心理戦にはご注意

 先日、SMSである投稿を目にした。「日本人の英語を馬鹿にするのは日本人だけ」という短く簡潔で、それでいてぐさりと日本人に釘を刺すような投稿だった。「I don’t care」を間違えて使用した日本人を笑った私も、ぐさりとその深部を突かれて反省した。


 私はこれに同意する。この人の言うことは正しいと思う。実際にカナダで何人も日本人に会うことがあったが、その一部は水面下でのマウント取りに注力する人達だった。言語学習に向ける以上のエネルギーをそこに向けていた。「自分の方が英語を話せる」「自分の方が文法を正しく知っている」「自分の方が英語の知識が豊富」そんな感じだ。


 国際交流の場で皆が英語で会話する中でただ壁の花になり一言も話さなかった日本留学生が、私と二人きりになった時に「あの人、文法とか間違えて使ってたよね」と途端に饒舌になったのを見たことがある。私は、その人の借りてきた猫状態と饒舌に日本人の英語を馬鹿にする状態のギャップに驚き、「この人は私の英語に関しても同じように思っているのだ」と慄いたのを覚えている。


 その他にも、他国から来た留学生の発言には右向け右、とでも言うように同意するのだが、私が発言した時にだけ揚げ足を取るような質問をひたすら繰り出した日本人を見たことがある。その人は直前に「私は意見がないからあまり発言できない」と話していたのにも関わらずだ。日本人への反論であれば意見がなくても言えるらしい。


 何が言いたいかというと、日本人は日本人に対して些か厳しいように感じる。日本人が英語で話している動画が流れれば、彼らの英語を評価し、間違いを探し当てるようなコメントや動画をよく目にする。日本人動画配信者の英語をネイティブスピーカーが評価する動画すらあるほどだ。くだらないが、需要があるのだろう。


 英語学習についても「完璧に話せるまでは人前で英語を話したくない」「間違えたくないから話さない」と発言を控える日本人は少なくない。間違いが怖いのではないと思う。間違えた時にくるであろう批判や周囲からの評価が怖いのだ。間違えながら話す、という作業をするまでは言語能力は決して伸びないのだが。


 このような考えは私達の持つ日本文化が影響するところが大きい。「失敗=人間失格」「失敗しない=完璧」そういう考えが日本では非常に強いという感覚は、ここカナダに来てからよりひしひしと感じる。

 留学当初、自分の英語が通じなくて何度もコミュニケーションの壁にぶつかった。それでも「あなたの言っていることがわからない」と言われることはあっても、「あなたの英語ダメだね。ここ間違ってるよ」となどど批判されたことはない。皆私の言いたいことを理解しようとがんばってくれる。そして英語勉強中であることを察し、私とうまくコミュニケーションを取れるよう工夫してくれる。そういった環境が言語学習者を助けることも身をもって経験した。


 今、以前よりも英語でのコミュニケーションが楽になった私は、働くレストランでも同じようにしようと心掛けている。レストランに来る客層が様々だからだ。年齢のみならず人種、国籍、言語レベルに至るまで。非常に高いレベルで英語を使いこなす人もいれば、単語のみしか知らない人もいる。


 ある程度話せる人であれば問題はない。だが、英語に不自由している人とは工夫をしながら会話をする。そんな時に使えるのは非言語的コミュニケーション。シンプルでどの国の人でもわかるので、言語の壁を乗り越えてある程度のコミュニケーションが取れる。数字は指でカウントでき、メニューの説明では写真を示すことで解決し、料理の量の質問をされれば皿やコンテイナーを見せて量を伝えることができる。こうして学んだのは、コミュニケーションの一番重要な部分は、正確な文法ではなく、どうやって相手と会話をするかという試行錯誤の姿勢だ。多少の間違いは問題ではない。多くの人は間違った文法でも相手の言いたいことを理解することができる。言語に不自由している相手に正しい文法を要求し、間違いを見つけた時点で会話をシャットアウトして批判してしまうような姿勢では、完璧に言語を使いこなせていても友達はできないだろう。これをもっと多くの日本人に知ってもらい、どうか英語学習者に対し温かい目を向けてもらいたい。


 長々と英語学習について話をしたが、こうして言語の壁を乗り越えようと奮闘する私も未だにコミュニケーションに苦労することはある。非言語的コミュニケーションですら通用しない場合がある。その時は客と心理戦を繰り広げることになる。


 ある日、2人組の男性が来店した。

「俺はこのコンボメニューで」1人が答える。

「コンボには飲み物が1つつきます。どれがよろしいですか?」私は聞く。

「ジンジャーエールで」その男性は答えた。

「そちらのお客様は何を注文されますか?」私はもう1人の客に聞く。

「アイスティー」もう1人の客が答える。

 1人だけコンボメニューを頼み、もう1人は飲み物だけ? はて、変わった注文だな。私はそう思った。だが、こういった客がいないわけではない。時々、数人で来て一部の人が食べ、他の人は満腹だから、と何も注文しないグループはいる。彼らもそのタイプか、と私は納得する。

 そして料理が出来上がりコンボメニュー1つとドリンク2つを配膳する。彼らは不思議そうに私を見つめる。そしてアイスティーを注文した男性は、

「俺のコンボは?」

と、私に聞く。

「お客様はアイスティーのみ注文されましたよね?」私は答える。

「いや、違うよ。あれ、俺も同じコンボメニューでドリンクはアイスティーって意味」

 わかるかあ! 

 私は心の中で叫ぶ。ちなみにうちにはコンボメニューは4種類あり、さらにドリンクは単品でも販売している。そして上記で述べたように、本当に様々な形で注文をする客がいるので、1人が食べ物、もう1人はドリンクだけの注文なんてあり得ない、とは言い切れないのである。

 つまり客は、きちんと自分の注文をする必要がある。友人と同じコンボメニューなら「俺も同じで。飲み物はアイスティーね」と言うだけですぐわかる。それだけでいいのだ。頼む。言ってくれ。

 そんな虚しい心の叫びは届くことなく。彼らは純粋に私が注文を間違えたと認識する。私はもやもやする。私は心理戦で敗したのだ。


 またある日、1人の女性が来店した。私は人数分のメニューとコップを用意する為その女性に「何名ですか?」と聞く。見かけだけではわからないことがある。例えば1人が先に来て、友達が来るのを待つ場合などだ。

 その女性は「Two」と言いながら人差し指のみを立てる。彼女の指が示す数字は「1」だ。どっちだろう? 私は頭に疑問符を乗せたまま、念のため2人分のメニューとカップを持っていく。彼女は、私が2セット用意しているのを見て「Oh」と声を漏らす。そして再度人差し指のみを立て今度は「One」と言った。

 なるほど。恐らく彼女は間違えて「Two」と言ってしまったのだろう。彼女の指が正確な数字を示していたのだ。私は彼女の意図を図りそこねた。「Sorry」と伝え、私はカップ1つとメニュー1つを置く。彼女は満足そうに笑う。

 少しすると、また1人、女性が店を訪れた。私はいつものように「何名ですか?」と聞く。その女性は私の質問に答えず、店内を見渡す。誰かを探しているようだ。そしてあるテーブルに目を向け、すぐに笑顔になる。それは先程人差し指を立てながら「Two」と言った女性だった。彼女達は笑顔で挨拶を交わし、ハグをする。そして新たに来た女性は彼女と同じテーブルに着く。

 2人になった。しかしメニューとコップは1つずつしかない。私はそっと彼女達のテーブルに行き「お1人だったのでは?」と最初に席に着いた女性に聞く。

「やだあ、もう1人後から来るわよって意味よ」

 わかるかあ!

 私はまた心の中で叫ぶ。しかも彼女の英語はペラペラ。問題なく話せるのだ。にもかかわらず入店した際は、言語を覚え始めた赤子のごとく、指を使い単語のみを話していた。彼女はカナダに来たばかりの、まだ英語もフランス語も不自由している人かもしれない、と配慮していた私の気遣いを返してほしい。彼女はその後、私を遥かに上回る堪能な英語で友人と会話していた。私はまた心理戦で負けたのだ。

 

 コミュニケーションはどれだけ一方が頑張ったところで、結局相互作用なのだ。お互いの努力を必要とするものだ。こういう客に会うたび、彼らを反面教師とし、自分が客として店に行くときにはしっかりと自分の注文を説明しようと心に誓う毎日だ。

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