第12封 日々は些事の繰り返し④
厨房で美味しい賄いを食べ終え、テトラは早足に廊下を戻る。
ヒューレン料理長と豆料理の話で盛り上がってしまい、少々遅くなってしまった。時間帯的にリナンは私室に戻っているだろう。
回廊を抜けようとした時、反対側で話し声が聞こえ、緩やかに足を止める。
植物の影から様子を窺うと、数人の従者を引き連れた男が一人、険しい顔で靴を踏み鳴らしていた。
帝国内の貴族を把握しているわけではないが、装いが少し違っている。王族へ謁見に訪れた他国の来賓客だろうか。
顔の輪郭を隠すような、薄紫色の癖のある長めの髪に、垂れ目で新緑の瞳。一見、おとぎ話を連想させる風貌だが、よほど怒り心頭のようで、柔らかな印象が鳴りをひそめている。
(あ、わっ、こっちにくる)
テトラは慌てて壁に寄ると、侍女服の裾を持ち上げて頭を下げた。
一行が足早に通り過ぎようとして、不意に、テトラの前で先頭の男が足を止める。
おや、と思う間もなく片手が頬に触れ、やや強引に顎が上がった。
驚いて目を見開いた先で、先ほどの妖精じみた男が、テトラ以上に驚愕した顔でこちらを凝視している。
「……オービス第一王女殿下……?」
「え?」
「っ本当に、……っなんと言うことだ。……本当に、……殿下をこのような、…………クソッ、あの男……っ!!」
従者たちにも動揺が広がり、ヒソヒソと囁きあっている。
状況についていけず、テトラが困惑していれば、男は即座に膝を折って彼女の手の甲に口付けた。
「ああ、オービス第一王女殿下。ご無礼をお許しください。私は、……今、この場では正式に申し伝えられませんが、私のことはどうぞ、シェルパとお呼びください」
どこかで聞いたことがあるような名前に、テトラは訝しみつつ、首を傾ける。
「は、はぁ、シェルパさま?」
「あなたの美しい声で呼んでいただけるなんて、私は何て幸運なのでしょう。……っ申し訳ございません、いずれまた、改めて伺います」
遠方から近づく下女たちの話し声が聞こえた。
シェルパは秀麗な相貌を歪め、音も静かに立ち上がると、テトラのもみあげから流れる髪を、指先ですくって口付ける。
絵になる仕草だが、その瞳はどこか恍惚じみていて、テトラは目を瞬かせてたじろいだ。
「必ずお傍に参ります。御前、失礼致しますね。……行くぞ」
彼は深く辞儀をして、再び険しい表情に戻り、配下を連れて歩いていく。
男たちもテトラに向かって深く頭を下げ、足早に目の前から去っていった。
テトラは呆けた顔で一行を見送り、唇が触れた手の甲をさする。少し熱を持っている気がして、思わずそのまま握りしめた。
道ゆく誰もが振り返りそうな、美貌の麗人であった。うら若き乙女であるテトラも、ぽっと顔が赤らむくらい──いや、普通に気持ち悪くて無理である。
(えっ、なに? いきなり? 気持ちわる……)
エプロンで手の甲を拭いて、テトラは青い顔でリナンの私室に急いだ。
名前はかろうじて名乗っていったが、身分も分からなければ、肩書きも分からない。そんな男から急に、必ず傍に行くなどと言われても、不審者にしか思えなかった。
鳥肌が立ちながら、扉を叩いて返事を待つ。
開けてくれたシラストと、すでにベッドに寝転がっているリナンを視界に入れ、テトラはほっと息を吐き出した。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
「……あんま腹一杯食ってると、着られる服がなくなっぞ」
「おかわりしてません!」
一礼して部屋に入り、香炉の状態を確かめる。
先ほど会った男の事は、第三皇子であるリナンなら知っているかもしれない。
そう思い立ったテトラは、上体を起こしたリナンに振り返った。
「殿下、お尋ねしたいことがありまして」
「あ、婚約披露宴するから、そのつもりでいろよ」
「ああ、はい。あのですね……、…………えっ」
夜の挨拶でも言うように、さらっと重要事項を言われて、テトラの思考が停止した。
出入り口の扉の前で、シラストが片手で顔を覆い、天井を振り仰ぐ。
「殿下! だから伝え方というものが!」
「ちゃんと事前に伝えてんだろ」
「いやいや、婚約を大々的に発表するんですよ!? 殿下から婚約を申し入れたのですから、誠意をお見せするべきでしょう!」
「うるせーな。俺は身の回りの世話を引き受けてくれる女が必要。コイツは国を建て直す出資者が必要。それで結んだ婚姻だって言ってんだろ。誠意も情も男女の関係性も要らんわ」
だが逆に、心にもない言葉を並べられるより、リナンの態度は好ましかった。
何せテトラ自身も、リナンから男女の情を話題に出されたら困り果ててしまう。
まぁいずれ、跡継ぎの問題があるのだが、それはそれである。
彼女は思わず小さく吹き出し、くすくす笑いつつ肩をすくめる。
「買い物に出かけるって、そういう理由もあったんですね。分かりました。でも、披露宴はしない方針だったのかと」
「本当は面倒くせぇからやりたくねーがな。父上から、婚約するなら対外的に示しだけつけろ、って言われてんだよ」
帝国の外面を考えて、第三皇子だけ粗末に扱えないのだろう。婚約を結ぶ際に姿を見せなかった割に、見栄だけは気にするようだ。
そうと決まれば、父と母、そして弟に手紙を書いて、準備に取り掛かってもらうとしよう。
テトラは尋ねようとした内容など、すっかり忘れて思案を巡らせていた。
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