舞台袖の僕と、泣き虫なわたし
春雨らじお
序、鮮彩な陽光と、純色の雨夜
◆◆◆
吹き込んで来た涼やかな風。揺らされたカーテンの隙間から射し込む夏の陽射しは、僕には少し眩しい。
そうして意識を引き戻された僕は、焼き付きそうになる目を細めて顔を上げる。
いつも通りの授業風景。チョークの音と共に現代文の教師が文豪の言葉を意訳し、それを書き留める無数のシャーペンの音が連なる。生徒達は一言も発さず、黒板の白い字を目で追い、教師の酒焼けした声に耳を傾けていた。
その静穏な日常を眺めていた僕は、数秒してカーテンの揺れが収まると手元に視線を戻す。邪魔さえしなければ、授業に集中していなくても僕は大目に見てもらえるから。内容も予習済みだから問題ない。
教室を満たすのとは異なる、心地良い紙擦れの音に耳を傾けて、読みかけていた手のひらの上の物語、その結末を見届ける。
それは泥沼のような暗闇に生きた男の物語。
世界に産声を上げた時からずっと、存在するだけで誰からも疎まれる人生を歩んできた彼は、最初から最後まで希望のない生を悲観して命を絶とうとした時、ある女性と出会う。
生まれも育ちも心までも清らかなその女性は、泥の如く濁り尽くした主人公とは真逆の存在だったが、不思議と惹かれ合い、心の底から愛し合うようになる。
生まれて初めて光に満ちた日々を送る中で彼は、己が清純な彼女を汚泥の底に引きずり込んでしまうのを恐れ、深く結ばれた絆を断ち切り、自身の死を装って離別する。
決意した別れを嘆き、二度とこんな幸福は訪れまいと感じながらも、主人公は精彩なき泥の世界で生きていく。
要約するとそんな、ありふれた救いの物語の、ありふれた救われない結末。
『泥に咲く』と付けられたタイトルは、泥の中でも花を咲かせる蓮の事だろう。作中でもヒロインは白い蓮に喩えられていた。ならばこの題は皮肉としか言えない。アジア系の宗教で清らかさの象徴とされる蓮は、文字通りのロータス効果で泥如きでは汚れやしないのだから。
その点はさておいても、総合的に見て良作とは言い難いな、と思う。購入前に覗いてみたレビューサイトでも、新作なので数は多くなかったが、概ね似たような評価が寄せられていた。
それでもこの一冊を手に取ったのは、僕がこの作者、
吏原氏の作品は概して、ストーリーからして魅力的とは言い難く、テンポも引っかかりがちで、文章も簡潔とは言えない割に教科書に載る程の文豪には遠く及ばない。
にも関わらず、コンスタントに出版を続け決して短くないキャリアを築いて来られたのは、彼が描くモノに惹かれる人が少なくないからだろう。無論、僕もその一人なわけだ。
吏原漣の綴る、紙とインクで印刷された平べったいモノクロの世界は、色彩豊かな愛というモノで隅々まで彩られている。
紙とインクで印字された平べったいモノクロの世界は、時には緑豊かな楽園であり、時にはシチューが並べられた食卓であり、時には赤い夕暮れに染まる遊園地であり、時には白い雪の舞う駅で寄り添う温もりであり、時には灰色の都会の道端に芽吹く黄色いタンポポである。
優しく、温かく、切なく、美しい愛が、常にその中心に咲いている。
この『泥に咲く』のような悲劇とも取れる結末は珍しいが、それでも主人公が過ごす穏やかな日々は作者の美学が感じられ、僕は心の中の本棚にそっとしまい込む。
――さて、物語の時間はここまでだ。
文庫本を閉じるのと同時に、チャイムが授業の終わりを告げた。
教室という同じ空間でありながら、勤勉な授業風景から騒々しいぐらいの和気に様変わりする中で、僕は椅子に腰掛けたまま、指で眼鏡を押し上げながら目頭を軽く揉む。
陽の当たる窓際で本を読むのは良くないな、と思う。ヤンキーに見えてしまいがちな人相を少しでも誤魔化す為の伊達眼鏡だが、保護レンズに替えるべきかもしれない。
読み終えたばかりの『泥に咲く』の表紙をそっと撫で、鞄にしまう。
僕は吏原漣の作品のような、様々な色を持つ美しい愛の物語に強く惹かれる。
ある種の崇拝と言ってもいいそれは、神への信仰に似ていた。
実在しないモノへの、実在しないが故の果てなき探求。
もちろん個人的な意見でしかないのだが、現実主義で合理主義な僕は、愛というモノに懐疑的だ。物語を紡ぐ為のテンプレート素材、言ってしまえばヒーローの超人的能力やホラーにおける超常現象と同じ位置付け、と僕は考えている。
ひねくれ者、と人は思うかもしれないが、別に構わない。それは事実というか、こうして窓際で陽を浴びる席にいるのが皮肉に思えるような人種なのだ、僕は。
少なくとも
◇◇◇
しとしと、さらさら。雨が降っていた。
おぼつかない足取りで一歩踏むたび、アスファルトを浅く覆う水面がぴちゃりと音を立てる。
まっ黒な夜空と繁華街を彩る何百何千ものネオンの光が、滲んだ視界でひとつひとつ膨れ上がって繋がって、全ての絵の具を混ぜ合わせたような色のとても大きなおばけに見えた。静かな雨音や道行く人々の濡れた足音さえ、その不気味なおばけの息遣いみたい。
このまま街ごとばくっと食べられちゃうんじゃないかって錯覚するけれど、きっと大丈夫だって、いまは思えた。
わたしの前をかき分けていくように歩く、広い背中。わたしの手を優しく包んで引いていくその大きな手は、熱くて、出来たばかりの痣が浮かんでいて、ほんの少し血が滲んでいた。
この人はいつも、わたしを守ってくれていた。
そんなことは、ずっと前から、まだ言葉も話せない頃からわかっている。
そう思うと、街を飲み込むおばけが、また大きくなった。
この人がわたしにくれる愛情を疑ったことなんて、たったの一度だってない。
それが当たり前すぎたのだと思う。飢えも渇きもないのに、より多く欲してしまったわたしは、この人に背を向け、その優しさを裏切った。
どれほどばかなことか、ずっとわかっていたはずなのに、いまこのときほど、痛く噛み締めたことはない。
だからあんなことは自業自得だった。それでわたしの人生全てが狂って壊れることになっても、それは全部わたしのせい。
――なのにこの人は、やっぱり当たり前のように、またわたしを守ってくれた。
半ば偶然だった……ううん、わたしにとっては、奇跡そのものだった。
神様なんて信じたことはないけれど、もしも本当にいるのなら、この奇跡はきっとわたしのためじゃない。この人がわたしにくれ続けた愛情を無駄にしないためなんだと思う。
雨に濡れて歩いて、わたしの髪はとっくに重さを感じるぐらいに雨を吸っていたけれど、途中で立ち寄ったドラッグストアで傘を買った。大きめな黒地のタータンチェック。
差してもらった傘の中で、わたしを引いて歩く背中は、さっきよりも近くて広く見えた。
大きいけれど指は少し細くて、骨張ったごつごつした温かい手は、もう二度と手放さないって決めた。
――神様はいるのかもしれない。でも、あの人みたいに優しいわけじゃない。
こんな対価を求めるぐらいなら、奇跡の押し売りなんてしないでほしかった。
雨が止んで、アスファルトが夏の陽射しを照り返す頃、あの日の涙はまだ乾かない。
わたしの傍に、あの人はいなかった。
玄関の傘立てにぽつんと、チェック柄の残り香があるだけ。
あの日壊れるはずだったわたしの全部、捧げたっていい。
「今度は、わたしが救ってみせるから。絶対に」
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