二_3、任侠探偵と、慈父の影

          ◇◇◇

 頭が、ぐるんぐるんしていた。

 鷹柳会――その名前を、わたしは知っている。まさかこんな所にまで来ていて、しかもあの人達がそうだったなんて。

 鷹柳会は、わたしにとって一番の近道なんだろう。でもそれ以上に、一番会ってはいけない人達。

 もしあの時、二人が現れなかったら――想像するだけで、息が苦しくなる。

 ――それに、伊縫さんの言葉。当たり前のことだけど、あれは、効いた。

 ほとんど意識せず、手元の傘をぎゅっと握り締める。

 ……大丈夫、きっと。お父さんは間違ってなんかない。

「朝から気になっていたけど、今日、雨の予報ないよ?」

 瀬堂さんの言葉に、ふっと意識が現実に返ってくる。町並みがどんどん後ろへ流れていく光景に、緋州さんの車で移動しているところだと思い出した。

「ま、伊縫さんの言葉は、あんま気にしなくていいよ」

「へっ? な、なんのことでしょう?」

 運転しながら緋州さんがにやにや笑って、瀬堂さんはお馴染みのようにため息。え、バレてたの?

「確かに話の核だからはじめに訊いておくべきだったんだけど、織原さんも急な環境の変化で大変だろうからと後回しにした僕が悪かった」

「伊縫さん、進んで汚れ役になるからね」

「……えと、本当に何のお話でしょうか?」

 こそこそしていたのがバレていたのはもう仕方ないとして、これはこれで話が見えない。

「前提として僕達の視点の話だ。君は失踪の理由を知っているのが、あそこで席を立った事で、君には皮肉だろうけど、鷹柳会が関係している事がほぼ確信的になった」

「う……」

 本当に皮肉っぽい言い方だ。事実に関係なく、自分たちはそう認識している、わたしがなにを言っても関係ないよ、ってことだもの。

「となると、だ。仮に漣至さんが何らかの事になる」

「……へっ?」

 いきなり意外な言葉が飛んできた。その時は手を引くって話だったのでは。

 呆気に取られるわたしに、瀬堂さんは肩を竦めて見せた。

「先に話したように、僕達は既に鷹柳会の案件を別で持ってる。その手掛かりの一つとして、関連があると見る人物を調べるのは当然だ。無論、場合によってその捜索が目的なのか手段なのかは変わるけれど」

 そういうことか、とほっと胸を撫で下ろす。

 なりふり構っていられないんだから。少しでも早くお父さんを見つけて、何とかしなきゃ。その為に、せっかく得た心強い味方を離れさせてしまうわけにはいかない。

「しっかし東京の組が、わざわざこんな所までお出ましとはね。目的が花火大会を観に来ただけだったらいいんだけど」

「ひどい冗談だ。隅田川のに比べたら、ねずみ花火みたいなものですよ。むしろ、花火大会をしに来た方かもしれない」

「そっちの方がひどい冗談じゃない。それで笑ったりしたら姐さんに殺される」

「……花火大会があるんですか?」

「ん? ああ、玄鳴の方に大きい川があってね、毎年そこでやってるんだ。地域貢献の一環で、豊条うち主催だよ。近いうちにやるから、大したものじゃないけどせっかくだし観に行くといい」

 花火大会か……そういえば小さい頃、お父さんに連れて行ってもらったことがあったな。連れて行ってもらったこと自体が嬉しくて、どこのだったかは憶えていないんだけど。

 わたしの胸の内を覗き見たわけじゃないだろうけど、瀬堂さんは助手席のシートに深く身を預けると、なにか夢想するように目を閉じた。

「花火大会、父上と一緒に観られるといいね」

 その言葉に、頭の奥と、お腹の底が、じわりと疼いた気がした。

 大したことないと言っていたけれど、目を閉じて、想像せずにいられない。

 どん、どどん、と色とりどりの花火が夜空に打ち上げられて、それをわたしは見上げていて。十五のわたしはあの日みたいに肩車するには大きすぎるから、きっと隣に、わたしの一番大切な人は立っている。あの人のことだから、せっかくの花火に見向きもしないで、花火に夢中なわたしを、優しく見守ってくれている。

 その素敵な光景は、涙に滲むことのない、とても、とても幸せな景色だった。



 車がどこかのビルの地下駐車場への緩やかなスロープを下っていくところで、今更なことを訊いた。

「あの……いま、向かっているのは?」

 場所という意味では、もはや着いているのだから聞くまでもない。何故、という意味だ。

 駐車場に滑り込む直前に見て取れたのは、荘厳さを感じるほどに白く大きなビルだった。その立派さは、地価の違いはあるだろうけど、新宿で巨大グループが運営しているタワービルに引けを取らない程。

 一瞬だけ見えた企業ロゴは、時代劇で目にする家紋を象ったような、HJGという頭文字。

「さっき伝えたんだけど、上の空だったし聞いてないか。見ての通り、豊条グループ本社ビル」

「なにゆえ……あ、そういえば」

 車から降りてエントランスに向かいながら、自分から訊いておいてその答えを聞くことなく、唐突に思い出したことを口にする。なんで忘れてたのかってぐらいの話。

「わたしが最上沢に行き着いた理由なんですけど、お父さん、豊条グループに知り合いがいるって」

 広々したエントランスホールでは、スーツをびしっと着込んだいかにもビジネスマンといった人達が忙しなく行き交っている。瀬堂さん達は受付に向かって二三言交わすと、正面口から見て奥にあるエレベーターホールに向かう。

「まさしく、それがいまここに来ている理由だ。朝方にアポも取ってある」

 え、と思いつつ、ふと気付く。このビルで働いているのだろうスーツの人達が、瀬堂さんの姿を目にするやその足を止め、深々と頭を下げていることに。

 今更すぎるけど、もしかして、わたしいま、とんでもない場所に来ているのでは。

「織原さんの父君が吏原漣だと知って、すぐに思いついた。僕がその著作を読み始めたきっかけは、その人の紹介だから。吏原漣、つまり父君の学生時代の友人らしい」

 そんな壮観も当たり前のように二人は歩を進め、エレベーターに乗り込む。特にボタン操作はせず、緋州さんが取り出した鍵をパネルの鍵穴に挿し込むと、階数表示の点灯がないまま上昇していく。

 すぐ後ろ側はガラス張りになっていて、最上沢の町並みがゆっくり落ちていく。ガラスといっても薄暗い色合いだから、多分マジックミラーなんだろう。

「その人、だなんて他人行儀じゃないかな、炸夜くん」

「……あの、まさかと思うんですけど、お父さんの知り合いって……」

「僕の父だよ。つまり、豊条グループの現会長」

 少しふらっとした。これは多分エレベーターのせいじゃない。

「あのう、ちょっと、そういうの先にいってくださいよ……わたしジャージこんな格好ですよ?」

 お父さんの知り合いにこんな滅茶苦茶セレブな人がいるのは初耳だ――なんてこの際どうでもいいのだ。こんなフォーマルさがドレスコードみたいな場所に、学校指定のモサいジャージで入り込んでしまったこの気持ち、おわかりいただけるでしょうか。あまりの場違いっぷりに、恥ずかしいし、いたたまれないし、申し訳ない。

「気にしなくていいよ、君はお客さんなんだし、僕達も別にカタい服着てるわけじゃないし」

「そういう問題ではないですよ?」

 そりゃわたしが悪いのは重々承知なんですけどね? 説得力ないかもだけど、こちとら身なりに気を遣いたい女子ですよ?

「くははっ、深凪ちゃんのそーゆーとこ、オレ好きだよ。大丈夫、この後、深凪ちゃんの服買いに行く予定だからさ」

「え……でもわたし、服買えるほどお金ないですよ?」

「生活の保障も契約の内だ。生活の基礎は衣食住、衣類だけ対象外なんて言わないよ……ま、見繕うのは篝さんに任せますけど」

「そりゃね。費用もオレ持ちでいいよ。せっかくの美人だ、オレ自身の心の潤いの為にも、気合い入れてくよ」

 エレベーターがかなり高いところまで来て、町並みがまるで展望台から見ているような様相を呈してくると、なぜか瀬堂さんはため息をついた。

「……まあまず、篝さんの気合いが入る時が来るわけですが」

「まったくだよね。オレもたまには、ゆっくり本家入りしたいんだけどな」



 それから数秒、エレベーターが開いて目に映った光景に、わたしは息を呑む。

 想像とかなり違っていた。会長のところに向かっているらしいから、専用フロアみたいな、だだっ広いお仕事スペースみたいなのをイメージしていたのだけど。

 一言で言えば、空中庭園。屋上の外周に沿って高い塀が備えられている中には、修学旅行で行った京都の祇園を彷彿させる和風の庭が広がっていて、正面奥には木造の大きな屋敷、左右にそれはそれぞれ長屋がある。武家屋敷――いや、任侠映画で見る、まさしくそんな風景。

 門を象った造りのエレベーターを出ると、広い間隔を開けた左右で、男女入り混じる人達が列を作り、一様に頭を垂れている。制服らしいお揃いの出で立ちは正装だけど、下のフロアで見たビジネスマンというよりは、ボディーガードという風体。

 会長の執務室だとか邸宅なんてのじゃない、文字通りのだった。

「……ああ、やっぱり来た」

 その言葉は、二人のどちらが発したのだったか。

 やっぱり何でもない風に歩いていく二人の後についていくと、屋敷の開けっ放し(というより戸の類がない)玄関から、小さな女の子がすごい勢いで駆けて来た。

 涼しげなノースリーブのワンピースは、乱れないようにか腰のところでベルトが留められている。その下に履いたレギンスと編み込みのサンダルは、揺れるポニーテールと相まって活発そうな印象。

 背丈と可愛らしい顔立ちは、小学校、多分中学年ぐらい。どっちかの妹さんだろうか。

 駆け足ですぐ目の前まで迫ってくると、瀬堂さんに向かって飛びついた。ああ、帰ってきたお兄さんに会えて嬉しいのか――なんて、一瞬思ったのだけど、違った。

 飛びついたんじゃない、飛び蹴りだ。

 弓矢の如し、なんて表現が浮かんでしまうほど速く鋭いそれに、瀬堂さんは微動だにせず、横から伸びた緋州さんの長い脚がその足首を蹴り上げる。

 妹さん(推定)が体勢を崩したのも束の間、空中でそのまま緋州さんの脚に取り付くと、再び瀬堂さんに向かって回し蹴りを見舞う。

 空振り。直前で緋州さんがその身を引き離すように組み付かれた脚を振り払い、そのまま放り飛ばした。妹さん(仮)は難なく地面に片手をついて制動をかけると、新体操の演技みたいな軽やかさで着地した。

「――いいねいいね、腕、鈍ってないじゃん」

「もし鈍ってたら今のでクビが飛んでる。お互いにな」

 準備運動のように手首を回しながら、緋州さんが首をコキコキ鳴らす。なんだか様子が変だ。

 とんとん、とステップを踏む妹さん(?)がちらっと、一瞬だけわたしを見る。すると何故か驚愕の表情で固まり、ものすごい悲痛な顔で緋州さんを睨みつけた。一方の緋州さんは、いつもの温厚さが欠片も感じられない、汚物まみれの虫ケラでも見下ろすような目。

「またか! なんでだよ、なんでいっつも篝んトコばっか可愛い娘が寄ってくんだよ!?」

「その残念なクチ一生閉じてろや。それともプリンみてぇな脳ミソここでブチ撒けとくか?」

「うるせー今日こそブッコロス!!」

「上等だクソ童貞野郎!!」

「あんだとオメーも処女だろが!!」

 んー、なんか変な単語が混じってたような。

 壮絶な喧嘩がいきなり始まったけど、構成員的な方々は止めようとするどころか、意に介していなかった。瀬堂さんもその例に漏れず、すたすた屋敷に向かっていく。

「……あの、いいんですか、あれ。止めなくて」

「いつもの事だからほっといて。どうせ篝さん勝ち目ないし」

「――失敬だな、炸夜くん、百回に一回ぐらい、マグレ勝ちできるよ!」

「それを普通は勝ち目がないって言うんですよ」

 緋州さん、よく喋る余裕あるな。構図は変だけどアクション映画さながらというか、一瞬のミスで大怪我しそうな、傍目に見ても息つく暇もない激しい応酬なんだけど。

「まあ、あれで兄妹仲は良いからさ。お互いツンデレなんだとでも思っておいて」

「……んー、と、なぜか把握できました。あれ、緋州さんのお兄さんなんですね?」

「察しがいいね。緋州たきさん、母の専属ボディーガード」

 そりゃ緋州さんが女性なんだという前例があると。そういう家系?

「……ああ、なるほど。兄妹間で魂が入れ替わっちゃった」

「奇遇だ、僕も昔同じ事を考えた。でも現実にファンタジーの入り込む余地はないらしい」

「あれはあれでファンタジックに思えますが」

「ちなみにあの人、ああ見えてアラサー」

「年齢やら性別やらの概念はどこにいったんでしょう」

 言われた通り兄妹喧嘩を無視して後をついていくと、玄関口で瀬堂さんが「おや」と声を上げた。中から人が出てくるところだった。

 その姿を見た瞬間、背筋がぞわっとして、同時、瀬堂さんのお母さんだと直感した。

 黒を基調にして赤く細いラインの装飾が施された和装の人。高校生の子供を持つ母とは思えない若々しい美貌は、三十代前半というところだろうか。

「出迎えなどよろしかったのに、母上」

「久方ぶりに帰ってきた息子の顔ぐらい、見に来てもいいだろう? それに」

 その美貌で作る微笑みが、わたしに向けられる。やっぱりぞくっと来たのは、同性でも目を奪われる美人さだけじゃない。ただの高校生でしかないわたしでも感じる。一見して粛々とした佇まいの内に秘められた獰猛さを。ドライアイスから滲む白煙のように肌に触れるそれに、緩やかに気圧される。

「今日はお客様もいる。代紋のみならず血を引くアタシがお迎えせねば、礼を欠くというものだ――炸夜の母、瀬堂リンコと申します。どうかお見知り置き願います」

「えぁ、その、こちらこそ突然お邪魔してしまって……」

 丁寧な口調で折り目正しくお辞儀されて、わたしは慌てて頭を下げた。だめだ、こういうの慣れてない。名乗ることすら忘れてしまっていた。

 下げた視界に、炸夜さんが差し出したスマホの入力画面が映る。躙虎りんこ、と書かれていた。愛らしい響きと物騒な字面は、初対面のわたしにもこれ以上なくしっくり来た。

「にしても、またかいアレは。じゃれ合うのは結構だがねぇ……」

 その躙虎さんが呆れたように目を向けた先は、例の兄妹喧嘩。一向に勢いの衰えない猛烈な攻防だったけれど、緋州(妹)さんの方が劣勢らしく少しボロボロだ。

 ちょっと悪いね、と躙虎さんはわたしに優しく微笑みかけ、

「――おいコラなに客人の前で無礼晒してんだ焚!!」

 鼓膜が破れるかと思うほどの怒声に、二人の激しい攻防が嘘のようにピタリと止まった。

「篝! その馬鹿こっちに連れて来な!!」

 一時停止から緋州さんだけが抜け出し、兄のポニーテールをむんずと掴むと、ぬいぐるみのように引きずってこっちに歩いてくる。当人は身じろぎひとつせず、なすがまま。

「いつも愚兄が御迷惑お掛けしています」

「こっちこそすまないね、部下の躾は上司アタシの仕事だが、足りなかったようだ」

 緋州さんは仕留めた鳥を引き渡すような仕草で兄を差し出し、受け取った極道の妻はやっぱりポニテを掴んで、サンタが背負う袋みたいに肩に担ぐ。

「もてなしたい所だが説教が必要だ。炸夜、鷹臣たかおみさんは稲の間に呼んであるから、お通ししな」

「わかりました」

 踵を返した躙虎さんの背では、緋州焚さんがぷらぷら揺られていて、この世の終わりみたいな青褪めた顔をしていた。

「――あの、ちょっ、助け……おねが、たす……やっ、やだ、こわ、あ、あっ――」

 文字通り助けを求める手は、廊下の角に消えていった。

「躙虎姐さんのお説教、炸夜くんのが子守唄に聞こえてくるぐらいだからねぇ」

 それでも「まあ、上がろう」と何事もなかったかのように、瀬堂さんが玄関で脱いだ靴を入れる場所を教えてくれる。

 いつものことだからスルーしろということですね。

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