第18封 予期せぬ事態



 それから何か変化があったかと言うと、何も変わらなかった。


 無心で仕事をしなければ、と意気込むテトラを他所に、リナンはテトラ以上にいつも通りなのである。

 まるであの晩の事など、夢か幻のようであった。


 (…………いえ、別に、いいのだけれど)


 それより気になるのは、リナンがデビュタントより前から、テトラを認識していた事だ。


 テトラは母の侍女として、他国に出向いていた経験がある。しかしあくまで侍女であり、ギンゴー帝国第三皇子と会話した記憶はない。

 顔を合わせたとしても、母と帝国の皇妃が対話する際に、頭を下げた程度だった。


 (まさか一目惚れ……してくれて、いたり、しちゃったり……、……いえ、いいえ! う、うん、別にその、いいのだけれど)


 思わずポッと頬が熱くなり、慌てて首を左右に振った。


 一日の侍女業がひと段落する夜。

 小屋に戻ってきた彼女は、鏡台の前に腰を下ろしていた。


 リナンの態度を不服に思いつつ、そんな自分にも恥ずかしく、テトラは唇を尖らせながら、指先に軟膏を擦り込む。

 先日、母が赤切れの指先や、痛んだ髪の毛を補修できるよう、薬を送ってくれたのだ。

 精油が練り込まれた良い香りがする軟膏で、なんとハルべナリア国から購入したものらしい。


 母の手紙によると、害虫駆除の薬について、取り引きの話が進み始めたという。

 その際ハルベナリア国から、自国の技術を体感してほしいとして、庶民でも手が届くほど安い価格で購入したようだった。


 (きっと上手く国交が持てたのね。殺虫剤は高額だけれど、殿下というパトロンがいれば、きっと大丈夫……、……?)


 上機嫌で薬を塗り込んでいたテトラは、ふと、扉が叩かれた気がして顔を上げる。

 窓の外はすっかり暗く、城の灯りが届くくらいだ。しかし窓枠の外で、微かな光が揺れている。


 再度、今度はハッキリと扉が叩かれて、テトラは立ち上がった。


「どなたでしょう?」


 湯を浴びて寝巻き姿だった為、慌てて外套を掴んで袖を通す。

 マウラバルが何か用事だろうかと思いつつ、鍵を開ける為に扉へ近寄ると、向こう側で微かに笑った気配がした。


「夜分に申し訳ございません、オービス第一王女殿下。先日、お目にかかりました、シェルパです」


 (……え)


 ドアノブにかかろうとした片手を、反射的に引っ込める。

 テトラは顔を青褪め、自身を抱きしめて、半歩後ろに下がった。


「……申し訳ございません、驚かせてしまいましたね。あなたがこちらで過ごしていると聞き、居ても立ってもいられず……。本当に、殿下をこのような場所に閉じ込めるなど……度し難いことです……」


 カリカリ、と木製の扉を引っ掻く音が聞こえ、テトラは更に小屋の奥へ後退する。


 (え、何を言ってるの、どうしてここまで、入ってきてるの?)


 テトラが寝起きする小屋は城の外にあるので、通り道さえ分かれば、城へ入らず来ることは出来る。

 だが、相手が客人であれば別問題だ。

 客人は滞在できる区域が決まっていて、こんな辺鄙な場所に足を踏み入れることなど、許されていない。

 誰にも咎められず来るなら、侵入者か、王族の許可を得ているかだ。


 (誰かに口添えをもらって、ここまで入ってきた?)


 テトラは外套の合わせ目を引き寄せ、緊張に生唾を飲み込む。

 いつでも逃げ出せるよう、背後を確認して、裏口までの距離を確かめた。


「殿下。ああ、第一王女殿下。どうかそのままお聞きください。数日の内、オービス国王陛下より、殿下に手紙が届くかと思います」

「…………どういう事ですか?」


 父の名を出され、テトラは怪訝な顔で扉を睨む。

 窓から差し込む灯火が再び揺れて、扉の向こうに一瞬、静寂が落ちた。


「オービス国王陛下に、第一王女殿下へ求婚を申し入れました」

「……何を、言ってるの?」

「はは、驚かれるのも、無理はありません。ですがずっと、あなたがデビュタントを迎える日を、ずっと心待ちにしていたのです。あなたを一目見たあの日から、恋い焦がれておりました。お慕いしておりました、オービス第一王女殿下」


 歌うような、さえずるような。扉越しでくぐもった男の声が聴覚を揺らす。

 変態だ……! と恐れ慄き、テトラは思わず扉に近寄って、施錠されているか確かめた。


 (な、なんなの、この人! 気持ち悪い!)


 流石に一人で対処できる相手ではない。

 テトラは改めて身の危険を感じ、裏口から飛び出そうとして踵を返した。


 その時だ。

 男が本名を名乗ったのは。


「私は、シェルパドゥーラ・ハルベナリア。ハルベナリア国第一王子です。今はどうかこの名を、その美しいお心にお留め置きください」


 テトラは逃げ出そうとした足を止め、大きく目を見開いた。

 肩越しに扉を振り返り、はくはくと口を開閉させ、しかし言葉にならず空気が漏れる。


 シェルパという名前を、聞いたことがあるはずだ。

 ハルベナリア国第一王子は、積極的に自産業の薬品開発と、売買に関わっている人物である。

 父と弟が、気難しい顔で購買額の話をしている時に、良く耳にしていた名前だった。


「……さま、ご安心ください。ご聡明なあなたと、オービス国王陛下なら、色良き返答を頂けると確信しております。……本日はご無礼をどうぞお許しください。後日、でまた、お会いしましょう」


 その言葉を最後に、石を踏む音が聞こえ、足音は遠ざかっていく。


 (…………えっ、……え、何? どうしてそんな話になるの? こっちから婚約破棄なんてしたら、リナン殿下からの出資金、返納しないとならなくなるじゃない……!! 無理よそんなの、国が破産しちゃう……!!)

 

 テトラは腰を抜かして床に座り込み、脳内で金額を精査して白目を剥いた。

 まるで深刻に捉えろシリアスと言わんばかりに伝えられたが、そんな脅しに屈するほど、ナンフェア王国は余裕がない。


 そう、余裕などないのだ。懐に。

 

 (もうっ、もう! もう!! どいつもこいつも! お金がないから困ってるのにぃ━━ッ!!)

 



 

 

 

 

 

 

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