天気予報は頭にお任せ

 モントリオールに住んでいると多くの不便にぶつかる。基本的に公共のサービスは日本の方が精度が高く、対応も速い。その分働く人の苦労は絶えないが、サービスを受ける側にとっては日本は天国のような国だろう。


 私がぶつかった不便の一つに天気予報がある。まあ、基本的にiPhoneに初期からプログラムされている天気予報を確認するので、責任はapple社にあるのだろうが、まあ天気予報は当たらない。予報という言葉の意味は何だっけ、と考える程に当たらない。英語圏の人が皮肉を込めた時に使う“”のジャスチャー(両手で人差し指と中指を立て二回繰り返して折り曲げるカニさんポーズ)を使いたくなる程に当たらない。


 天気予報のアプリを開くと現在の気温がでかでかと表示され、その下に最高気温と最低気温が表示される。スクロールすると一時間ごとの気温、天気とお天気マップが表示され、詳しく今日の天気を確認できる。その下には一週間の天気予報が表示され、さらにスクロールすると紫外線、日の入りの時間、風向き、雨量、湿度、体感温度(カナダでは気温以上に重要なのが体感温度だ)などなど非常に細かくデータが表示される。高性能に見えるそれらももはや意味はない。それぞれのカテゴリーに“”カニさんマークをつけてやりたくなる。参考程度にしてくださいね、レベルである。


 これを書いている今そのアプリを開くと気温28℃、最高気温29℃、最低気温19℃、雨。そして画面は暗く濃い灰色で埋め尽くされ、上部にはどんよりとした雲が漂い、画面には雨が降り続いている。が、今この文章を打ち込んでいるノートパソコンから顔を上げ、目の前に広がる窓を見ても一粒の雨も見えない。空は雲で覆われているので現在の天気は曇りだ。でも窓から見える景色とiPhoneの画面の景色には大きな乖離がある。別の地域を表示していないかと画面を確認するも杞憂に終わる。「モントリオール」としっかり表示されている。一体モントリオールのどこの天気を表示しているのか不思議でならない。


 まあ私はそこまで天気を気にするタイプではない。雨は嫌いだ。が、よく天気予報を見逃して雨に当たり、傘を用意していないためにずぶ濡れで帰るということを何度も経験している。その度に次は必ず出かける前に天気予報を確認しよう、と心に決めるが実現したことはない。実際ずぶぬれになるだけなので、私の中では「何とかなるもの」にカテゴリー分けされている。一方で夫は気温で体調が左右される繊細なタイプなので、外出前は必ず天気予報を確認する行動がルーティン化されている。


 夫だけでなく、私が働くレストランのマネージャーも天気予報を細かく確認している。彼女がそうする理由はビジネスに響くからだ。カナダの多くのレストランはテラス席がある。天気のいい日は多くの客が外で食べたがるからだ。夏が近づくと多くの店がテラス席をセッティングする為に忙しない。うちのレストランも例外ではない。


 テラス席がもたらす影響は少なくない。まずテラス席は客引きにいい効果をもたらす。私は、虫が飛び交い、モーターバイクや車が排気ガスをまき散す横で食事を楽しみたいとは思わないが、カナダ人はテラス席を非常に好む。ハエが飛び交っていても自然と一体化するように気にせず食べ続ける。彼らは自然と戯れているのだ。


 それ故にテーブルと椅子が並べ、お洒落にパラソルを開くだけで開店中をアピールできるうえに、ここで座って食べたいと客に思わせることができる。実際、テラスを開けていると前を通りかかる人達が良くテラス席や店の看板を指差し目を向ける。そのうちの何人かは「ここにしよう」と行き当たりばったりの様子で店の戸を叩くのである。


 その為春から秋にかけてテラス席を毎日開けたいのがマネージャーの本心だ。でも雨が降る中イスを並べるわけにいかない。ぐちゃぐちゃに汚れ次に使う客が来た時に困るからだ。雨の日はテラスを開けない。これがうちのレストランの基本的なルールだ。だが、この時にネックになるのが精度の低い天気予報だ。


 ある日。出勤しテラス席を空けるかどうか決める。天気予報は、昼12時から雨が降る、と雨の画面で警告する。それに惑わされた私達は律儀にテラスを閉める。そして12時になるが、雨は降らない。

天気予報を確認すると今度は午後1時に雨が降る、に変わっている。なるほど、今テラスを開けても一時間後には雨が降ってしまう。今から来る客も食べながら雨に打たれるわけにいかないだろう。私達は閉まっているテラスをそのままにする。そして1時。雨は降らない。


 天気予報を確認する。今度は午後2時から雨が降るという。おまけに雷予報まで追加された。これは大変だ。食事中に雷が鳴るなど客は食事処ではなくなる。テラスをそのままにする。そして2時になる。雨は降らない。雷もない。


 天気予報を確認する今度は午後3時に雨と雷のマークが表示されている。ほんとかよ、と思う。でもほんとかもしれないので、テラスはそのままにする。午後3時。それまで曇の覆われていた空は卵の殻が割れたような割れ目ができ、そこから美しい日の光が差し込む。天使が舞い降りるにふさわしいその神々しい光は、もう天気予報を信用するなと私に語っているような気さえした。そして空の割れ目は広がり、街のあちこちに日が差し込む。最終的に殻はすべて剥がれ、街は青い空に対してむき出しになる。生まれたばかりのひよこはこんな風に世界を見るのだろうか、と感慨深く私は空を見上げる。


 天気予報を確認すると同じように晴れた景色が画面に広がる。「晴れだよ!」という全面的な主張が鬱陶しかった。知ってるわ。


 日本にいた時こうだっただろうか、とふと疑問に思う。日本でも私の友人や同僚に律儀に天気予報を確認する人たちがいた。いつも天気を教えてくれるので非常に助かっていたが、その人達が「iPhoneの天気予報は当たらない」と愚痴っているのを聞いたことはほとんどないように思う。この愚痴を良く聞くようになったのはカナダに来てからだ。なぜだろう。


 兎にも角にも、天気予報が当てにならないという生活を一年以上続けて最近わかったことがある。それは雨が降る前、私は頭痛に悩まされるということだ。気圧病と呼ばれるものの一つらしい。天気のせいで体調不良に見舞われるなど迷惑極まりない。どうにもできないじゃないか。最近では頭痛の方が天気予報よりも精度が高いように思う。


 天気予報では一日中曇りと表示されていても、私の頭痛が「雨が降るよ」と訴える。そして本当に雨が降る。天気予報が雨が降ると伝えても、私の頭には何も起こらない。そういう時は大抵降雨が予報された時間になっても雨が降らない。毎度頭痛薬を飲まないといけないのが嫌になるが、それでもiPhoneよりは精度の高い天気予報ができる私の体質は捨てたものじゃない。


 今日は特に頭痛もなく、割と頭はすっきりしている。そして窓の外は相変わらず曇りのままだ。天気予報の画面を開くと気温28℃、最高気温29℃、最低気温19℃と同じ気温が表示される。でも画面上部を覆うどんよりとした雲からは薄らと日の光が差し込んでいる。さっきまで「雨」と書かれていたそれは「霧雨」に変換された。


 なんだその、不正確な予報を大きく変えず、少しずつ正解に合わせるようなやり方は。間違えたことも認めず、相手が気づかないうちに徐々に正解に近づけ最終的には何事もなかったかのように正解を表示する魂胆だろう。その往生際の悪さは、そのアプリがただの無機質なものではなくそこに人間的な何かを思わせる。鬱陶しいと思いつつ、どこか憎めない精度の悪い天気予報は、実を言うとそこまで嫌いじゃない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る