目にはレモンを

 民間療法を皆さんはどれだけ信じているだろうか。おばあちゃんの知恵から、根拠がない怪しげなものまでさまざまある。風邪を引いた時にはねぎを巻いて寝ると治る、とかそういったものだ。実際に試したことはないため効果があるのかはわからない。しかし、効果があったと実感する人もいるようだ。


 今回はそんな民間療法を試した経験とその結果をお話したい。


 アルゼンチンに滞在中、突然左目に異変を感じた。朝方尿意を感じて目を覚ました時だ。眠た目を擦りながらトイレに行き、用を足して手を洗った時、ふと鏡に映った自分の左目が真っ赤になっているのを見つけた。左目の半分、中心から目尻にかけての白目の部分が赤くなっており、そして目の奥に痛みを感じた。眼球を動かすたびに痛くなる。特に、スマホや小さいものを見る際、近いものに焦点を当てようとするとずきりと眼球の裏側に痛みが走る。


 このようなことは初めてではなく、過去に何度か目が赤くなったことがあった。これまでの経験上こういう症状は一日でよくなった為、そのまま様子を見ていた。しかし、痛みが引くことはなく、夜確認すると充血の範囲はさらに広がっていた。目の下の部分にも広がり、白目の8割ほどが赤くなっていた。


 流石に不安になった私はお義母さんの家に目薬はないか確認する。聞くとあったので、それをさした。しかし、数時間経っても良くならず、痛みも引かない。

 ダメか、と思ったその時、夫は私にある提案をした。


「レモン汁を目にさすといいよ」


 私は耳を疑った。きっと聞き間違いに違いない。レモン汁を目にさすなんて、そんなイカれたことをする人がいるはずがない。そして聞かなかったことにした。


「レモン汁は効くんだよ」


 空耳ではなかった。夫は確かにレモン汁は目にいい、と主張しているのだ。頭が狂っているのか、気でも触れているのか、私は夫に驚きの目を向けるが夫はいたって普通の表情で、


「俺、前にやった事あるよ。そしたら一晩で目の充血が治った! 俺の父親もやってたから大丈夫」


 どんな根拠? 私の頭には疑問符が乗るばかりだ。夫はレモンの効能をわからせようと、必死に私を説得する。夫曰く、レモン汁をさすことで涙を促進させることができる。涙には目の洗浄効果があるから、それで目の清潔を保ち、充血を改善できる。そしてレモン汁にも殺菌効果があるからダブルで効く、とのこと。涙を流して目を洗浄できるなら、泣ける映画でも見て涙を流せばいいじゃん、と抗議するも、夫は「レモンの殺菌作用は無視できないレベル」と引かない。


「ただし、かなり痛いけどね」


 それだ。一番の問題はそれなのだ。レモン汁が目に飛んだ時の痛みは誰もが顔を顰めるほどの激痛だ。それが一番避けたいことなのだが、夫はわかってくれない。


「俺のセオリーは妙薬口に苦し、だよ。苦痛をもたらすものほど効くんだ」


 言いたいことはわかるが、病院に行って目薬を貰えば済む話だ。現代の医療では、苦痛を伴わない治療はたくさんある。


「俺を信じろ」


 魔法の絨毯に乗った爽やかな青年のように、夫は私に言う。そして私は、自由に憧れる王女の如く、差し伸べられた手をそっと取るわけはなく、


「いやだああああああああああああああああああああああ」


 と叫びまくった。王女に一目ぼれした青年も一瞬で愛が冷めるであろう程に、無様に。


 夫は私への説得を続ける。私は拒否し続ける。


「レモン汁で治れば無料だよ!」


 その言葉を聞いて、私の醜い叫びはふと止まる。その通りだ。旅行保険に入らずにアルゼンチンに来た私は、保険外でどれほど医療費を請求されるのかわからない。参考までにカナダの医療について話をするが、カナダではまず公的な病院では医者に会えるまでに数か月かかる上に、州の公的な医療保険に加入していない人は、ちょっとした診察と治療だけで2000カナダドル(約21万円)請求される。(加入していれば無料)私立病院やクリニックではすぐに医者に診てもらえるが、診療だけで200~300カナダドル(約2~3万円ちょっと)、治療や薬で更に料金は上乗せされる。勿論治療や薬は安くない。


 ちょっと計算しただけで震えるような金額に、私はたじろいだ。ここでレモン汁の痛みに耐えて医療費を節約すれば、お金を今後の観光に回すことができる。ただレモン汁を目にさすだけで、ただ一時の痛みに耐えるだけで…。

 根っからの倹約家である私は、金のことになると真っ先に節約を考える。多少不便だろうが、苦痛を伴おうが節約ができればいい、という歪んだ考えがなかなか消えない。そしてその倹約的な考えが、私の手を少しずつレモン汁に近づける。


「俺を信じろ」


 王女は遂に青年の手を取った。震えながら、それでも彼の言葉を信じると決めた。


 その後の夫は嬉々として手を洗い、新鮮なレモンを切り、スプーンに搾りたてのレモン汁を乗せる。そして私の充血した左目を開き、一滴垂らす。


「ぎゃああああああああああああああああああああ」


 私は叫ぶ。夫は笑う。この時のことは正直そこまで覚えていない。ただ、痛かった。そしてあらゆるFワードを夫に吐いたことだけはここに記しておく。


「さ、もう一回」


 少しして痛みが引いた私は、涙でボロボロになった顔を夫に向ける。何を言ってる? 一滴ですでにここまでの苦痛を味わったのに、もう一回だと?


「これで病院行かなくて済むから。大丈夫、俺も二回やったよ」


 王女は青年を信じると決めたのだ。空飛ぶ絨毯などという安全性に疑問が残るものに乗って空の旅を堪能したのだ。きっと大丈夫。これですべて解決するのだ。目の充血も、金も。そうして私はもう一滴、レモン汁を左目に入れた。


「ああああああああああああああああああああああ」


 勿論ディズニー映画のようにはいかない。子供に見せられない程の叫びと無様な姿を遠慮なく見せた後、民間療法は終わった。終わったのだ。この苦しみから解放される。たった二滴とはいえ、私がどれだけ安心したか皆さんには想像がつくまい。


 あれ、なんか、心なしか目の痛みがほんの少しだけ引いた気がする。充血も少しだけよくなった気がする。恐らく気持ちの問題だが、この時の私は激痛というすでに支払った代償に報いるだけの成果が欲しかった。これで心の安定を図りたかった。そんな風に自分を納得させながら眠りについた。


 次の日、私は左目を確認する。うん、悪化はしてない。悪くなってはいない。充血の範囲は広がっていないし、痛みがひどくなっているわけでもない。でもそれだけだ。というか、変わっていない。痛みもほんのちょっと良くなったかな? どうかな? と疑問符が抜けないレベルだ。それすら、心の安定を図るために現実を捻じ曲げているだけなのかもしれない。


「さすがに俺も心配になってきた」


 ついに夫までそう言った。そして私達は病院に行くことにした。


 選んだのは24時間患者を受け入れている私立の眼科。受付を終えて5分後、すぐに診察室に呼ばれた。症状を伝え、左目を診てもらった結果、目を擦ったりしたときに何かしらの異物が入ったために目の血管が腫れている状態だという。深刻な状態ではなく、目薬でよくなるだろう、と点眼薬を処方してもらった。


「よかったね。深刻な病気とかじゃなくて!」


 夫は嬉しそうに言い、そのまま診察室を後にしようとするが、私は夫を引き留める。まだ終わっていない。聞かなければならないことがある。


「目の充血にレモン汁は効きますか?」


「それはない」


 医者はきっぱり、一瞬の間すら開けずにそう答えた。


「目を傷つけることはないけど、ただ刺激するだけで何の効果もないよ」


 私は夫を見る。夫は私から目を逸らす。


 王女は学んだ。訳が分からないものは信じてはいけない、と。信じるべきは絨毯に乗った爽やかな青年ではなく医者だ、と。


 ちなみに、あれだけ心配した医療費について。診察料は保険外で27,000ペソ(約4200円)、点眼薬は30,304ペソ(約4700円)。保険外で、だ。カナダのように診察料だけで何万もぼったくられることはなく、何とも良心的な価格で済んだ。


 私の経験から言えることは、海外に行く時はまず保険に入るべきだということと、国によってはそもそもの医療費自体が安いこともあるので、遠慮なく受診することを勧める。


 最後に、レモン汁療法が本当に効くのかどうか、少しネットで調べたが、実に多く人が同じような質問をしていることに気がついた。私と同じように爽やかな青年に騙されたのかも知れない。


 そして経験者として回答したいと思う。


 目の充血には医者一択。

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とある日本人がカナダのモントリオールで生活する話 鈴美 @kasshaaan

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