一_3、日陰の少年と、紳士傘の少女

          ◇◇◇

「さて、遅くなっちゃったけど改めて自己紹介しとこうか。緋州ひしま篝。探偵事務所の方では一応所長秘書で、の方は炸夜くん専属ボディーガード……いや、用心棒の方がいいかな?」

 夕刻の夏陽が色付いてくる頃、ランドクルーザー(という車種らしい。車のことはあまり知らない)の後部席にわたしを招き入れた後、運転席に入った緋州さんはにこやかに告げた。

 さっきはあまりよく見ていなかったけれど、改めて見てみると、本当にモデルさんみたいな人だ。それも海外のレベル高いファッション誌に載っていそうな。涼やかな顔立ちも整っていて、瀬堂さんのいう通り、少し前のわたしなら見惚れていたかもしれない。

 その瀬堂さんは助手席で腕を組んでいて、バックミラー越しに目が合うと、何度目になるかわからないため息をついた。

「炸夜くん、さっきから機嫌悪そうだけど、どうしたの?」

「……どうも何も、経緯は話したでしょう。呆れてるんです。織原さん、君は馬鹿なの?」

「こらこら、会ったばかりの女の子を馬鹿呼ばわりはダメでしょ」

 それを言われるのも何度目だろう。でも何も言い返せないので、恐々と頭を下げるしかできない。

 わたし自身ばかだと思う。かなり。をしていて初めて気付いたぐらい。そうでなくても日が沈めば気付いたと思うけれど、その時には後の祭り。あそこで瀬堂さんと緋州さんに助けられた奇跡のような偶然に感謝するしかない。

 怖がっていてはどうにもならない。そう痛感したばかりのわたしは、転がり込んできたチャンスを逃すまいと、ヤクザだと警告してきた瀬堂さんに依頼することにした。

 最初に「馬鹿なの?」と言われたのは、そのすぐ後だった。

『……わかった、君の父親を探す依頼、受けよう。ただ僕も仕事だ。明日、正式に契約を結ぶ事にする。詳細もそこで、今日のところはお開き。篝さんに車で家まで送ってもらおう』

『……………………あ』

『ん? どうかした……って、なんで頭下げてるの』

『……………………家、ないです』

『ん? ああ、まだ越してきたわけじゃないのか。どこかホテル取ってるの?』

『……いえ……その、最上沢こっちに住むとこ、なくて。ホテルとかも取ってないです』

『……実家は?』

『…………東京、です』

『…………遠いな。わかった、泊まる所を手配しよう。女の子一人でも安全で安めな――』

『その……ですね。わたし、お財布持って出てきちゃっただけで……実は、ここまでの運賃ですっからかんでして……カードとかもないんです』

『……………………あのさ、ねえ…………馬鹿なの?』

 言われるまでもなく最初に気付いた時点で泣きそうになりましたよ、はい。

 滞在する準備さえなにも整えていないのに、転校手続きだけ済ませたことも「真面目か」と呆れられた。東京は片道二時間以上かかるから、その時はしっかり後先考えていたつもりだったのだけど、とんでもない。そもそも夏休みなので通学自体しないのに。

 ……本当、なにも考えてなかったな、わたし。お父さんを捜さなきゃって思いで頭がいっぱいで、なにもかもが足りてない。

 ――あのことだって、わたしの浅はかさが招いた結果なのだ。

「まあいいじゃん、何とかなったんだし。ホームレス女子高生なんて何が起こるかわからないよ? 最初から神待ちする気でもなきゃね」

「神待ち、とは? 神社で何かしたり?」

「知らないならそれが健全だよ。それと篝さん、それ禁句の類です」

「失礼、口が滑った」

 そんな話をしている内に、車は十階建ての立派なマンションの駐車場に入っていく。瀬堂さんと緋州さんはここで二人で暮らしているらしく、さしあたりわたしは泊めてもらうことになった。呆れすぎて思考停止した瀬堂さんが電話で相談した、緋州さんの提案だ。

 車を降りて駐車場と繋がっている、そこに住めそうなぐらい広いエントランスを抜けてエレベーターに。緋州さんが押したボタンは十階。男の人二人と狭い空間の中にいる状況に緊張していると、瀬堂さんが無言で緋州さんに手のひらを差し出した。緋州さんは不思議そうに首を傾げながらも意味が通じたらしく、その手に鍵を渡した。

 直線の通路に出て二人についていくと、瀬堂さんは一番奥の扉に鍵を差し込んだ。そしてドアノブに手を掛けたまま、何故かそのまま止まる。

「……どうかした?」

 緋州さんがそう声を掛けるも反応せず、しばらくするとノブから離した手を腰に手を当てて深いため息をついた。肺の中身全部吐き出したのかってぐらいの間の後、じとっとした目でわたしを見た。

「……織原さん、君、何を考えてるの?」

「え……何、とは」

 言葉は違ったけど「馬鹿なの?」のカウントがまたひとつ。

 彼はこめかみを軽く搔いて、心底呆れたという顔だ。

「どうしてこう何の疑問もなくついてくるのさ。君は男性恐怖症だと言った。なのにどうして、泊まる所がないからって男二人が住んでる部屋にあがろうとする?」

「……んー? ちょっと、炸夜くん?」

 物申したいことがある、と言いたげに緋州さんが口を挟むけど、瀬堂さんは無視する。

「警戒心がなさすぎる」

「……やましい気があるなら、こうして注意しないと思います」

「どうだろうね。とみなすかもしれないし、信頼を得て警戒を緩める気かもしれない」

「だったらなんで、わたしに覚悟を訊いたんですか?」

 ついそう言うと、瀬堂さんは眉を顰めた。

「もちろん、その、そういう気はないですけど……自分はヤクザだって言いながら、依頼するかは自分で決めろって。本当のところは怖いですけれど、それじゃ詰みなんです。怖いからって止まってたら、お父さんを見つけるなんてできないんです」

 正直なところ、怖いという気持ちも、抵抗感があるのも、本当。でも、それはほんの少ししかない。なんとなくだけど、この人たちは、ヤクザを名乗りながらそういう人じゃない。

「それに、ここでわたしを追い返したら、これまで無駄な時間を過ごしただけになると思いますし――お二人を、信頼してはだめですか?」

 ぐ、と唸りながら、瀬堂さんはさっきより強くこめかみを掻く。その肩を、ぽんと緋州さんが叩いた。

「はいはい、家の前だし立ち話はこの辺でね。大丈夫だよ、炸夜くんはこう見えて、女の子と一緒にいるぐらいじゃ手を出せないヘタレだからさ」

「クビにしますよ篝さん」

「それは困るな。三食部屋付きの仕事なくなったらオレ死んじゃう」

 そんなことを言いながらも笑って扉を開けてくれて、瀬堂さんが憮然とした顔をしながら中に入る。まだ納得はしてないみたいだけど了承ということらしい。

 続けて玄関に入ったわたしは、ほんの少しだけ考えてから、ずっと手に持っていた傘をそっと傘立てに入れた。



 二人が住んでる部屋は綺麗で、マンションの外観から想像できていたけど、わたしとお父さんの二人で住んでいたところよりも広々としていた。質素な印象だけど物が少ないわけじゃなく、装飾の類を排して整頓されてる感じ。壁際にでかでかと置かれた本棚を始め、むしろ生活感を見て取れた。

「適当に座ってて。お客さん用の部屋があるから、後で片付けておく」

 リビングにある、低いガラステーブルを挟む形で置かれた、三人掛けソファに腰を下ろす。硬くはなく、身体が沈んでしまうほど柔らかいわけでもない、良い感じの座り心地。そこからはダイニングキッチンが見えて、そっちには背が高めの木目のテーブルと個別の椅子があった。

「明日にするつもりだったけど、契約書は今日作ってしまおうか。織原さん、判子はある?」

「あ、はい。学校で使ったので持ってきてます」

「時間かかりそうだから、オレは先にシャワー浴びてきちゃうね……あ、そうだ」

 風呂場に向かおうとした緋州さんは何かを思い出したらしく、玄関から出ていった。瀬堂さんは契約書の準備をしているようで、リビングの角にあるスペースで何やらパソコンを操作している。

 手持ち無沙汰でしばらく部屋を見回していると、何分かして緋州さんが戻ってきた。その手にはビニール袋が提げられている。車に置きっぱなしだったのを持ってきたらしい。

「はい、これ。迎えに行く前に用意しといた」

「え……と?」

 いきなり手渡されて戸惑うけれど、中身を覗いてみて今度は驚く。

 袋の中身はシャンプーにコンディショナー、椿油といったヘアケア用品が詰まっていた。しかも、いつも見かけては買おうか迷って結局諦める、結構高いブランドの。

「すごい綺麗な髪してるから、ちゃんと手入れしたいだろうと思って。他に欲しい物があったら買ってくるよ」

「いえっ、そんなとんでもない……! いいんですか、これ?」

「いいのいいの。給料もらってても生活のほとんどが経費だから、使い道ないのオレ」

「……よく気が付きますね篝さん。そういうところもモテるんでしょうね」

「見ればわかるでしょ。こんなにツヤッツヤの綺麗な髪、毎日丁寧なケアを何年も続けないとならないよ。オレが美容師だったら切るのも畏れ多いぐらいだ」

 それじゃ今度こそシャワー行ってくるね、と緋州さんは風呂場に引っ込んでいった。

 諸々のことはすっかり忘れて、内心ものすごくテンションが上がった。今すぐ使ってみたい。せめて椿油だけでも……なんて衝動に駆られたところで、お礼を言いそびれたことに気付く。

「……こういうのさらっとやってしまうの、本当にモテるんでしょうね」

「あの人、学生時代のバレンタインに校内だけで三桁の本命もらった伝説もあるからね」

 なにその漫画みたいな伝説。そんな人がボディーガードって、瀬堂さんが女の子だったら完全に少女漫画の世界じゃない。

「……さて、こっちも準備できた」

 そう言って瀬堂さんは軽く肩を回すと、プリンターから出てきた紙をわたしの前に差し出し、その横にボールペンを置いた。

 その紙束を見て、上がっていたテンションが一気に消失するぐらい、愕然とする。

「……え、契約書ってこんなにあるんですか……?」

「違法な内容を含まない限り、法的根拠を持つ利益の源泉だからね。後になっていざこざが起こらないよう、あるいは起こっても対処出来るように細かな取り決めをするものだよ」

 目の前のA4紙には、ずらっと文字が隙間なく並んでいて、しかもそれが百枚近くも積み重なっている。

「ちゃんと読むように。読み終わったら最後のページに記入欄あるからサインと印鑑」

 そう言って瀬堂さんはパソコンの方に戻っていくけど、わたしは契約書のあまりの多さにげんなりして、なんて書いてあるのか全く頭に入ってこない。

 下手したら小説一冊分ぐらいの文量がありそう。こんなの読んでいたら朝になってしまう。

 わたしは紙束を親指でそっとずらして、一番下のページまでスキップする。ペンを取って、氏名欄に自分の名前を書い……て……あれ?

 ボールペンの先端をくるくる回して外して中を見てみると、インク切れだった。

「あの……瀬堂さん、他のペンありませんか? インク切れちゃってて」

 呼び掛けると彼はすぐ立ち上がって、ペン立てから一本抜き取るとわたしの正面に座り、差し出してくれる。けど、それを受け取ろうとするとすぐに引っ込められてしまった。

「……? あの?」

「ちゃんと読んで、と僕は言った」

 えぇー、と思うものの、契約書を作った本人がサインさせてくれないので、仕方なくこの分厚い書類に目を通して「んへっ」やだ変な声出た。

 読む必要なんて全然なかった。最初の行から既におかしい。それは確かに契約書だったのだけど、依頼者名は消した跡があって、受託者が胡散臭い金融会社っぽい名前だった。

「こないだ警察に引き渡したヤミ金の契約書。提出資料として取っていたコピーだよ。インク切れたペンはたまたまあったから使ったけど、仮に署名しても効力はない」

「……瀬堂さん、いじわるですね」

「ヤクザの世界に関わろうとする割に危なっかしいからね。こっちが本物」

 偽物の束を引っ込めて、今度はA3のしっかりした質の用紙が出された。依頼者を織原深凪、受託者をHandS探偵事務所と記されたそれは、さっきのと比べればかなり見やすいレイアウトになっていて、枚数もたった二枚二組の計四枚だけだった。

「わからない所があったら言って。騙したりしないから」

 再びパソコンに戻ると、背を向けながらそう言ってくる。

「……騙したりしない、っていう言葉自体が嘘だったり」

 恐る恐るそんなことをいってみると、彼はかすかに肩を震わせた。笑ったのかもしれない。

「そうそう、その調子。人を疑わないのは美徳たりえるけど、現実的には常に疑ってかかるべきだ。秩序や法は万能の神様じゃない。自分を一番守れるのは自分なんだ」

「――神様なんて、ヤミ金みたいなものですよ」

 小さく呟いた言葉は届かず、「どこか引っかかる所でも?」という声が返ってきた。

 首を振って、今度はちゃんと契約書に目を通す。内容も簡潔なもので、だいたいだけど質問することなく理解できた。要約すると、

受託者(以下、甲)HandS探偵事務所は依頼者(以下、乙)織原深凪が行う織原漣至れんじの捜索に協力する』

『甲は本契約が有効な期間、乙に対する生活の保障及び身辺の安全を確保する』

『本契約における目的は、必要に応じ甲乙両者による協議の下、変更があれば覚書に締結する』

『本契約の遂行に対する報酬は、甲乙両者による協議と合意の下、別途覚書に締結する』

 異議はなく、二枚目の署名欄に名前を書いて判を捺し、念の為確認して割印も捺す。社会経験皆無のわたしでも、これが恐ろしく好条件なのは読んでいてわかった。

 記入を終えたことを告げると、瀬堂さんは軽く目を通して特に何も言わず、一組を引き出しへ、もう一組を折ってクリアファイルに挟んだ上で封筒に納め、手渡してくれる。

「契約成立だ。所長として、僕個人として、君の力になる事を約束しよう」

 そう笑ってみせた彼は、ヤクザだと言うし、だいたいは無愛想だし、いじわるだし、何度もばか呼ばわりするけど、なんだかんだ優しい人なんだと思う。多分、初めて来るこの土地で、一番信頼していいぐらいには。

 そして不意に、わたしの背後を見た瀬堂さんの顔が渋く歪む。

「風呂場空いたよ。湯船浸かりたかったらお湯張っとくけど」

 なんとなく振り返ってしまってから、わたしは固まった。

 そこにはシャワー上がりの緋州さんが、まだ濡れている髪を拭いていたのだけど……

「……篝さんさ、何度も言いますけど、服着て下さい」

「暑いんだもん。夏ぐらいいいでしょ」

 素肌を盛大に晒している緋州さんには、無くて、有った。いや、有って、無い?

「あのですね、お客さんいるんですけど」

「だからさ、ほら、下着。いつもならマッパだよ?」

 たしかに下着は身に付けている。スポーティな、スウェット生地のピッタリしたやつ。

 大きくはないけれど膨らみがはっきり見えた。上の方に。

 さっき玄関前で緋州さんが口を挟んだとき、何を言いたかったのか察した。

 ……緋州篝さんは、女の人だった。

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