第25封 婚約破棄など無理難題
テトラの小さな胸は、大いなる怒りで燃え盛っていた。
彼女は憤慨を隠そうともせず、リナンが使用する部屋を、テキパキと整えていく。
鬼のような形相で動き回る背後で、リナンは壁際に寄せた椅子の上にて船を漕いでいた。
古民家であった本邸で、ひと部屋だけ来客用に用意していた部屋に、リナンは寝泊まりすることになった。半分物置と化していた、狭い部屋である。
マウラバルが渋面を作り、ハンバルが金切り声を上げたし、シラストも生暖かい目をしていたので、流石に居た堪れない。テトラとしても、整備している屋敷に寝て欲しかった。
しかしリナンが珍しく譲らず、床でもいいから本邸に居させろと言ってきたのである。
テトラは掛布を広げてベッドを直すと、さっと一礼してからリナンに近寄った。
「殿下、お待たせいたしました」
「……ああ」
シラストに支えられつつ、椅子からベッドに移動した彼は、そのまま仰向けに寝転がる。
乗馬で足腰がやられたらしく、痛いと呻きながら顔を顰めていた。
王国の料理長が恐縮しながら作ってくれた夕食を食べ終え、時刻はもう夜も深い。
父母は衝撃の事実に少し気が滅入ってしまい、弟も魂が抜けてしまって、三人とも自室で休んでいた。
テトラも憤怒という原動力があるから、自力で動き回っているだけで、自室に戻ったら糸が切れそうな気分だった。
テトラは姿勢を正し、シラストと共に部屋を下がろうとして、足を止める。
「……リナン殿下」
「なんだよ」
「わたし、絶対、……絶対、ぜーったい! 婚約破棄なんてしませんからね!!」
勢いよく宣言したテトラに、半歩後ろにいたシラストが吹き出した。
上体を起こしたリナンも、ポカーンとした顔でテトラを見上げている。
「だって! 冗談ではありません! こんな騙し討ちのような真似をされた国に、薬が欲しいからって嫁ぐなんて! 絶対にいや! あのシェルパドゥーラ第一王子だって気持ち悪いし!」
「……会ったのか?」
「勝手に向こうからですよ! 害虫を持ち込んだ相手に、ゴマを擦って取り入る女だと思ってるのかしら、わたしをなんだと思ってるの、ああもうっ、腹が立つ!!」
「あの国が絡んだ害虫被害だろうが、まだ明確な証拠はない。不用意な発言はやめとけよ」
「でもぉおおっ!」
一攫千金を狙ってリナンと婚約したので、そういう意味では大概な女なのだが、それとこれは別問題である。
ハルベナリア国の農薬は必要だ。しかしどう転んでも、この状況を引き起こした相手による罠にしか思えない。そこに飛び付けるほど、ナンフェア王国は愚かではなかった。
地団駄を踏むテトラに、リナンは長い前髪の奥で、白緑の瞳を細める。
「……俺も別に、婚約を破棄しようなんざ、さらさら思ってない。お前は侍女として優秀だしな」
「恐れ入ります! これからも頑張ります!」
「殿下」
両手で拳を作り、気合いを込めて天井に突き上げたテトラを見つめ、シラストが二人の間へ割って入った。
目を瞬かせるテトラに苦笑し、第三皇子の近衛騎士は視線を移して、やや声音に呆れを滲ませる。
「リナン殿下。こういう時は、そのような言い方は無粋じゃないかと」
「…………なんだよ」
「ここはギンゴー帝国ではありません。貴方がいずれ婿入りする、ナンフェア王国です。そして貴方の目の前にいらっしゃるのは、ナンフェア王国第一王女、テトラ殿下ですよ」
「……」
「婚約を申し入れた相手に、別の男が求婚して、それを王女殿下は突っぱね、これほどはっきり考えを口にして下さっているのです。いいんですか殿下。リナン殿下は今、人生で一番の甲斐性なしですよ」
目を丸くしたテトラは、交互にリナンとシラストを見つめた。
リナンは唇をへの字に曲げてシラストを睨み、片手で自身の髪を掻き乱すと、嘆息して顔を逸らす。
騎士は眉根を寄せ、何事か口を開こうとして、テトラが先に声を発した。
「わたしは今、殿下の侍女ですよ?」
驚いた様子で振り返ったシラストに、彼女は目を細めて笑みを溢す。
シラストはおそらく、テトラを案じてくれているのだろう。
色々と交錯する思惑が見えてきたとは言え、王国が八方塞がりな状況に変わりはない。
ここは第三皇子として、婚約者として、王女を守って然るべきだと、シラストは言外に進言してくれたのだ。
だがテトラとしては、そうなっては困る、というのが本音である。
何せ普通の、なんの変哲もない、金銭だけで繋がった婚約者になってしまったら、
「殿下が正式にナンフェア王国に来るまでは、わたしは殿下の侍女です。もし今、侍女という立場でなくなってしまったら、わたしは殿下と共に行動できなくなります」
「しかし……」
「それに、あの気持ち悪い王子をギャフンと言わせるには、殿下と知恵を絞る必要がありますからね!」
侍女である以上、リナンは過度にテトラを守ってはくれない。
それでもマウラバルから話を聞かされ、彼が自分では決して言わない言葉に触れて、テトラはより一層、思うのだ。
リナン・ナルツシード第三皇子は、無気力で臆病で不器用な人なのに、テトラの為にこうして駆けてきてくれる、最優良物件なのである。今なら金鉱山もついてくる、大富豪な婚約者さまだ。
ルーヴァロからリナンの来訪を知らされ、テトラは確かに仰天したし、困惑もした。
それでも彼の顔を見た瞬間、張り詰めていた思考が和らいで、傍に来てくれた事に安堵したのは事実である。
(お願い。わたしから、リナン殿下と一緒にいられる時間を、奪わないで)
テトラは、黙ったままこちらを凝視しているリナンを見つめ、笑みを浮かべつつ頬を染めた。
(どうしましょう、ドキドキしてる。きっとわたしは今から、この優しい人を、大好きになっていくんだわ)
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