第38封 哀は短し、進めよ乙女
考えていなかったが、リナンも大概、石頭であった。
「いったぁ……」
「っ、っ痛ぇよ、何しやがんだおい……!」
二人でその場に蹲り、シラストが唖然として見下ろす。
テトラはじんじんと痛む赤らんだ額をさすり、続いてリナンの額も指で撫でた。加減ができなかったので、タンコブになったかもしれない。
赤い額に唇を寄せると、彼は虚をつかれた表情で目を見開いた。
「どうしましょう殿下。わたし、痛くて泣きそうです。泣いちゃおうかな。殿下はどうですか? どさくさに紛れて本音を言ったって、誰も文句は言いません。だって痛いんですもの」
「…………」
「あ、わっ、先に涙が出てきちゃったわ」
涙腺が緩んで目頭から涙が伝い、テトラの頬を濡らした。
指先で拭っても溢れるばかりで、輪郭から離れた雫は襟元に落ちていく。
額より鼻の奥がつんと痛んで、テトラは恥ずかしさに照れて笑った。
しかし沈黙が流れるほど、堰き止めていた感情が溢れて、テトラは顔を覆ってしゃくりあげた。
「ふふ、痛い。……いたいわ、どうしましょう、殿下。あんな、……あんなやつに、あんなやつにっ、国がめちゃくちゃにされるなんてっ……悔しい、くやしいわ、絶対、絶対っゆるさないんだから、ゆるさないんだからぁあ」
いざという時しか準備していない、王女の鏡も淑女の鏡も放り投げて、テトラは泣き声を上げる。
止めどなく溢れる涙が冷たいのに、憤りで熱くなる胸がやるせ無かった。
リナンはテトラを見つめたまま、苦く笑う。
そして両手で彼女の頬を包み、親指の腹で雫を拭うと、額を合わせて目蓋を閉じた。
「……悪かった。どんな形であれ、傍にいて欲しくて、お前の想いを立場で操りたくなかった。助けなくてごめん、なんの言葉もなくてごめん。傷つけて、ごめん」
「うん、……っうん」
「侍女という立場であれば、働きに対する報酬としてテトラも納得するし、俺はお前の祖国に金を落とせるし、安牌だと思った」
「うん」
「俺の感情なんかどうでもよかった。テトラを蔑ろにしていた。お前がここにいる口実さえあれば、何も要らなかった」
テトラはリナンと同じように、彼の頬に指先で触れた。
濡れてはいないが少し冷たくて、それが彼の緊張を感じさせ愛おしくなる。
そっと目を開ければ、ぶれるほどの至近距離にある白緑の瞳が、同じくテトラを見つめていた。
「…………だがそれは、ただ、お前に向ける感情が、自分で嫌いで、……この感情を好きになれずに、折り合いをつけてばかりだっただけ、なんだろうな」
親愛の裏に隠された下心に、猜疑心を植え付けられた人だ。
自分がそんな感情を向けることすら嫌悪し、止められずに悩み、テトラとの距離を大切にしようとした。
リナンは立ち上がりながら、テトラの事も支えて抱き起こす。
そして何事か伝えかけ、しかし言葉が出ずに、彼は視線を迷わせた。
「……殿下。騒ぎの収拾を手伝って参りますので、少し外しても良いですか」
口を引き結ぶリナンに、シラストが柔らかな声をかける。
近衛騎士は背筋を伸ばして一礼すると、テトラにウィンクをしてから、静かにその場を離れていった。
廊下であれど、人の喧騒は随分遠く、あっという間に二人きりの空間だ。
テトラはリナンを見つめ、ふわふわと熱を帯びた鼓動を聞きながら、目を瞬かせる。
「……テトラ・オービス第一王女殿下」
「はい」
改まって名を呼ばれ、テトラは反射的に返事をした。
彼はまた、先ほどとは違う緊張感に包まれていて、テトラに顔を寄せる。
密着する体温は随分と高く、鼓動は心臓を打ち鳴らして、それが不思議と心地よかった。
「俺が今、お前に出来ることは少ない。強いて言うなら、今まで通り金を出すくらいだ。それでもお前の隣は誰にも譲りたくないし、テトラの為にしか何もしたくない」
「……ぶっちゃけたわねぇ」
「事実だしな。それでも……、……お前みたいに、困難に立ち向かう度胸が乏しいなりに、お前に纏ってもらう色になれるよう、努力したいと思う」
唇同士が触れて、すぐに離れて、彼は笑う。
紳士であればぎこちなく、淑女相手では下手くそな笑みだと思うのに、恋する乙女の前では無敵すぎて泣きそうな、心を揺さぶる笑顔だった。
「愛してるんだ、テトラ。初めて会った時から、ずっと。いずれ、隣に立つに相応しい相手になるから。お前を纏って共に戦うから。好きだと想う感情にちゃんと向き合うから、俺と結婚してほしい」
テトラは大きく目を見開いて、呼吸を止めてしまう。
ぽろ、と涙が溢れても、頬が冷たくならないのは、
彼女は思わず、気の抜けた顔で笑う。まさか婚約披露宴の前日に初めて、プロポーズを受けるとは思いもよらなかった。
そしてその言葉も命令ではなく、懇願なところが、彼の根底にある思考を窺わせる。
(……不器用で臆病な、優しい人ね。こんな場面でもわたしに、選択する余地を残すなんて)
両手で涙を拭い、真っ直ぐにリナンを見上げた。交差する白緑の双眸に揺らぎはないが、テトラのどんな言葉も受け止める、強い意志が垣間見える。
毎日好きになっていく婚約者から、そう言われて無心になれるほど、テトラの人生は不幸ばかりではなかった。
踵を上げて距離を近づけ、自分から婚約者の唇にキスをする。
「ええ、もちろんよ、リナン。わたし、あなたと結婚するわ」
華やぐ笑顔で伝える愛を、溢れるほど満たすと誓う。
もっと距離が近づくように、テトラは一歩、踏み出した。
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