二_2、任侠探偵と、慈父の影

          ◆◆◆

「おはようございます、倉科くらしなさん。今日は早いですね」

 隣のスツールに腰掛けながら声をかけると、ノートPCの画面を睨みながら考え込むようにパームレストを指先で叩くのをやめ、こちらに振り返った。

「やあ、炸夜君。君も早いね。たしか夏休みに入ったんじゃなかったっけ?」

「学業に費やす時間が減るという事は、仕事をする時間が増えるという事ですからね」

「はは、若いのに大変だ」

「そういう家に生まれたもので。僕は僕で、いつも邪魔をしてしまってすみません」

 構わないよ、と彼は微笑む。くたびれた中年といった印象の彼だが、僕は彼を非常に気に入っていた。立場を忘れて深く友誼を結びたいとさえ思っている。

 倉科さんは作家志望の人で、今月に入ったあたりからこの店で執筆するようになったお客さんだ。僕の読書趣味を知っているあのギャル風の店員が「なんか小説っぽいの書いてる人来てるよ! 小説家じゃね!?」と教えてくれ、興味本位で話しかけてみたのが始まりだ。実際は作家ではなく、仕事を辞めたばかりで趣味の小説に打ち込んでみる事にしただけらしいのだが。

 意気投合は早かった。現状趣味とはいえ執筆する人だからか、創作に関する造詣が深い。僕が小説を読んでいて腑に落ちなかった点を訊いてみると、僕の想像していなかった可能性を示してくれる。その考察は多視点的で、僕が読んだ物語に奥深さを与えてくれる。

 基本的に僕が問い、彼がそれを考察し答える、という一方的な関係なのだが、倉科さんもそのスタンスを気に入っているらしい。

「作品について語るのは純粋に刺激になるし、私が既に知っているような事でも、改めてそれを考える機会を与えられると、不思議と別の側面が見えてきたりするんだ。熱心な生徒を持った教師というのは、もしかしたらこんな心境なのかもしれない」

 とは彼の言葉だ。事実、小説作品について語る上で、僕は彼に対し常に教えを請う生徒であり、彼は僕に様々な事を教えてくれる教師だった。

「さて、今日の議題は何かな? どうにも予定があったようだけど」

「ええ、正直あまり時間は取れないのですが――」

 実際これから吏原漣――織原漣至の捜索を開始する為の会議をするところなのだが、倉科さんがいるのならば是非訊いてみたい事があったのだ。

「ずばり、愛とは何でしょうか」

 いずれ彼の考察を聞きたいと思っていたテーマ。

 実のところ、平静を装ってはいるが、昨晩から言葉にし難い衝動が暴れ回っている。

 織原さんの父親が、愛読する作品群の生みの親だと知った時、僕は言葉を失った(織原さんがいきなり泣き出して動揺したせいもあるが)。

 吏原漣の小説には、いつも愛が溢れている。そこに僕は惹かれた。

 そして織原さんは失踪した父を追い、その身ひとつで遠くの町までやって来た。無鉄砲で、危険を顧みない程に。彼女は父の事で神秘さすら感じる表情を見せ、父の事で涙を見せ、父の事で笑顔を見せた。

 愛の実在に疑念を抱いている僕でさえ思った。そこに垣間見えるのは、紛れもなく父への愛なのだと。生まれて初めて、現実のそれを目の当たりにしたと感じた。

 いつもとは趣向の異なる問いかけに、倉科さんはしばし狐につままれたような顔をする。

「そういえば今日は女の子連れだったね。年頃かな?」

「……これはこれで気になるのですが、何故、大人はすぐ他人をくっつけたがるのでしょう」

「大人とは青春を過ぎてしまった者だからね。訪れる事のないもしもを他人に見て憧れを抱いているのかもしれないし、自身の過去に重ねて郷愁を感じているのかもしれない。或いは、人間とは他者を祝福したがっていて、その理由を求めているのかもしれない」

「いえ、その、そこは真剣に答えて頂かなくて結構なのですが」

「はは、わかっているよ。おおかた、吏原漣の作品に関してだろう?」

 倉科さんに訊いたことのある話で、吏原漣絡みは少なくない。ご多分に漏れずあまり評価していないようだが、彼も吏原作品はおおむね目を通しているらしい。

「まあ、そんなところです。して、倉科さんの見解は如何なものですか」

 すると彼は、芝居がかった仕草で、肩を竦めてみせた。

「さあね」

「……え」

「そればかりは私にもわからない。広辞苑では五つの語義が挙げられているし、キリスト教や仏教では四種の愛を説いているが、どれも内容は異なる。とりわけ、愛を最大のテーマとしているキリスト教では特定の感情を愛と定義している一方、それについての議論はいまだ絶えず続いている。つまり人類が何千年もかけて真理に辿り着いていないのに、私如きが知っているわけもないよ」

 意外な回答だった。何でも知っている風に勝手に認識していただけだから、これを拍子抜けと思うのは失礼なのだが。

「もっともそれは、見方次第では『他人には理解できない』という性質なのかもしれない。理解出来なければ、他人同士で議論したところで永遠に答えは導き出せない。極端な例では、シリアルキラーの行動だ。想像を絶する猟奇的所業も、根底は本人なりの愛という場合もある」

 ……いや、拍子抜けなんてとんでもない。ちゃんとした回答を示してくれている。

「つまり、『人それぞれ』という事ですか。有り体な表現ですけれど」

「君の察しのいいところ、私は気に入ってるよ。仮に私が愛を君に愛を説いたところで、それは私にとっての愛であって、君にとっての愛ではない。吏原漣の語る愛もまた然り。他人からの借り物を自分のだと勘違いしてはいけない。知りたければ、自分で見つけることだね」

 ところで時間はいいのかい? と問われて腕時計を見る。織原さんへの所員の紹介を頼んではいるが、そろそろ待たせてしまっている具合だった。

 お礼を告げて席を立ち、会議室に向かう。

 ……他人には理解出来ない、か。だから惹かれるのかもしれないし、可能性としては、僕には一生理解出来ない事も有り得るという事だ。

 なるほど。だとしたら、これぐらいは許して欲しい。

 父を一途に追う織原さんの背と、その向こうに、僕の知り得ないモノを見るぐらいは。



「すみません、お待たせしました」

 会議室というよりは応接間のようにも見えるその部屋には、僕を除いて五人が揃っていた。

 うち二人は言うまでもなく、篝さんと織原さんで……そうなるだろうなとは思っていたが、織原さんはやはり萎縮していた。

 残る三人は、探偵事務所の所員にして、三つに分けた班の長を務める人達だ。

 一班班長兼法務担当の伊縫いぬいさんは五十近い男性で、探偵事務所、というよりグループ随一の凶相の持ち主だ。悪役ヒールレスラーと言われても違和感のない人相と巨体が、織原さんの萎縮している大要因だが、男性恐怖症に関係なく仕方のない話である。元警察官である彼の、警察庁で暴対課四課を務めたのち警視庁暴対本部に抜擢された経歴は、極道と敵対的な豊条にはうってつけの人材で、その信条も実績も図抜けた大ベテランである。警察官時代の知識と人脈は、この事務所の生きたデータベースとも言える。

 二班班長兼経理の木城さんは、二十代半ばのクールな風貌の女性。二十名を擁する事務所の人員の半数を割り当てられた二班は、その頭数を活かして自分の足で調査するのを専門としている。彼女自身も事務所以前から豊条の調査部門一筋で活躍してきた身で、その情報収集能力と勘は、倍近い年齢の伊縫さんにも引けを取らない。ちなみにどうでもいい話だが、この店の例の店員は木城さんの妹である。

 三班班長兼SIerシステムインテグレーターのサルマーンさんは三十過ぎのアラブ系、彫りの深い顔立ちながら爽やかな印象の男性だ。元々はシステム開発部門に所属していたコンピュータ技能のプロだが、スパイ映画等に登場するエンジニアへの憧れから本人の希望で調査部門へ移籍したらしい(豊条ではスパイだとか秘密組織みたいな事はしないのだが)。ネットワークを駆使した調査能力と、ハードソフト両面で優れたコンピュータ制作能力は、大いに貢献してくれている。

「ほい、炸夜くん。設定は済ませてある」

 篝さんに手渡された業務用タブレットのスリープ状態を解除すると、長テーブルの中央に置かれたプロジェクターが同期した映像を壁に映し出す。画面は豊条グループで使用しているSNS等を纏めたツールシステムで、サルマーンさんの制作品の一つだ。

「さて、皆さんには既に周知していますが、こちらの織原深凪さんのお父上、織原漣至さんの捜索を請け負う事になりました。本日はその件についてのより具体的な情報共有、及び計画立案を行いますが――まず先に、現在抱えている優先案件を進めてしまいましょう」

 ちらと横目で織原さんを見ると、彼女は黙って成り行きを傍観していた。内心では一刻も早く父の件を進めたいのだろうが、無力な自分を手伝ってもらっている、という意識があるのだろう。出会ってからの時間は短いが、そう読み取るのは容易だった。

 それに少し――こちらの話を先にしたのは、懸念のような、言葉にし難く引っかかるものを感じたからでもある。それが確かなものになるかはわからないが。

 はい、と木城さんが手を挙げ、手元のタブレットを操作する。SNS上の共有領域にフォルダがアップロードされ、画像ファイルが一覧となってプロジェクターに表示される。

 その一つ一つを順に拡大表示していく。そこに写っているのは、繁華街をうろつく三人組。顔に傷のある男を中心とした、織原さんに絡んでいた連中だ。

「昨日若から要請を受けて尾行した結果、やはり先日から寄せられていた不審者の特徴と合致しました。現状では接触を見送っていますが、二班で監視体制を作り、有事の際は即応可能な状況です。彼らの素性については、伊縫さんに確認してみたのですが――」

「――真ん中の傷がある野郎は知ってる。久山くやまっつう、族上がりの小物だ。背負ってる代紋は鷹柳会おうりゅうかい

「鷹柳会……このあたりの組じゃありませんね」

 木城さんから引き継いだ伊縫さんは、舌打ちしたげに唇を歪めた。

「東京を拠点にした三次団体だ――いや、近年、二次に格上げしてたか。食えるモンは全部食い散らかしていく、正真正銘のクソッタレ共だよ」

「東京の? 一体何が目的で最上沢に来たんでしょうか」

 東京……やはり引っかかる。

「さあな。観光なワケはねェが、少なくとも乗っ取りも狙いじゃねェ。今の若頭がキレる野郎でな、豊条に噛み付くなんて負け戦は万に一つもやらねェだろうさ」

「……そういえば確かに、篝さんを『毒蛇』の通称で知っていて、あっさり手を引いていた。どの程度は不明なものの、下調べは済ませてあるという事ですか」

「二班でも、監視と平行して目的を洗っているところです」

「そうですか……現状、問題らしい問題は起こしていないようですし、様子見とします」

 不穏分子だからと、先制攻撃は出来ない。極道は利益と同じかそれ以上にメンツを重んじる。下手に手を出して報復に乗り出されれば、抗争になる。そうなってしまえば一般人を巻き込む可能性も出てきて、それは避けなければならない。それが豊条のメンツだ。

「ただ、理由もわからず滞在されるには不愉快な方々だ。掘り起こせる根は掘っておきましょう。伊縫さん……いや、サルマーンさん、東京に出向いて、鷹柳会の現況を探って来てもらえますか」

 かつて東京を拠点としていて彼らのことも既知らしい伊縫さんを指名しかけたが、情報を持っているならこちらに残っていてもらった方がいい。

「オーケー、善は急げだ。下準備も必要になるから、この後すぐにでも班員集めて向かいます」

 急な話に嫌な顔ひとつせずサルマーンさんは快諾した。彼は日本生まれ日本育ちだが、その血は混じり気なく外国人だ。東京のように特に光陰入り交じる場所では、暗部へ潜り込むのに適している。彼の言う下準備とはそうしたコネクションを使えるようにする事だ。

「いくつか小さめの案件持ってるけど、一旦伊縫サンと木城サンに預けちゃっていいかな?」

「わかった。代わりに東京土産よろしくね。経費から出しとくから」

経理担当木城さんのお給金から引いておきますね」

「え、ちょっと勘弁してください。今月カードの支払いがたんまりあるんですケド」

「やったね、秋葉原寄って面白そうなの買い込んでこよう」

「方針は決まったな。鷹柳会については俺の方でも探りを入れてみる。で、だ。暇じゃねェんだ、そこの嬢ちゃんの話に移ろうや」

 伊縫さんがドスの利いた声で仕切ると、場の目線が一斉に織原さんに向いた、のだが。

「……すみません、あの、わたし……ちょっとお手洗い借りてきますっ」

 彼女にとっての本題に入るというのに、席を立つとそそくさと会議室を出て行った。青褪めた顔で。ふむ。

「あらまー、とっつぁんの顔が怖くて逃げちゃったよ」

 などと冗談っぽく言うサルマーンさんの目は、織原さんの出て行った入り口に向けられている。いや、彼だけじゃなく僕や篝さんも、残っている全員が同じ箇所を見て、同じ事に気付いていた。

 会議室の扉は、ほんのかすかに開けられたままだ。慌てていて閉め損ねた、というわけでもない。この部屋は会話内容が外に漏れてしまわないよう防音になっている。織原さんはトイレになど行かず、扉の前で聞き耳を立てているはず。血の気が引いた表情から察するには。

 話の行く末は聞いておきたい、しかし話したくない事がある。出来た、というのが正しいか。

「――まあ、進めてしまいましょう」

 言いながら端末を操作し、事前に彼女から受け取っていた漣至さんの写真と、外見的特徴を文字にまとめた資料を共有データとしてアップする。

「この件は初期段階なので二班による聞き込みを中心としますが、ここに僕と篝さんも加わります。それとは別に三班もお手隙の時で構わないので、警備部門と協力して市内のセキュリティシステムの参照をおこなって下さい。警備部門には僕から話を通しておきます」

 捜索開始にあたって共有する情報は少ない。そもそも、依頼者である織原さん自身の持ち得る情報のほとんどが対象本人に関する事のみで、捜索する上で必要な情報をほとんど持っていないのだ。

 彼女は最上沢に父がいるはずだと言っていたが、客観的にはそれすらも定かではない。最上沢及び玄鳴に足跡があるかどうかも含めての調査になるが――実のところ個人的に、織原漣至が少なくとも一度は最上沢に訪れた事を、ほぼ確信している。

 端末画面の資料を読み込んでいる木城さんが「んー」と唸った。

「この方、インドア派なのですね。顔を見て、漁師なのかと思いましたが」

 その娘さんが聞いているだろうによく言うな。正直僕も思ったけど。

「……なあ、若よ。アンタが決めた事だから文句付ける気はねェんだが……一番重要な情報がねェじゃねェか」

 伊縫さんの言葉に、場が張り詰めるような気配が満ちた。

 篝さんが何か言いたそうに僕を見るが、黙っているよう目で制する。

「それさえありゃ、捜索も一気に捗るんだがな」

「……わかっていますよ。聴取するだけの時間がなかったもので」

「甘ちゃんだな。なんざ、調査が進めばいずれわかっちまうだろうによ」

 あくまで、この場に織原さんがいない、という体裁で話す。僕も、伊縫さんも。

「失踪てのは大概、拉致か逃亡のどっちかだ。嬢ちゃんがここまでの足取りを掴んだあたり、拉致の線は薄い。となりゃ逃亡となるワケだが……理由もなしに逃げる人間はいねェ。若も気付いてんだろ、さっき鷹柳会の名前出した瞬間、嬢ちゃんの目の色が変わりやがった。それに理由のわからねェ鷹柳会構成員の、同じ場所へ同じ時期のご来訪ときた。こりゃ偶然か?」

「はて、織原さんの表情が変わったのは、我慢していたトイレが限界に達したからだとばかり」

「……まァ、いいけどよ。仕事に変わりはねェんだ。だが――」

 そこで一旦言葉を区切った伊縫さんは、目を細めて入り口を見遣る。そこに織原さんがいる事を確認するように。

 そしてわざとらしく張り上げた声は、刑事時代によく発したであろう野太さで響く。

「――豊条全体の方針だ。万が一、親父さんが犯罪に関わっているなら、俺達は手を引く。ゆめゆめ、忘れねェことだ」

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