一_2、日陰の少年と、紳士傘の少女

          ◇◇◇

 バクバク音が聞こえるぐらい激しく鳴る心臓に、めまいがしそうだった。

 全力で駆け出したい思いに何度も何度も駆られるけれど、細く残る理性がブレーキをかけて、必死に早歩きに留める。

 重い足音が三つ、後ろから聞こえてくる。さっきからずっと、わたしの後ろを。

 幸いここは人通りが多いから、向こうも走っては来ないみたい。だけどわたしが走り出したら、きっとあの三人もそうする。そんなことになったら、追いつかれる。

 土地鑑もなく逃げ続けるわたしに向かって、何か言っている気がする。胸から響く音がうるさすぎて、なんて言ってるのかわからない。

 この夏の暑さでも、運動のでもない汗が、背骨の上を伝い落ちていく。

 なんでこんな事に……って文句も言いたくなったけど、考えてみればわたしのせいだ。

 最上沢このあたりの人に訊きたいことがあったから、それについて知っているかもしれない人に目星を付けて声を掛けたんだ。出来る限り悪そうな人に。

 大丈夫、怖くなんかない、と思ってた。これぐらいで挫けてたらダメだって奮起した。

 振り返ったその男の人は、こめかみから顎先にかけて傷痕があって、襟ぐりからは和柄のタトゥー……というより彫り物が覗き見えて、おまけに取り巻きっぽい人が二人いた。

 つまり、それっぽい人だったから、わたしもその人を選んで話しかけたのだけども。

 固めた覚悟がたった一秒でポッキリ折れたわたしは、反射的に謝って、即逃げ出した。しかも多分、かなり怖がった顔をしてたと思う。話しかけられたと思ったら怯えた顔でいきなり背を向けられて、そんなの誰だって怒ると自分でも思う。

 自分のせいだってわかってても、もう後の祭り。

 いつまで逃げればいいのかわからない。どこに逃げればいいのかもわからない。追い付かれたら終わり、人気が途絶えても終わり。

 どうしよう。もう少しで手が届くはずと思ったのに。

 そんなの実は勘違いで、わたしはとっくに詰んじゃってたのかもしれない。


          ◆◆◆

「今更だけどさ、いいのかな、炸夜くんが出張って来ちゃって。この件は危険かもしれない」

 最上沢市東北部、東に隣接する玄鳴くろなき市との市境にもなっている繁華街。ランクルから降りた僕らは、それなりに人通りのあるその街を目的地に向かって並んで歩いている。

 繁華街とは言うが、歓楽街という色も強く、夜になれば見た目以上の人口になる。終業式を終えた高校生がその足で散り散りになっているはずだが、日中とはいえさすがに制服姿は見えない。

「あなたがいれば問題ないでしょう」

「そうだけど。オレの仕事が少ないに越したことはないでしょ」

 向かっている先は、この通りの先にあるバーだ。当然営業時間外だが、今回行う事になった調査に関連して聞き取りを依頼したところ快諾してくれた。

「二、三日前から見かける不審人物の調査……始める前から揃ってる情報だけでも、十中八九ヤーさんだもの。高一に任せるのもどうなのかなって」

「経験を積むなら早い方がいい。もしかしたら僕のになるかもしれませんし、だったらなるべく肌で感じておきたい」

「……ほんと母親似だよね、炸夜くんて」

「母は十四の時に筋者を恫喝して屈服させていますよ。似ているなんてとてもとても」

「いやー、言っといてなんだけど、あの人は色々別格だからなぁ……」

 篝さんが苦笑する横で、僕は遠く視界に映ったそれに気付いて嘆息する。

 昼間とはいえ、夜の街であるここで高校の制服は目立つ。ましてやそれが、最上沢と玄鳴のどの学校のものでもないなら尚更だ。

 おまけに何故か、雨の予報もないのに、似つかわしくない大振りの紳士傘を抱き締めるように持っている。

 しかしまさか早々に、校長の懸念が的中するとは思ってもみなかった。

「篝さん、あれ、見えます?」

 声のトーンを下げて問うと、それだけで意図を汲み、篝さんは僕の視線の先を追う。

「……うん、可愛い女の子だね」

 おどけたような言葉とは裏腹に、その声には刃物のような鋭さが備わっていた。

 僕達は同時に、進行方向をわずかに変える。丁度少女らと正面からぶつかるように。

「うちに転校予定の人ですので、慎重に」

「後ろのはどうする? 対象の可能性がある」

「探るのに留めて下さい。止めても無駄なら、その限りじゃないですが」

「了解、いまはまだ紳士のお時間といこう」

 徐々に距離が縮まってくるにつれ、街中を歩くには不自然な早足と、彼女の必死な表情がよく見えるようになってくる。その後ろに追従する、これまた不自然なぐらいの大股で歩く三人組は、どう見ても社会貢献なく利益を得ようとする方々だった。

 接触間際、僕と篝さんが離れて隙間を作ると、少女はそこを通ってすれ違う。

 続く三人のうち、先頭を進む三十代半ばと思しき男が、僕を押し退けようとして――篝さんの手が進路を遮るように伸ばされ、そっとその手を掴む。

「あんだコラ――」

 恫喝し慣れた太い声が、半ばで途絶えた。篝さんはまだ手を掴んで止めただけだが、怒気に赤く染まりかけた男の顔が、引き攣って血の気が引いていく。

 一瞬彼は、掴まれた己の手に視線を向ける。その指の付け根は、牙のように立つ篝さんの指先に捉えられていた。

「テメッ、『毒蛇』……!」

「んー……? どこかで、お会いしたかな?」

 篝さんが妖しく笑う。とぼけているわけではない。なにせこの職種で篝さんの顔見知りと言えば、大抵は既に塀の中に放り込まれている。

 それを知らない取り巻き二人が色めき立つが、先頭の男が、空いている手で制した。

「……離せよ。あの嬢ちゃんがこっちに話あるらしいんだからよ」

「ふーん。顔についてるよって教えたかったんじゃない?」

「――ええ加減にせえよクソが」

 我慢ならなかったのか、背後に控えていた一人が、篝さんに掴みかかろうと手を伸ばす。顔に傷のある男の、やめとけ、という言葉も間に合わない。

 傍目には、篝さんは伸ばされた手を、ただ叩き払っただけに見えた。

 次の瞬間、取り巻きは糸が切れたようにがくっと、その場に両膝を突く。呆けた表情は、何が起こったのかをさっぱり把握していない。

 ――指だ。篝さんは掴みかかろうとする手指に、瞬時に己のそれを絡め、指関節を固定。そこで一瞬だけ引っ張りながら捻りを加え、伸び切った手首、肘、肩を極めた。一本の棒となった腕を今度は押し込み、上体を反らさせる。不意の重心のズレにバランスを失うのと同時に、支点となる指を解放。支えるもののない身体は必然、崩れ落ちる。

 関節の可動性と力学的な効率を利用したそれは合気道系の柔術だが、技の始点としたのは、篝さんが得意とする指獲ゆびとり

 古流武術の技法の一つを特化させたものだというそれは、文字通り、相手の指を支配する。絡め、極め、外し、折り、砕き、自在に奪う。荒事において、指の喪失は見た目以上に能力を削ぐ。拳を作る事も、得物を握る事も出来ないのだから。

 故に、毒蛇と呼ばれていた。絡み付くように、毒牙で弱らせるように、じわじわと自由と意識を奪い取る。

 無論、ポリシー上それで死に至らしめる事などはしない。膝をついて無防備な顔面に追撃の蹴りでも入れればトドメとなるが、残念ながら自衛と暴行のボーダーラインである。

 知ってはいても実力を目の当たりにするのは初めてだったのだろう、いまだ手首に食い付かれている男の傷顔が歪んでいく。奇しくもそれは、彼らが追っていた少女が浮かべていた表情によく似ていた。

 そこに至ってようやく、追手が立ち止まっている事に少女が気付いて振り返る。荒い呼吸を繰り返しながら、何が起こっているのかわかっていない様子で。

「……いくぞ、立て」

 男が掴まれた手をそっと引いていくと、篝さんはあっさり解放した。警戒を見せながらゆっくり後退し、膝を突いたままの取り巻きの尻を蹴り飛ばすと、ようやく背を向けて苛立ちを見せながらも去っていく。

「……どうしようか。尾けたいところだけど、顔が割れてた」

「どの道いまのでアウトですよ。木城きじょうさんに頼んで二班を動かしてもらいましょう。篝さんは予定通り、バーで聴取を」

「オレは、って。炸夜くんはどうするの」

「用が出来てしまいましたので」

「――あ、あの……」

 遠ざかっていく推定進行中案件への注視を外し、僕らは声の主へと向き直る。

 良くも悪くも予定変更を余儀なくし、更に追加案件となった少女は、いまだ不安げに傘を胸の前で握り締めていた。


          ◇◇◇

 ……突然のことで、まだいまいち実感が湧かないのだけど、わたしは助かったらしい。

 まだ収まらない動悸をおさえつけるように、深く、ゆっくり、呼吸を落ち着かせる。

 呼び掛けると、その二人が同時にこっちを見て、反射的に身を竦めてしまう。

 ……大丈夫、大丈夫。この人たちは怖くなんてない。なによりまず、言わなきゃいけないことがある。

「ありがとう、ございました……その、失礼します」

 口が渇いていて少し呂律が怪しかったけれど、頭を下げて踵を返す。

 本当は何かお礼できたらと思うけれど、わたしは今、やらなきゃいけないことがある。急がなきゃ手遅れになるかもしれない。

 ……暑い、な。頭もちょっと、ふわってする。

「待って」

 背後からそう声をかけられたものの。焦る頭はそれを聞き流す。なまじ早足で歩いたせいか、走ったわけでもないのに足が重い。

「待ってって……織原さん」

 再度の呼びかけも一瞬スルーしかけて、はっと振り返る。

「なんで……わたしの、名前」

 追われるわたしを助けてくれた二人のうち、背の低い(といってもわたしより頭半分ぐらい高い)方の人が肩を竦めた。

「最上沢第一高校の生徒だよ。一応、九月から君のクラスメイトだ」

「あ……そう、だったんですか」

 よく考えてみるとそれは名前を知ってる理由にはならなかったけれど、そうした素性はいまのわたしを安心させるには充分だった。もしかしたらさっきよりまずい状況なのかも、なんて一瞬思ったりしたから。

 気が緩んだのも束の間、話をしようとしてか彼が一歩踏み込んだのを見て、わたしは無意識に半歩下がっていた。

 やってしまった、と思ったけれど、その人は不快そうな顔の代わりにため息をついて、その場で害意はないというように両手をひらひらさせる。その横では、背の高いモデルみたいな人がくすくす笑っていた。

「……わかった、そういうのは慣れてる。ただ少し、場所を変えて少し話をさせて欲しい」

 そういうの、とは? 気にはなったけど口にはしないで、別の言葉を向ける。

「その……わたし、用事がありまして、行かないと……」

「そう。僕に止める権利はないけど、その格好で出歩くつもり?」

 意味がわからず首を傾げると、彼はまたため息をついて目を逸らし、何かジェスチャーで伝えてくる。何もない腰のところをぽんぽん叩いて、羽織るような仕草。

 肩に提げた鞄に引っ掛けてある、前の学校のブレザー(いま思うとなんで持ってきたんだろう。夏だし、制服も変わるし)を着ろってことみたいだけど……暑いから脱いで掛けてるのだし、さっきの汗がまだ引いてないから気持ち悪いし――

 汗、というのに思い至って、自分の身体を見下ろす。濡れた白いブラウスが肌にぴったり張り付いて、少し、見えてた。しかも思えば、さっきの経緯で少しばかり人目が集まっている。

 かっと顔が熱くなって、更に汗が噴き出てくる。あげそうになった悲鳴は必死に堪えて、慌ててブレザーを着た。

 そこで彼もわたしを正視して、踵を返しながら手招きする。

「落ち着くまでどこかに入ろう。見たところ、軽い脱水症状もあるようだし」

 この時、わたしは決して目的を忘れてたわけじゃない。だけど彼のいう通り、水分不足で薄ぼんやりした頭は、水と休息を求めてあっさり従うことを決めた。

 後々、恥ずかしい思いはしたけれど、頑なに拒まなかったことを、わたしは褒め称えたい。


          ◆◆◆

 織原深凪。そう自己紹介した少女と僕は、付近のファストフードチェーンの席で向かい合って座る。篝さんは先程話していた通り、当初の予定を遂行してもらう為、この場にはいない。

 落ち着くにはもっと適した店はあるのだが、そうした所よりも知っている店の方が、織原さんも安心できるだろう。

 その織原さんははじめ遠慮がちだったが、ストローに一口付けると、やはり喉が渇いていたらしく一気に吸い上げた。

 その間、僕は一応携帯しておいた眼鏡をかける。

「目、悪いんですか?」

 ずぞぞー、と氷だけになった紙カップから空気を吸い上げる音に少し頬を染めながら、首を傾げてそう訊いてきた。

「いや、自分がヤンキーみたいな強面だって自覚があるから、この方が多少はマシかなと……ま、校長室の前で出くわした時の事を考えたら、気休めかもしれないけど」

 ストローから口を離して、「校長室……」と反復し「あ」と声をあげた。かと思えば、気まずそうに目を逸らす。

「すみません。あのとき顔を見ていなかったもので、気付きませんでした」

 ……なんてこった。顔を見て怖がられるのには慣れているが、顔も見ずに怯えられてしまうのは初めてだ。さすがにヘコむ。

「あの、でも、コワモテのヤンキーというより、ヤンキー映画の俳優さんみたいだと思います」

 それって結局いかついヤンキー顔ではなかろうか。とはいえ一応フォローのつもりらしいので、突っ込みは心の中に留めておく事にする。

 ……しかしさて、それはそれで引っかかる。顔も見ずにビビるのは尋常じゃない。そういえば……と考えて、ふと思い至った。

「もしかしてだけど……織原さん、男性恐怖症?」

 彼女は一瞬驚いたように目を見開くと、わずかな逡巡を経て、こくりと頷く。

「……そうです。よく、わかりましたね」

「こういうのもなんだけど、篝さん――さっきまで一緒にいた人を見て、気にも留めない女性はなかなかいない。そんな事よりも、だけど」

 言いながら間にあるテーブルに少しだけ身を乗り出すと、織原さんは顔を強張らせて身を引いた。やれやれ。

「これじゃ生活にも支障があるだろうに。重症といっていい。なのに何で転校先に第一高校なんて選んだのさ。玄鳴市になるけど、そう遠くない場所に女子校だってある」

 腰を落ち着かせると、背を反らしたままの織原さんは目をぱちくりさせる。

「……失念してました。最上沢、としか考えていなかったもので……」

 そんなに視野が狭くてよくやっていけるな、と思いはしたものの、はたと気付く。

「恐怖症って、最近になって?」

「…………」

「……わかった。そのあたりの事情は詮索しないでおく。ただ、本題には答えて欲しい」

 浅く頷いた事を確認してそう告げた。なんとなく話が逸れてしまったが、元々はさっき陥りかけた厄介事について問い詰める為に呼び止めたのだ。

「さっき、君が追いかけられていた事についてだ。お世辞にもまともとは言えない人達だったし、彼らの言う通りなら、原因の一端は君にある。どうしてあんな事に?」

「あれは、その……実際、わたしが十割がた悪かったんですけど……」

 そんな切り口で辿々しく語られた経緯は、彼女自身の責を過大にしている可能性を踏まえても、確かに織原さんが原因としか言えなかった。何も追いかける事はないだろうとは思うが。

「なんでまた、そんな相手に話しかけたの。少し注意して見れば筋者だなんてわかるでしょ」

「……多分、一番の近道なんです。ああいう人達が」

「近道?」

 ――唐突な、その瞬間の彼女の表情は、ひどく印象的だった。

 それまで見え隠れしていた怯えや恐れは消え失せ、細めな頬のラインや鼻筋、睫毛の一本一本、髪の一筋一筋までもが凛と張り詰め、鮮烈な輪郭を持って見えた。繊細なガラス細工のように透き通る純粋な意志が、その黒い宝石のような目に宿る。

 刹那、見惚れてしまう程に。こんなにも美しいモノが存在するのかと幻想してしまう程に。

 それは既視感のような。僕はその美しさが何なのかを知っているのに、気付く事が出来ない。

「――父を、捜しているんです」

 かすかな震えを含んでいた声音はいま、静かながら、一字一句全てを大切に紡ぐような明瞭さに満ちていた。現にそうだったのか、僕の錯覚なのかはわからない。

最上沢この町のどこかに父がいるはずなんです。だからわたしは、ここまで来た」

 鮮明に形作られた言葉を噛み砕いていく事で、どこかに囚われていた思考が徐々に現実に引き戻されていく。言葉を返す頃には元通りに。この織原深凪という少女に抱いた印象を除いて。

「念の為。君の父親は、暴力団関係者という事ではないよね?」

「違います。あんな人達の得になるようなことなんて、なにも」

「でもそういう人らが、近道だと。何をしでかした?」

「…………」

 彼女は唇を噛み締め、手にした紙コップの中の氷が音を立てる。

 まあ、人に話せない事情というのはよくある。この類の話なら尚更だ。

 だけど正直、このまま放っておくのもよろしくない。親切心とかではなく、まだ登校してすらいないとはいえ一応クラスメイトで、そんな彼女に闇社会の影がちらつくのは面倒だ。

「――これは、いま織原さんが取れる選択の一つだ。どうするかは、自分で決めて」

 僕は内ポケットの中、生徒手帳と一緒にしまっているカードケースを出し、名刺を一枚抜いて織原さんの前に差し出す。

『HandS探偵事務所 所長 瀬堂炸夜』

 手に取って名刺を眺めていた織原さんは、一転してきょとんとした顔になり、名刺と僕の顔を見比べた。

「え、あれ。瀬堂さん、高校生なんじゃ……」

「兼業だよ。とはいっても、実務はほとんど二十人いる所員がやってる」

「……本当にいるんですね、高校生探偵、しかも所長さん……」

「言っておくけど名探偵みたいな事はしないからね」

「わ、わかってます。現実の探偵って、浮気調査とか、ですよね?」

「まあ、間違ってはいない。尤もうちの場合……いや、この話は一旦置いておこう」

 織原さんは不思議そうな顔をしたものの、何も言わずに視線を名刺へ戻す。そうしている内に、彼女の眉間に皺が寄り、徐々に深くなっていく。

 迷いの理由はやはり暴力団絡みで、避けて通る事が出来ない道なのだろう。だから人捜しの専門家を前にして、口にすべき事を躊躇している。僕にとっての彼女がクラスメイトであるように、彼女にとっての僕もそうなのだから。

 だがやがて決心がついたのか、唇を引き結んで顔を上げた。男である僕をまっすぐに見据え、一瞬浮かんだ怯えはすぐに消え去り、堂々とした強さを感じる姿勢に直る。

「あなたは、わたしに手を差し伸べてくれているのだと思います。わたしは何としてでも、父に会わなければいけません。だから、あなたの手をわたしは振り払ったりしない。その上でお訊きします。いまはまだ、詳しくお話しできませんが……父を追うことはきっと、を敵に回すことになります。それでも、わたしがその手を取ったら、握り返してくれますか?」

「まさか、僕に覚悟を問いかけているのか? そんなのは愚問だと、さっきのを見て察して欲しいところだ。逆に、『なんとしてでも父に会わなければ』と言った君の覚悟を訊きたい」

 テーブルに肘を乗せて、睨めつけるように見上げるけれど、今度は身を引くような事はなく、微動だにせず見つめ返して来た。

 こういう時、どんな風に構えれば見えるのか、教育の一環という事で母に叩き込まれている。日常に溶け込んで生きる身なれど、立ち入ってはならない境界線は明確に。その領域を承知して踏み越えようとする者には、相応に、真摯に向き合うべしと。

「僕は兼業をしてるが、二足の草鞋じゃない。もう一つ肩書がある。顔を見ればわかるでしょ」

 眼鏡を外す。こういう顔に生まれた事を別に後悔はしていない。むしろ、わかりやすくて良い。眼鏡の着脱だけで、僕自身の立場、在り方を切り替える事が出来るから。

「――僕も、ヤクザだよ」

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