カナダ人と友達になる方法

 英語の勉強の為によくSMSを見る。多くの英語学習者や海外について配信しているアカウントをフォローし、彼らから様々な情報を吸収していた。それは今でも変わらない。が、最近気づいたのは、多くの日本人インフルエンサーが「ネイティブスピーカーの友人」がいることをSMSでアピールしていることだった。日本にいた時は全く違和感を感じていなかったこの現象に、少し刺さるものを感じるようになった。

 

 カナダは移民の国として有名だ。毎年数多くの移民を受け入れ減少を続ける人口を補っている。カナダの人口のおよそ20%はカナダの外で生まれた人達だ。そしてそのほとんどの人の母国語は英語ではない。第二、第三言語として英語を学んだ人達。彼らは非ネイティブスピーカーと呼ばれる。


 日本ではこの非ネイティブスピーカーに対する目が少々厳しいように見える。ネイティブでなければ英語は完璧じゃないでしょ、やっぱり英語学ぶならネイティブスピーカーからじゃないと、というような意見が水面下で見え隠れすることがある。

 これらの意見に対しては一言申し上げたい。海外では、ネイティブスピーカーと同じレベルで英語を話す非ネイティブスピーカーがごまんといる。彼らは英語に不自由せず堂々とネイティブスピーカー達と交流する。私相手では子供に話すようにゆっくりとわかりやすく説明していたカナダ人達が、英語が堪能な非ネイティブスピーカーを前にした時は高速英語で遠慮なく話す。それ程彼らの英語能力は信頼されているのだ。

 

 しかし、日本人向けのSMSを覗くと、あちらこちらで「ネイティブスピーカーが」と言った文言が見つかる。恐らくそれがいい宣伝になるのだろう。ネイティブスピーカーの英語なら確かだ、と人を惹きつけるのだと思う。それに続くように英語学習者達が「英語を学んだおかげでネイティブスピーカーと友達になりました」「ネイティブスピーカーとの会話に入れて嬉しかった」とキラキラ投稿をする。非ネイティブスピーカーの存在はその陰に埋もれていく。


 私が留学先でできた友人の多くは非ネイティブスピーカーだ。皆いい人達で一緒にいて本当に楽しかったので私は何も気にしていなかったが、ある時他の日本人留学生から「私はネイティブスピーカーと仲がいい」とマウントを取られた。彼女の顔には「カナダに来たのにカナダ人以外とばかり仲良くなっちゃって」と書いてあり、佇まいからはカナダ人と仲良くなれた彼女自身への自負が匂う。そして彼女はことあるごとに友人たちが「ネイティブスピーカー」であることをアピールしてくるのだ。

 

 日本人が持つ英語ネイティブスピーカーへの憧れは恐ろしく強烈だ。それは私もわかる。だが、生まれた国に関係なく友人は性格で決まる。日本と同じだ。日本人だってすべての日本人と仲良くなどできないだろう。カナダ人だろうと何人だろうと、合わない人は合わないのだ。

 それに気づいてからは、国籍で人を区別するなど馬鹿馬鹿しい、と日本人インフルエンサーの「ネイティブスピーカーが」投稿を冷めた目で見るようになった。「ネイティブスピーカーとの会話に入れて初めて日常会話レベルの英語は一人前」というような投稿も見たことがあるが、非ネイティブスピーカーとの会話はどうなるのか、英語力の物差しとして友人のネイティブスピーカーを利用しているだけではないか、それが友人か、と問いたくなった。

 そんな感じで私は軽く尖っていた。



 ある時地下鉄に乗っていると、女性2人から声をかけられた。彼女達は私が身につけていた服装を「可愛い!これ好き!」と褒めてくれ、そこから会話が盛り上がった。どちらもカナダ人だった。イベント帰りだという。私も彼女たちが身につけていたアクセサリーを褒め、その後はお互いの趣味などで会話が弾んだ。


 また彼女たちは私の両頬にあるそばかすまで褒めてくれた。そばかすがコンプレックスだった私はよく化粧で隠していた。赤毛のアンが同じコンプレックスを持っていたように、そばかすがもたらす素朴な印象が好きではなかった。それでも彼女たちは「可愛いよ!化粧で隠すなんて勿体ない!」と言ってくれた。とても嬉しかった。

 

 そうして会話を楽しんでいるうちに、無情にも電車は私が降りる予定の駅に着く。「ここで降りないと」と言うと彼女たちはとても残念そうな顔を見せる。私も同じ顔をする。

「じゃあ私の連絡先教えるから、連絡して!」と彼女たちは小さなカードに電話番号をささっと書き私に渡す。「ありがとう」と私はカードを受け取り、そのまま電車を降りた。電車が走り去るまで私達は手を振り合った。


 電車が去った後の駅は少し騒がしい。降りた人達がぞろぞろとまばらに歩く。そして蜘蛛の子を散らしたような集団は改札で綺麗にまとめられる。まるで意思のない人形がベルトコンベアに乗せられ同じ場所に運ばれていくかのようだ。無表情に改札に向かって歩く彼らを横目に、私は1人、余韻に浸っていた。

 楽しかった。満たされた。ほんの15分程度だったと思う。それでもいろいろな話ができて充実していた。きゃっきゃっと何でもない話をするのはこんなに楽しいものだったかと温かい何かが胸に浸透する。だが、恐らく、満たされた理由はそれだけではない。


 充実した、と感じたのは、きっと彼女達がカナダ人だったからだ。カナダ人の友人が極端に少ない私は「国籍など関係ない」と言いつつ、なんだかんだカナダ人の友人が欲しいと思っていたのではないか。マウントなんて哀れだな、と思いながらも「私の友人はネイティブスピーカー」と自慢する日本人留学生が羨ましかったのではないか。「ネイティブスピーカーがこう言ってたよ」と動画を撮ってSMS上で紹介できるような仲に憧れていたのではないか。

 非ネイティブスピーカーの友人達が嫌いなわけではない。みんなのことは大好きだ。だが、今更気づいた自らの醜い部分に「私は差別主義者だったのか」と嫌悪感を持ちつつ、その人間らしい部分にどこか愛着のようなものを感じた。「ああ、自分も同じだな」と落ち込みとも安らぎとも取れないその感情と共に私は歩き出した。


自分の、正義に反する部分もちゃんと受け止めていかないと。

いいじゃないか、ネイティブスピーカーに憧れを持っていたって。

どちらとも仲良くなればいい。


 開き直りだとわかっている。でも私の心は尖っていた頃に比べて不思議とすっきりしていた。薄い雲が晴れた。心に広がる美しい青空が目に浮かぶようだ。

 そして私は受け取ったカードに目を落とす。ピンク色のペンを使い、可愛らしい字で彼女達の番号が書かれていた。その小さなカードそのものが愛おしくなった。

 

 そういえばこれ何のカードだろ。裏をひっくり返す。


 そこには『神はあなたを愛しています』とのメッセージと共にキリスト教の協会の住所、連絡先、それに付随する情報が書かれていた。



 宗教の勧誘だった。

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