第33封 おそらく純な愛なのだ
トルソーに着せられたドレスは、リナンの自室の奥に鎮座している。
披露宴用に購入したそれは、テトラが寝起きする小屋に置いているわけにもいかず、リナンが置き場所を貸していた。
賃貸料は幾らだろうかと溢していたので、ナンフェア王国に行った後のツケにしておく。
レヴィンスの指示通りに準備を進める毎日は、怒涛のようにすぎていく。
気がつけばもう、披露宴まであと数日になっているほどで、あまりの忙しさに辟易した。
テトラの両親と弟が、リナンを代行して各国に連絡を入れてくれていなければ、とても間に合わなかっただろう。
深夜。
ようやく今日やる事を終えて、ぐったりとベッドに沈んでいると、テトラが香炉に火を
彼女の視線がドレスに向いて、嬉しそうに表情を綻ばせているのを見るだけで、全部がどうでもよくなってくる。
眠い頭で見つめていると、テトラは侍女服の裾を持ち上げ一礼した。
「本日もお疲れ様でございます、殿下。それでは、わたしも下がりますね」
「……ああ」
ひらひらと手を振り、いつも通り彼女を見送る。
扉が閉まり静かになると、控えていたシラストが感嘆の声を上げた。
「殿下は忍耐の化身だと思います」
「あ゛?」
「いえ、不埒な話ではないです。自分の婚約者様が、披露宴前に髪を切られたのに、淡々とされていて……、自分であればきっと、感情的になると思いまして」
険しい表情で呟くシラストに、リナンは片手で濡れた頭を掻く。
「あー……切った直後は、な。だけど、テトラのあの勝ち誇った
「どうでも……」
「髪を切った事が最善かは別として、テトラも覚悟の上だったろう。俺の為に怒ってくれるアイツに、なぜ切ったなんざ、どうして言える?」
リナンが幾ら他者の機微に疎くても、あの時、テトラが憤慨していたことは流石に分かっていた。
リナンを想い前に立ち、戦おうとする彼女を、リナンが止める事は出来ないのだ。
デビュタントを迎える前から、ナンフェア王国の王妃付き侍女として、駆け回っていた幼い少女。
他国から笑われても、蔑まれても、決して俯かない親子が、リナンには眩しかった。
両親と仲が悪いリナンは、兄妹とも似ていない為、他国から嘲笑の的になりやすい。心を許す臣下以外も、なおざりな態度で接するので、周囲に伝染するのは仕方がなかった。
それでもナンフェア王国夫妻は、優しく声をかけてくれたのだ。
こんな両親であればいいのに。恥ずかしながら、そう思った事を覚えている。
そして侍女の扱いである為、紹介こそされなかったが、テトラと初めて顔を合わせたのも、この時だ。
彼女の容姿云々は、正直、まったく興味がなかったし、初対面でも特にどうとも思わなかった。
しかしテトラは美しい所作で頭を下げると、心配そうにリナンへ囁いたのだ。
『大丈夫ですか? お顔の色がわるいです。どこかにすわりますか?』
『……っう、ん、いや、……大丈夫』
『本当? ごむりのありませんように』
おそらく彼女にとって、当たり前の気遣いであったのだろう。
テトラは去り際、近くにいた使用人に何事か伝え、国王夫妻と共に歩いて行く。
そうすればすぐに、使用人が水差しとグラスを持って、リナンの側にやってきたのだ。
確かにリナンは、周囲の嫌な気配に辟易し、緊張で喉が渇いていた。他兄妹がいる傍ら休むこともできず、しかし表情が変わらないので、誰にも指摘された事はない。
初めてだった。
こうした場でリナンを案じ、声をかけたくれた人は。
リナンは、親子が通り過ぎるのを見送るだけが精一杯で、グラスを受け取ることすら、出来なかったのだ。
恋に落ちたと表現するには、あまりに幼稚であったと思う。
それでもリナンにとってあの瞬間から、テトラは特別な少女になったのだ。
ベッドから天井を見上げていたリナンは、おもむろに上体を起こす。
トルソーに着せられたドレスを一瞥し、緩慢な動作で立ち上がって、側に近寄った。
メイズの瞳を思わせるラインに、柔らかな緑のレース。パニエで膨らんだ裾は優雅に形を整え、その上に重なるフリルが可愛らしさを引き立てる。
あと数日で、これを着た彼女の隣に立つのだと思うと、胸がざわめいた。
「……早く、傍に……」
呟いた声が低く掠れる。
指先で触れたリボンが揺れ、リナンは白緑の双眸を細めた。
テトラが側にいれば、自らの感情すらどうでも良かった。
金銭の援助を申し出る代わりに、愛情を得ようなどとは、今だって少しも思っていない。
働きに対する対価とした方が、テトラも安心できるだろうと考え、……いつも安牌を取ろうと必死だった。
「……殿下。ご自分の想いを伝えたのでしょう? ……大丈夫です、王女殿下も、リナン殿下を想ってくださっていますよ」
沈黙するリナンに、背後からシラストが穏やかに声をかける。
「お二人の間にある愛情は、確かなものです。下世話な下心はありません。あの侍女とは違う」
「…………」
「臆病でいては、王女殿下は共に戦えません。あの方に向ける愛情を、誇ってください。どうか蔑まないでください。リナン殿下の意志を、オレは尊重致します」
振り返った先で、シラストは口角を上げた。
肯定しよう、好きになってみよう。今なら自分の卑しい感情を、そんな風に捉えられる。
いつだって、彼女を想うこの心に、正面から向き合う勇気を望んでいた。
それが今なら、手が届く気がしてしまうのだから、やはり恋とは盲目なのだろう。
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