とある日本人がカナダのモントリオールで生活する話

鈴美

英語って難しい

あなたのお名前は?

 紹介文に少しだけ載せたが、ここで改めて自己紹介をさせていただきたい。

 私は2021年からカナダに語学留学し、ワーキングホリデービザでカナダで働いた。その中でご縁があり、モントリオールで結婚した。今これを書いている時点でおよそ2年程カナダで生活をしていることになる。ここで書くのは海外移住した日本人視点から語るカナダでの生活についてである。もしご興味があれば少しだけあなたのお時間をいただき、ささやかな海外での日常を楽しんでいただければと思う。


 カナダに来る前、例に洩れずコロナ禍で自粛を迫られていた私はこの時を有効に利用しようと英語の勉強の励んだ。その甲斐あってかカナダに来た時は簡単なことであればゆっくりと話すことができていた。だがそれでも英語について多くの困難にぶつかった。その多くは日本で教わる英語と現地で使われる英語の乖離によるものだ。


 例えば、私が日本で英語を勉強していた時、何度か「What’s your name?と言うな!」という警告を目にした。これは直接的過ぎて相手に圧力を与えてしまうからというのが理由だった。中には「警察が職務質問する時のような雰囲気を感じさせる」という説明まであった。正しくは「May I have your name?」。直訳すれば「あなたの名前を私が持ってもいいですか?」だ。日本語にすると多少違和感があるが、間接的に相手に質問するという方法がフォーマルになるのは日本語でも同じであるため、この表現に納得した。よし、このフレーズをそのまま覚えよう!と意気込み、スムーズに言えるようになるまで繰り返し口にした。何回もしゃべると口が滑らかになり、苦もなく話せるようになる。いい調子、と自分を励ましながらこういったスピーキングの練習を健気に続けていたのだ。


 そしてホームステイ先に着いた初日、ホストファミリーとルームメイトと夕食を囲んだ。心臓はバクバクし、心はワクワクしていた。何度も頭の中でシミュレーションした自己紹介の流れをもう一度頭の中で復習する。この流れでこう言えばいい、こう質問されたらこう答えたらいい。完璧だ。もはや何でも来い、という状態だった。完璧に準備した者だけが得られるこの無敵感、全能感。この時の私は初めましてで緊張しながらも、自身が勉強した英語に過剰に自信を持っていた。


 そしていざ、ルームメイトの一人に「May I have your name?」と尋ねた。


 何が起こったか?全員膠着したのである。私に尋ねられたその女の子も、動画を一時停止したように固まった。音も聞こえない。その瞬間だけ時が止まったように皆動かなかった。私が時を止める能力でも身につけたかと一瞬ありもしない妄想をしそうになるが、そうではない。単に私の使った表現が不自然だったのだ。


 「May I have your name?」というのはかなりフォーマルな聞き方で、カジュアルな場ではまず使わない。「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」という表現なのである。初めて会ったこれから一緒に住むであろうルームメイトが「お名前をお伺いしてもよろしいでしょか?」と聞いてくるのである。違和感だらけだ。なんなら軽く気持ち悪い。そりゃみんな固まる。一時停止もうなづける。


 そして一時停止から再生したその子は動揺しながら、静かに自分の名前を名乗ったのである。周囲はまだ静かなままだ。誰も何と言っていいのかわからず戸惑っている様子だ。そして彼女がなんと答えるのか、彼女の回答がこの気まずい沈黙を破ることを祈ってさえいるような、そんな周りの期待を一身に受け、彼女は名前を答える。私はたった一言で彼女に重荷を負わせてしまったのだ。時を止めるだけじゃなく、気まずい沈黙を破る責任を負わせるという精神攻撃までしてしまった。


 穴があったら入りたい。本当に入りたかった。そしてこの時慣れない外国人の名前と自ら生み出した空気に恥じていた為に私は彼女の名前を聞き逃した。せっかく覚えたフレーズで名前を聞き、全員を凍り付かせた後、その質問の回答すらもまともに知ることができなかった。得たものなど何もない。むしろ何かを失った気がする。でももう一度名前を聞く勇気はなかった。なんとか「Thank you」とだけ言い、準備万端で意気揚々としていた私はその後萎んで小さくなった。初日に私は恥を晒した。


 そしてその後の留学生活で、私は至る所で「What’s your name?」を耳にするのである。ホストファミリーとルームメイトの間でも使われていたし、学校のスタッフとのやり時でも同じ表現が使われていた。スターバックスでも、国際交流のイベントでも、言語交換のアプリで多くの人とやり取りした中でも、みんな驚くほど「What’s your name?」と聞くのである。「May I have your name?」など、滅多に聞かない。ビジネスの場では恐らく使われていると思う。だが、それほどフォーマルな場でしか使われないのだ。


 誰だ、「What’s your name?」と言うなと言ったやつ。


 私はもう名前を思い出せないその投稿者を恨んだ。一体どこからの情報か。その人のバックグラウンドはもう記憶から削除されてしまったが、もしその人が海外留学経験などを謳っていたとしたら私は真っ先に疑いの目を向けるだろう。私がこの投稿者の間違いに気付いたのは留学初日である。私はこの間違った情報を鵜呑みにし、留学初日で時を止めたのである。

 

 小学校の頃は少年漫画にハマっていて、それこそ時を止める能力なんてかっこいい!と目を輝かせていた幼き日の私は、それから20年程の時を経てそれを実現させた。気まずい空気と羞恥心というカウンターが返ってくる条件付きの能力だということは、あの頃の私はまだ知らない。

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