一_4、日陰の少年と、紳士傘の少女
「織原さんの父親の捜索、個人的にも理由が出来た。ぶん殴らないとちょっと気が済まない」
織原さんがぎょっとして、篝さんが苦笑した僕のその発言が出たのは、夕飯を囲んでいる時の事だ。それを食事と認めるつもりがないから出た言葉なのだけど。
客前にも関わらず下着姿でうろつく篝さんに説教した後、夕食を作ろうとしたところ、せめて夕飯の支度はさせて欲しいと織原さんが申し出たのだ。
彼女なりの努力、と考えれば無碍にするわけにもいかなかったので、任せてみる事にした。しかしその時に止めるべきだったのだ。少なくとも、自分の財布の中身で足りるから、と買い物に出た時点で。
白米の盛られた茶碗と、小皿がひとつ。そこに載っているのは、ブロックタイプの栄養補助食品。オレンジ色のパッケージで有名なやつだ。しかもあろうことかチョコレート味。
信じられずに指で摘み上げて観察する僕の前で、織原さんは「いただきます」と手を合わせ、茶碗片手にブロックを箸で摘み上げた。
「待ちなさい。そのまま袋に戻して、箱にしまいなさい」
「……? 食べないんですか?」
「サバイバル環境以外でのコレを、食事とは認めません」
当たり前のように口に運ぼうとするのを強い語調で阻止して、横目で篝さんを睨みつける。彼女は僕の視線と皿の上のモノから目を逸らした。
「夜の買い物なのでついて行ってもらいましたが、何故、止めなかったんですか」
「いや……うん、これがどんな料理に化けるのか、怖いもの見たさというか」
「化けるわけがないでしょう。大人しく米を研いで待っていた僕が馬鹿でした」
食卓に対する僕らの反応をきょとんと見ていた織原さんは、いまだ箸のモノを離さないまま首を傾げる。
「おいしいですよ?」
「否定はしない。だがコレと白米を一緒に食べる発想は解せない。誰がこんなの教えたの」
「教わったというか、お父さんがよくこれを食べていたので、自然とわたしも食べるように」
そこで、先の発言に至るわけである。
三人分のご飯を炊飯器に放り込み、冷蔵庫の中身を思い出しながらレシピを即座に組み立てて、コンロに火を点ける。不本意ながら、時間的に一皿料理しかあるまい。
鍋の揚げ物油が温まるまでの間、組み合わせられる限りの野菜を冷蔵庫から出し刻んでいく。
「だいたいね、アレは確かに栄養的に優れてはいるけど、あくまで補助食品でしかなく、偏りがある。身体は資本というけど、その身体を作るのは健康的な生活、とりわけ食事だ。適度な運動や睡眠も当然大切だけど、まず大前提としてバランスの取れた食事を――」
「……炸夜くんってああいうおかーさん属性あるから、今後気をつけてね」
「わかりました……」
「そこの二人ちゃんと聞きなさい」
食事が如何に大切かを語り続けながら、休む事なく手を動かし続ける。
家庭用中華鍋で豚肉を炒めながら、別の鍋で熱した油に野菜を放り込む。その合間にボウルで赤味噌、豆板醤、甜麺醤、調理酒、蜂蜜を加えかき混ぜ、そのタレに炒めた豚肉を投入。空いた中華鍋にごま油を引いて細かく刻んだネギと生姜を投入、火の通った野菜をザルで油から掬って縁に掛け、油切り。中華鍋の中身が色づく頃に程良く油の落ちた素揚げ野菜を合わせ、タレに肉汁をよく馴染ませてからこれも合わせ、強火で一気に仕上げ。
「――つまり内臓機能の維持の為にも日々の食事は不可欠で、仕事やらで多少やむを得ない事情があるとしても、極力しっかり胃袋を満たして――ところで篝さんご飯よそって下さい」
出来上がった
反応がないので首を巡らせてみると、二人は楽しげに談笑していた。織原さん、女性相手だと普通に明るい感じなんだな。じゃなくて。
「篝さん、断食中なら先に言って下さい」
兵糧攻めで脅すとガタッと音を立てて立ち上がり、即座に炊飯器に向かう。
ともあれ簡素ながら食卓が整うと、織原さんの腹が控えめに鳴った。恥ずかしげに俯くと、そのまま両手を合わせて小さな声で「いただきます」と言った。
無言で回鍋肉をつつく。野菜を多めに使ったとはいえ、火を使う料理一品ではビタミンCが損なわれているから、サラダも付けるべきだったか……などと考えながら、ふと横目で織原さんの方を見てみると、間食程度で済ませようとしていたとは思えない程ペースが早かった。思えば昼過ぎに会ってから何も食べていないし、その時の様子を考えたら今日最初の食事なのかもしれない。
視線に気付いたのか彼女は箸を止め、頬が膨れる程に詰め込まれた中身をゆっくり嚥下する。
「……料理上手、なんですね」
こっちはこっちで既に二回目の米のおかわりをしていた篝さんが大仰に頷いた。
「時間があればもっと豪勢に作ってくれるよ。ていうか炸夜くん、だいたい何やらせても上手くやっちゃうからさ。下手くそなのは多分、女の子の口説き方ぐらいだ」
「口説こうと思った事がないので、そこは僕自身もわかりませんね」
なんてどうでもいい話をしながら夕食を終えると、片付けを篝さんに頼んで僕は織原さんへ向き直る。この時間の中で、思う事があったのだ。
「さて、少し契約の話になるんだけど」
言うと、織原さんは姿勢を正した。同時に数秒だけ口元を押さえたが、かすかに漏れた空気音は聞こえなかった事にしよう。
「契約期間中の織原さんの生活拠点について、こっちで探して手配するのを最初考えていたんだけど……空き部屋もあるし、ここに留まるのはどうだろう。もちろん、君にとって篝さんはともかく僕の存在はネックだろうし、あくまで提案だから他を希望するなら手配するよ」
彼女はしばし、顎先に指を当てて考える素振りをする。
「さっそく、口説いてみる実践でしょうか」
「……そう受け取るなら、好きにして構わないけども」
「冗談です」
初めの印象から人付き合いは苦手な方なのかと勝手に思っていたのだが、本来は割と調子の良い性格なのだろうか。
「ここは君が住んでいた東京じゃない。慣れない環境というのは自覚の有無問わず、疲れるよ。普段からあんな食生活じゃ倒れてもおかしくない。そうなったら正直こっちも面倒だ。なので、契約上君の生活を保障する一環として、食事込みでここに住んでもらう。腕利きの警備付きだ。合理的な判断だと思うのだけど」
「ナイス提案だ炸夜くん。無愛想でうるさい男の子と二人きりより、深凪ちゃんみたいな可愛い女の子とお喋りしながらご飯食べるのは楽しそうだ」
流し場で皿洗い中の篝さんが賛同してくる。いつの間にやら名前呼びだ。
当の織原さんは、今度は素振りではなく真剣に考え込み、控えめに訊いてくる。
「ありがたいお話です。でも、いいんでしょうか、そこまでお世話になってしまって」
「構わないよ。カタギの方々には尽くせ、っていう家訓もある」
「……そういえば、ヤクザなんでしたよね。そんな気がしなくて、すっかり忘れてましたけど」
なおも何かを考えていたが、やがて決心したのか、背筋を伸ばすと膝の上で指先を揃え、丁寧に頭を下げた。
「その提案、ありがたくお受けします。わたしの用心棒、よろしくお願いします」
「……だってさ、本職用心棒の篝さん」
「そこでオレに振んないでよ。やっぱり炸夜くん口説くの下手くそでしょ」
契約なんていうのは成り行きでしかなかったのだが、現実的かつ合理的な判断だったと自分でも思う。本来求めるはずの利益なんて最初から度外視している。
しかし、どうだろう。さほど深く考えた結果でなかったのも事実だ。
僕はまだ知らないから。織原さんが抱えたモノの大きさも、その影に落ちる闇の深さも。
◇◇◇
少しの間、自分がいまどこにいるのか、わからなかった。
ヤニで黄ばんだ天井、寝転がった、申し訳程度の薄いマット。わたしの部屋じゃない。知らないマンションの一室。どうして、こんなところにいるんだっけ。
ここまでの経緯を思い出した瞬間、手首を強い力で掴まれて、床に押し付けられた。咄嗟にあがりそうになった悲鳴は、何かを口の中に詰め込まれてせき止められる。
はーいお写真とるからねー。シャッター音。いいねーもう一枚いこうかー。ブラウスの胸元をちぎるようにはだけられて、冷たくおぞましい空気が鎖骨を這っていく。
焦燥と恐怖が、チリチリと音を立てて頭の芯を焼く。目に映る二つの人影が、平衡感覚を失った世界の中で歪み、溢れる涙で滲む。
押さえられていた左手首を今度は引っ張られ、乱暴に袖を捲くられる。むき出しになった肘の裏側に注射針が刺されて、なにか気持ちの悪い液体を身体の中に入れられる。痛かったねーごめんねー、ここから動画も撮ってくからねー。
必死にもがくのに、だんだんと力が抜けていく。感覚と意識が、白い靄がかかるように薄れていく。その代わりにわたしの中に、恐怖と、嫌悪と、絶望と、後悔が満ちていく。
やだ、なんで、こんな、やだよ。
ぶくぶく太った芋虫みたいな手に膝を掴まれて、無理矢理開かされて、そこに一人が身体を割って入らせる。内腿に、虫が這うような気持ち悪い感触が走る。
だれか、たすけて、こわいよ。だれか。
ぼやけた視界に、悪魔の三日月が見える。
ゆるして、ください。
こんなの、悪い夢であって――
身体を押さえつけるものがなくなって、わたしは飛び起き、後ろに下がる。
ごん、と音を立てて壁に頭をぶつけてしまう。反動でうつむいたまま、わたしは動けない。
極細の針金が血管を通して全身に張り巡らされたようだった。恐怖という針金が、わたしから自由を奪い去る。
浅く細い呼吸、弱々しくも断続的な吐き気、瞬き方を忘れた瞼。
どれぐらい経ったろう。酸欠か、一瞬だけ意識が途切れて、前のめりに倒れかかっていた。
その切れ目に解放されたのか、咄嗟に手をついたわたしは、喉に痛みを覚えるほど荒い呼吸を繰り返した。
左腕の袖を捲り上げる。肘裏に針の痕はない。そもそも袖もブラウスのものじゃなく、緋州さんが貸してくれた、わたしには大きすぎる男物の寝巻きだった。乾いた目で回りを見回す。明かりの消されたマンションの一室は、壁に染みひとつない。
……夢だったと、ようやく実感が湧いてきて、安堵に涙が溢れた。
それでもあの感覚はこびりついたように離れなくて、ベッドの上で震えの収まらない身体を抱き締める。体育座りみたいに膝を寄せて、顔も埋めて丸くなって。
「……お父、さん…………」
知らずに漏れた言葉は、かすれぎっていて、自分の声と思えなかった。
倦怠感に包まれる身体は睡眠を求めていたけれど、眠れる気がしなくてリビングに出る。
出た瞬間、喉の奥からわずかに引き攣った悲鳴が漏れてしまった。
「……驚かせてしまったかな」
そう言った瀬堂さんの方が驚いた顔をしているのに気付いて、わたしは頭を下げる。
なんのことはない。彼はリビングのソファに腰掛けて、小さな読書灯を点けて本を読んでいただけなのだ。わたしがいきなり部屋から出てきていきなり悲鳴なんてあげたら、そりゃ驚く。
わたしは部屋の入り口に佇んだまま、リビングに踏み込んでいかない。動けない。さっきの夢のせいで、瀬堂さんがどうというわけではないのだけど、男の人というだけでとてつもない拒否感が生まれてしまう。
そんなわたしをじっと見て、瀬堂さんは読んでいた文庫本をぱたりと閉じた。
「飲み物持って来るよ。寝汗もひどいし、ゆっくりしてて」
部屋の明かりを点けてキッチンに向かっていく彼の言葉で、弱く効いた冷房に寒気を感じているのに気付いた。肩から垂れる髪に触れてみると、濡れて細い束になっていた。
瀬堂さんが飲み物を用意してくれている間、わたしは彼が座っていた対面のソファに腰かける。手元を見下ろすと、指先が小さく震えていて、冷たい。緊張、してるんだろうな。
指を揉み解していると、瀬堂さんは湯気の立つマグカップを二つ持ってきた。夏場なのだけど、気を利かせてくれたのだと思う。なるべく距離を保とうとしているようで、ガラステーブルの向こう側から、マグカップをひとつわたしの前に置いてくれる。
「ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。気持ちよく寝付けるように作るつもりだったし。織原さんは、枕が変わると眠れない人? ……というのでもなさそうだ」
「……瀬堂さんは、どうしてこんな時間に?」
どう答えればいいかわからなくて、結局問いで返してしまった。マグカップを両手で包んで持つと、冷えた指先がじわりと温まっていく。覗き込んでみると、カップの中身は黄色がかった透明な飲み物で、レモンの輪切りが沈んでいた。
「元々、長い睡眠がいらない体質でさ。今日みたいに、なんとなく眠れない日がたまにある。そんな時はこうして、これを飲みながら、眠くなるまで本を読んで過ごすんだ」
言いながら彼は、カップに口をつける。染みた温かさに緊張がほぐれてきて、わたしも一口飲んでみる。包み込むような蜂蜜の甘みの後、爽やかな酸味が口の中いっぱいに広がった。
「……はちみつレモンだ。おいしい」
「レモネード。はちみつレモンというのは商品名だ。レモンを蜂蜜漬けにしてるから、いつでも作るよ。生姜を入れれば炭酸水でジンジャーエールも作れる」
その口調は素っ気いないというか事務的な抑揚だったけど、彼が作ってくれたこのはちみつレモン――レモネードは、温かく優しく、いやな夢を見たばかりのわたしに安らぎをくれた。
飲んでいると、さっきひとりで蹲っていたのが嘘みたいに、落ち着いた気分になっていく。
正直、男の人は怖い。それは心の深いところに根付いてしまっている。でも男の人全部がわたしにとっての怖い人じゃないってわかってるし、会ってからまだ一日だって経ってないこの人もそうだって、安心感みたいなものがある。わたしの恐怖心で、不用意に突き放したくないと思うぐらいには。
だから少しだけ、他愛ない話をしたくなった。
「本、好きなんですね。本棚にもいっぱいありますし」
「意外?」
「あ、いや、そういうつもりじゃ……周りに本を好きな人ってあまりいないので、どんなのを読むのかなって、少し気になって」
少しだけからかうような調子で言われて、慌てて返す。今更だけどこの話題は失敗だった。わたし自身読まない人のひとりだから、もし瀬堂さんが盛り上がってもわたしにはわからない。
「こういうのだよ。意外かもしれないけどね」
多分その辺は察しているんだろうと思わせる、やっぱりからかい気味の口調で言いながら、彼はソファに置きっぱなしにしていた読みかけの本をテーブルの上に置いた。
『泥に咲く』吏原漣。
――それは、読書感想文ぐらいでしか本を読まないわたしでも、見覚えのある作者名だった。
「……そういえば、読んでる途中でしたよね、ごめんなさい」
そんな、頭の中とは全然違う言葉が出てきた。口の中が渇いている。
「構わないよ、読み返していただけだから。その作家、好きなんだ」
言いながら彼は立ち上がり、歩み寄った壁際の本棚の段をひとつ撫でる。図書館みたく綺麗に整理されたそこには、同じ作者の作品がずらっと並んでいた。
「なんというか、僕にとって特別でね。暇があるとつい、手に取ってしまう。吏原漣の小説は全部持ってるし、どれも一度は読み直しているぐらい。他の作家はそうでもないんだけど、この人のだけはいつも新刊が待ち遠しくて、発売日には昼休みに学校抜け出して買いに行ったりするんだ。その『泥に咲く』は――」
「――『泥に咲く』は、先月の発売でしたよね」
「……あれ、知ってるの?」
拍子抜けしたような声が飛んでくる。そのときわたしは、彼の方を見ていない。
「……よく、知ってますよ。わたしも好きな人だから」
テーブルに置かれた一冊を手に取って、その表紙にあるタイトルを、作者名を、力の入らない指先で撫でる。
「そっか、珍しいな。でも同じ作家が好きっていうのは、なんだか嬉しいものだね」
「吏原漣は――わたしの、お父さんです」
「……う、ん?」
「お父さん……織原漣至は、小説家です。吏原漣は、お父さんのペンネーム」
「………………なんだって?」
信じられないとばかりの、彼らしくない素っ頓狂な声。
わたしも、信じられないよ。
だって、娘のわたしだって知ってる。瀬堂さんが珍しいっていったように、大して有名じゃないし、評価もあまり高くないって。
もっと頑張らないと、がお父さんの口癖だった。
もう若くないのに徹夜で執筆して、うたた寝したらおでこでノートパソコンのキーボード壊したり。原稿に夢中でご飯食べるの忘れて、フラフラして壁に頭ぶつけたり。自分の誕生日と締切が同じ日だったときには、プレゼントを打ち上げ代わりと勘違いしたり。でもわたしの誕生日には、締切が迫ってても一日中遊びに連れて行ってくれたり。
そんなお父さんが、こんな遠いところまで追いかけちゃうぐらい、わたしは大好きで。
お父さんの作品を、発売日に急いで買いに行っちゃうぐらい、彼は好きだと言ってくれた。
「……語感が似てるな、とは確かに思ったけど。いやまさか…………え、ちょっと?」
涙が溢れた。涙が顎先から、本の表紙に落ちる。手のひらでごしごし表紙をこすっても、一滴、また一滴と濡れた。目元の方を拭っても、全然止まらなかった。
「ごめ、なさっ…………わたし、うれしくて」
鏡がないからわからないけれど、多分いまのわたし、恥ずかしいぐらいひどい顔なんだろうな、なんて他人事みたいに思った。
ばかみたいに泣いてて、鼻もちょっと詰まってきてて、でもきっと笑ってて。
こんなことってあるだろうか。
わたしの好きと、瀬堂さんの好きは、もちろん違うものだけど。でも行き着くところは同じ。
怖い人から助けてくれたとか、宿なしなのを泊めさせてくれたとか、おいしいご飯を食べさせてもらったとか、あたたかいレモネードを作ってくれたとか。
そういう、多分優しい人、なんて理屈じゃなくて。
心の底から、信頼していい人、そう思う。
だって、わたしのこの気持ち、理屈じゃないもの。
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