一_1、日陰の少年と、紳士傘の少女
大きな怪我には気をつけて、といった決まり文句の注意事項を一通り並べ終えると、四十代半ばの担任は一本締めのように手を叩き、酒で嗄れた声で「ほいじゃ解散」と告げた。
教室に一気に緩い空気が広がり、喧騒が包み込む。
騒がしさの中で聞き取れるのは、今日これからどうするか、夏休みはどこか出かけようか、といった話題がほとんど。
僕は軽く伸びをすると席を立ち、それらの輪には入らず教室を出ていく。途中、「あれ、瀬堂帰っちゃうん?」と声を掛けられたが、背中越しに手をひらひら振るだけで応えた。
高校生活最初の夏休み。この期間を如何にして過ごしたかで、今後の交流関係の大半が決まると言っても過言ではないのだが、いくつかあった誘いは全て断っている。
人付き合いが面倒なわけではなく、むしろ交友は広い部類だと自分では思っている。ただ釈明すると、個人的には広く浅くの人間関係が理想なのであって、立場上、深い友誼を結ぶわけにはいかないのだ。父にはもっと気楽にするよう言われているが、難しい問題だ。
教室を出はしたものの、昇降口には向かわず、まだ空っぽの職員室を通り過ぎ、校長室の前に立つ。
ノックしようとして中から話し声が聞こえたので、扉向かいの壁にもたれて待つ事にした。
その間、携帯端末を取り出して、今日の予定を再確認する。頭の中で具体的な行動予定を組み立てている最中、扉を開ける音と共に、詰まったような小さい悲鳴が聞こえた。
顔を上げると、校長室から出てきた女子生徒が身を竦ませ固まっていた。
腰まで伸ばした艷やかな髪が特徴的な……いや、引き攣っているものだから一瞬わからなかったが、顔もかなり整っているか。
まあ、その容姿の良し悪しなんて僕には関係ない話だ。現にいまビビられている。長めにした前髪を下ろして、フレームの太い伊達眼鏡でなるべく隠しているのだが、僕自身で思っている以上にわかってしまうものらしい。
やがて女子生徒は自分の態度に気付いてか、気まずそうに目を逸らすと小さく会釈し、足速に立ち去っていった。こんな反応も慣れたもので、高校に馴染んだ今となっては、軽く懐かしさすら覚えてしまう。
そういえばいまの女子が校長室にいたのは何故だろう。校長と面談する程のとんでもない事をやらかしたか……違うか。今更になって気付いたが、そもそも制服が違っていた。深緑のブレザーを小脇に抱え、に赤系のスカートを身に着けていたけれど、ここ
つまり他校の生徒だ。校長に用があるとしたら、転校手続といった所だろう。
ともあれ、先客が去ったので改めてノックすると返事が聞こえ、「失礼します」と一礼しながら入室する。
後ろ手に扉を閉めると、奥の執務机の向こうに腰掛けていた、豊かな白髪を綺麗に撫で付けた初老――校長が立ち上がり、机を回り込んで来ながらにこやかに迎えてくれる。
「やあ、忙しいというのに、わざわざ挨拶なんてすまないね、瀬堂さん」
「……さん付けなんて畏まらないで下さい。あなたは校長で、僕は一生徒。ここでも、学校の外でもそれは変わりません」
「君を歓迎しているのも事実だよ。ここでも、外でもね。ま、とりあえず掛けて掛けて」
促され、校長室の手前側にある応接スペースに腰を下ろす。革張りのソファは古びているものの、丁寧に手入れされていて独特な座り心地がした。
向かいに腰掛け、髪と同じように白い整えられた髭を指の腹でしごく校長は、その立場にしては珍しく気さくで闊達な人柄だ。廊下ですれ違った生徒にじーさんと気安く呼ばれても笑顔で応えるような人。
「ところで、さっき出ていった子は見たかい?」
「ええ、他校の生徒ですね。転入ですか?」
「そうそう。織原さんというんだけど、一年生で、君と同じクラスになる予定だから、よろしく頼むね」
よろしくなどと言われても、今日から夏休みで、実際にクラスメイトとなるのは一ヶ月以上も先の話なのだが。
「可愛い子だったよね。男子が盛り上がりそうだ」
「でしょうね」
「あれ、君は興味ないの?」
「ないというか、無縁なので。顔を見ればわかるでしょう?」
つい今しがた怯えられたばかりだし、と思いながら肩を竦めると、校長は背を反らして笑った。……いや、そこまで笑わせるつもりはなかったのだけど。
「はっはは、やや、失礼失礼。しかしそれは残念だな。編入した彼女の面倒を見てもらおうと思っていたんだけれど」
「僕にですか。そいうのはクラス委員に頼んで下さいよ……それとも、なにかワケありで?」
話の雲行きを怪しく感じて探るように問うと、校長はにぃっと、意味深に口髭を歪ませた。
「さあね、なにか相談されたわけじゃないよ……でも、何十年と教師を続けていると、何となくわかるようになってくるんだ。生徒がなにか抱えているかどうか、ね。それがどういった類のモノで、誰かに相談しているかどうか、とか」
「そこまで分かっていたら、教師の出番でしょう。生徒に任せるより余程良いです」
「……これはあくまで、私の持論、として聞いて欲しい。教委に怒られちゃうからね。もしも生徒が一人では解決できない問題にぶつかった時、教師は助けを求められるまで手を差し伸べてはいけない」
好々爺然とした校長から発せられる、らしくない空気に、僕は思わず目を瞬かせた。
「驚きですね。確かに教育委員会が黙っていなそうな、冷たい考えです」
「人に頼る方法は知っておくべきだよ。身近な人でも、赤の他人でもいい。たとえ善意でもこっちから手を差し伸べて、黙っていても誰かが助けてくれる、なんて思うようになってしまっては最悪だ。いつかまた窮地に陥って、誰にも助けを求めず、誰からも助けてもらえなかったら、より大きなモノを失うかもしれない。生徒でいる間は責任を取れるけど、後に来るツケは誰にも払えないんだ」
僕は腕を組んで、カチ、カチ、と壁掛け時計が刻む音に合わせて、肘の裏を指先で叩いてしばし考える。
迂遠なやり取りは慣れっこだが、そこには得てして癖のようなものが表れる。実のところ、この老教師と話す機会は今までほとんどなかったので、解釈を誤ると互いにとんでもない勘違いをするハメになる。
結局、無難な返答をする事にした。この後の予定もあるから、無為な思考は省くべきだ。
「つまり、うちの出番だと」
「そういう事。察しが良くて助かるよ」
「もともと挨拶がてら、そのお話をしに来たのですしね。今の教育論は一応、心に留めておきます。うちの介入基準の参考になるかもしれません。それと、織原さん、でしたか。彼女の件も、もし見かける事があれば注意は払っておきましょう」
校長はふっと顔を綻ばせると、鷹揚に頷く。孫とのやり取りを楽しむ老人のようでありつつ、己の職務に真摯に向き合う仕事人間の表情だった。
「頼りにしているよ、高校生探偵さん」
僕は嘆息する。からかい口調なのでわかっているのだろうが、一応、釘を刺しておく。
「肩書上、間違いではありませんが……建前ですよ。実態は程遠い、あまりにも、ね」
「でも、間違ってはいない」
「もっと相応しい肩書がある、という話ですよ」
「さあね? この最上沢第一高校は品行方正な学校だよ。そうだろう?」
人を喰ったような笑みに僕は言葉を返さず、「そろそろ本題に入りましょう」と告げた。
校長との話を終えた僕は、学校から徒歩十分にある南最上沢駅に向かう。午後からの予定の為の待ち合わせだ。
駅ビルが視界に入ると、相手が既に到着しているのが遠目にも見えたが……こういう時、声を掛けるべきかどうか、いつも迷う。
その人は一言で言えば、ファッション誌の広告からそのまま出てきたような風貌だ。百八十センチ代半ばの長身に引き締まった体格に、中性的ながら凛として頼り甲斐を感じる面立ち。落ち着いた服装も軽く整えた程度の髪も、素材の良さを爽やかに引き立てていて、派手な出で立ちよりもむしろ目を引く。
男の僕でも、女性は十代の内に一度はこういうお兄さんに憧れる、と言われたら納得する。
そんな待ち合わせ相手は今、若い女性二人とにこやかな表情で何かを話している。その二人の顔に見覚えはないので、まあいつもの事だ。
ここで僕が割って入ったら二人から顰蹙を買うな、と結局いつもの結論に至って、すぐ近くの壁に寄って待つ事にした。
それから程なくして、女性達は名残惜しそうな顔をしながら去っていき、手を振って見送ったその人はこちらに歩み寄ってくる。しっかりと気付いていたらしい。
「待たせたね、炸夜くん」
「待っていた側の台詞じゃないですよ、
僕らは並んで駅ビルへ入り、改札ではなく付設された駐車場へ向かう。
「まさか。道を訊かれてただけだよ」
「なるほど。それで?」
「折角だから案内してあげたいところだけど、外せない用事で待ち合わせなんだ、ってね」
「見本のような断り文句だ」
「本当なんだから仕方ない」
篝さんとの付き合いはかなり長いのだが、一人でいる所をほとんど見た事がない。いましがたの待ち合わせのように一人になるとすぐ、女性や芸能事務所の人に声を掛けられる。以前少し東京に出向いた時には、ホストの勧誘がしつこく食い下がってきたなんて事もあったな。
駐車場に着くと、停められていたネイビーのランドクルーザー・プラドの後部席を開けてもらい、乗り込む。運転席に回った篝さんがエンジンを掛ける後ろで、僕は制服から着替える。
「予定に変更はなし?」
「ええ。ただ伝達事項ですが、やはり今年は第一高校の見張りもする事になりました」
答えながら眼鏡を外し、前髪を上げてメンズカチューシャで留める。視界が少しすっきりして、頭が冴えるような感じがした。
先刻に校長と話していたのはこの件だ。夏休み中、もし生徒が対応の難しい事件に巻き込まれたり、あるいは起こすような事があれば、対処して欲しいと。
「そっか。折角の夏休みなのに、忙しくなるね」
「案外そうでもないと思います。この辺の治安は良いし、第一高校もそんな問題児を抱えているわけじゃないですし。些事ぐらいは起こるかもしれませんが、対応するのはあくまで我々が介入するに足る事案だけですよ。社交辞令ってとこですね」
篝さんが片手でハンドルを握りながら音楽をかける。車内に流れ始めたのは、顔に似合わずラウドロックだ。いま乗っているいかついフォルムのランクルも、仕事用の足で使っているが、篝さんが趣味で購入した私有車である。
「でも今日の案件次第じゃ、社交辞令じゃ済まなくなるかもよ?」
「わかっていますよ。いざという時の仕事は頼みます、ボディーガードさん」
「了解、ボス。それとオレの事は秘書って呼んで欲しいな。最近はそっちがメインだし」
「でしたらせめて、所長と呼んで欲しいですね」
「くくっ、そのヤンキーみたいなナリで所長って。まだ総長の方がしっくり来る」
喉からあげる篝さんの笑い声が激しいギターリフと重なった、この時はまだ、校長が語ったベテラン教師の勘を甘く見ていた。
その事を思い出す余裕など、ほとんどなかったのだけど。
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