ってしまう。
「いいではありませんか。3年もここから出られて過ごせるのでしょう? 一時も外に出られなかったことを思えば、どれほど良いことでしょう」
「それには同情いたします。ですが、その体は別の人間の物です。それに、あなたは人間ではないのでしょう」
その言葉に、ニタリと女御は笑った。とたん、いとの右肩に強い衝撃が当たった。ふと右肩を見ると、黒い霧がいとの右腕をつかんでいた。
「だから、なんだというの?」
「っつ!!」
右肩から手首にかけて締め上げられる感覚が走り、とっさに歯を食いしばる。こんな衝撃は初めてだ。いや、そもそも呪いと対峙したことすらまともになかったのだから、当たり前だ。
「右手を潰してしまえば、戦えないでしょう。お前のことは父親から聞いています。なんてはしたない、姫君らしからぬ姫でしょう」
じくり、じくりと蠢くようにいとの腕を締め付けながら、呪いは笑った。
「姉の真似をして、それを拒絶しようと至ったのはそんな格好だとは」
「この格好、動きやすいから好きなの」
「まぁ、なんて浅はかな」
「でも、よいのだわ。どのようにふるまったところで、お前にはわたくしの身代わりとして生きていくほかないのだから」
言い返せない。額から流れ出る汗は、決して体の熱だけではないだろう。浅い息を繰り返し、いとは何とか気を持たせようとする。
「無駄な抵抗はおよしなさい。ここに助けなど来るものですか。あと少しすれば、わたくしを迎えに彼が来る。あなたは、女御としてかしずかれる。お前にとっては悪くない話なのではなくて?」
「……いや、です」
「どうして? 女御になることは貴族の娘にとって誉なはずでしょう」
たしかにそうだ。女御になれば、外戚として家に利益をもたらすことができる。血縁がすべてな貴族の世界において、それはとてつもない利益だ。
でも、それは普通の姫君として育った場合だ。もし、ここにいるのが別の姫君であれば、呪いの恐ろしさに腰を抜かし、早々に諦めている所だろう。
いとだって本当は怖い。呪いをこんなに間近に感じることなんて今までなかった。何度も命を狙われたし、一度は諦めかけた。
それでも、といとは腹に力を込めた。右腕の激痛に顔をゆがませながら、目の前の女御を見つめた。
「私は、家族を守るためにここにいるのです。家を栄えさせるために来たのではありません」
その言葉に何を言うのかしら、と女御がつぶやいた。同じ意味じゃないか、そう言いたげだった。
「本来なら、私ではなく妹が来るはず、だったのです」
「それがどうしたの? 妹が来ても結局変わりのないことでしょう」
息を吸う。強い香の臭いにふらふらとしそうになるけれど、一度目をつぶり目を開く。視界の先で桜の枝が揺れている。初めて見たときは、この世のものでもない美しさに目を奪われた。
本当に、この世のものではないものが現れるとは思わなかった。
「よかった、と思いました。妹なら、こうはならなかったでしょう。あなたは初めから読み間違えたのです」
「どういう意味かしら?」
いとはとっさに懐にしまった杭を左手で高く高く放り上げた。額に流れ出る左手を腕で乱暴にぬぐって、声を高く高く張り上げる。
「どうせどこかで見ていたんでしょうっ! 私を助けなさい、厳彦っ!!!」
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