二_4、任侠探偵と、慈父の影

          ◆◆◆

 応接室である稲の間に入ると、篝さんは僕の近くから離れる。従者の立場である彼女は、席ではなく襖の横に正座し姿勢を正した。

 その反対側には、同じようにして控える人物がいる。

「……あのおじいさんは?」

 漆塗りの机の前に並んで(といっても距離は空けているが)座る織原さんが小声で問いかけてくる。小声といっても、静かなのではっきり聞こえるのだが。

「緋州おきさん。篝さんと焚さんの祖父」

「なるほど、多分把握しました」

「順応が早くて助かる」

 手指も腕も枯れ枝のようで、湯呑を口元へ運ぶ所作すら蝶が止まりそうな程ゆったりしている。風が吹くだけでも倒れてしまいそうなヨボヨボな外見ながら、豊条グループ会長専属護衛、即ち最強の猛者である。

「お兄さんが緋州さんの百倍なら、おじいさんはお兄さんの百倍という」

「残念、熾さんは焚さんが万回挑んだって、一発当てる事さえかなわない」

「……ぉぉう」

「――すまない、お待たせした」

 静かに襖が開けられ、篝さんと熾さんが(湯呑は持ったまま)座礼で迎え入れる。和室にはそぐわないワインレッドのイタリアンスーツを着込んで入室したのは、父、鷹臣だ。

 父は僕達の向かいに腰下ろし胡座をかくと一礼し、「楽にしてくれ」との言葉で僕も足を崩す。織原さんが僕の様子をちらちら見て真似しようとしていたが、結局胡座は躊躇したようで正座のままでの相対となった。

「豊条グループ会長を務める瀬堂鷹臣です。よろしく、綺麗なお嬢さん」

 相好を崩すと、彼女は戸惑いがちに頭を下げる。

「突然押しかけてしまってすみません。わたし、織原深凪といいます。……その、父のお知り合いの方だとうかがったのですが……」

 そう名乗ると、父は目を丸くして彼女をじっと見、整えた髭を撫でた。

「父? 織原……そうか、漣至のご息女だったか。言われてみれば確かに、奥さんの面影がある――こら炸夜、俺は『客人を連れて尋ねたい事がある』としか聞いていないぞ」

「そうとしか言っていませんからね」

「あの……母を、ご存知なんですか?」

 今度は織原さんがきょとんとした顔で問い、父は思い出すように目を閉じる。

「ああ、直接会ったのは数える程しかないが、あいつのノロケ話はうんざりするぐらい聞かされたよ。ま、そんな気持ちになるのもわかる女性だったが……亡くなったのは、君が産まれてすぐぐらいだったかな」

「ええ、妊娠中の衰弱が酷かったと……正直、母といっても、ピンとは来ないんですけど」

「残念な事ではあった。が、こうして娘が健やかに育った今を見るに、あいつはそれを乗り越え、奥さん――君の母上の分も、君に全て捧げて愛し抜くと覚悟を決めたんだろう。漣至はそういう男だ。ま、娘である君程、あいつを知っているわけじゃないがね」

「父上」

 口を挟むと、父は視線をこちらへ向けた。織原さんはやや俯いて、その表情には少し陰が差していた。あまり漣至さんの話に花を咲かせるものではないだろう。

 尤も、この流れでおおよそ、足を運んだ成果もわかってしまったのだが。

「ああそうだ、話があるんだったな。お前と漣至のとこのお嬢さんが一緒にいる状況、俺にはいまいち飲み込めんのだが」

「その漣至さんについてですよ、尋ねたい事というのは――織原さん」

 呼び掛けると、しばしの間迷いを見せたが、顔を上げてまっすぐ父を見た。彼女も察しているのかもしれない。

「……父が、行方を眩ませました。その事について、何かご存知ではないかと思いまして」

「……失踪した? 漣至が?」

 その答えに、やはり織原さんは落胆を見せた。僕自身、父から情報を得られる可能性に期待していた。なにせ漣至さんが最上沢へ来ているというのは、第一に旧友の瀬堂鷹臣を頼ってという線が強かったからだ。何があったにせよ鷹柳会ヤクザが絡んでいるのなら心強い味方なのだから。

「すまない、俺は何も。昔は酒を酌み交わして他愛のない話をする仲だったが、俺が極道に足を踏み入れてからは、こちらから一線を引いている。近年ははっきり言って疎遠だ」

「そう……ですか」

 捜索の手間が省けるかもしれないと思っていたが、世の中そう甘くないらしい。

 少し、迷う。漣至さんの失踪には鷹柳会が関わっているらしい事を告げるべきか。

 思索は一瞬、迷いは切り捨てる。どの道漣至さんとの接触がないなら得られる情報はない。むしろ、現状では織原さんが話したがっていない事情を詮索されるハメになる。最上沢に鷹柳会が足を踏み入れている件はいずれ報告の必要があるが、その辺が明らかになってからでいい。

 そのまましばらく、無言の時が過ぎた。

「織原、深凪さん、だったね。悪いが、少し席を外してくれないか?」

 父の言葉と共に、控えていた篝さんが立ち上がる。

「せっかく来てくれたのだからもてなしたいんだが、俺からも少し炸夜に話があってね。内輪話もあるから、お客さんといえど外部の人には聞かせられないんだ」

 漣至さんの件で進展のしようがない以上、仕方ないか。名残惜しげな様子には申し訳なさを感じるが、彼女は大人しく、篝さんに連れられ退出する。

「……それで、話というのは?」

「ああ、毎年うちで仕切っている夏祭りがあるだろう? あれについてなんだが」

 夏祭り、と反芻する。織原さんにも話した玄鳴での花火大会とは別に、最上沢で行われる夏祭りがある。父の言う通り、そちらも豊条主催で運営も担っている。

「夏祭りの運営、炸夜にやらせてみようかと思っていてな」

「本気ですか? 僕には荷が重すぎると思うんですが」

「さすがに全部とは言わんさ。というより、今年も毎年馴染みの方ばかりだからな、手配は概ね済んでいるよ。残っているのは開催までの調整と、当日の運営ぐらいだ。皆さん慣れてらっしゃるから、調整もさほど必要ないはず」

「はぁ……わかりました。お受けしましょう」

 これも勉強のうち、と思えば断固拒否する理由もない。

「それで……高校は、どうだ?」

 それからの話は、会長というより父親としての会話だった。時折熾さんが茶を啜る音を挟みながら、単なる親子話が続いていく。情報の秘匿性は必要ないが、これはこれで、織原さんがいても居心地が悪いだろうな。


          ◇◇◇

 お父さん、ここに住んでる知り合いを頼ったのでなければ、本当にどこへ行ったのだろう。

 期待が大きかったのは事実だけれど、これで落胆するのは、なにか違う気がする。

 緋州さんに付き添われて廊下を歩いていると、襖の開いている部屋が見つかった。稗の間、と書いてある。さっきの部屋も稲だったし、五穀豊穣と掛けているのかも。

 覗き込んでみると、廊下側から見て部屋の反対、縁側で躙虎さんが庭に向かって腰掛けて、細い葉巻をふかしている。シガリロ、っていうんだっけあれ。前にお父さんが仕事の資料にって買ってみて一度吸っていたけど、すごく噎せてたのを憶えてる。

 でもお父さんと違って優雅に見える躙虎さんは、まるで何かの撮影をしているみたいに様になる――なんて思うのだけど、それ以上に気になるのが視界の中に。机も座布団も何もない部屋の真ん中、焚さんがうつ伏せに倒れて屍と化していた。

 緋州さんがため息をついて部屋の中に入っていくと、微動だにしない焚さんを躊躇なく踏みつけた。傍目には男の人が女の子を踏みつけている、とんでもない絵面なのだけど。

「おい兄貴、こんなとこで寝るな。目障り」

 げし、げし、とさっきやられたお返しとばかりに、くり返し。そうしているうち、何の反応も見せなかった焚さんがうめき声のようなものをあげた。

「篝、もっと……もっと、踏んでくれ……焚はな、妹に足蹴にされる、惨めな兄なんだ……」

 緋州さんは踏みつけるのをやめ、汚物でも踏んでしまったかのようにそっと距離を取る。さすがにわたしもちょっと引いた。

「躙虎姐さん、兄が目覚めかけているのですが」

「ゴミ捨て、頼んだよ」

「……了解」

 二週間捨て忘れた生ゴミにでも触れようとするような所作でゆっくり近づいて、やっぱりポニテを掴むと、ゴミ袋みたいにどこかへ引きずって行く。

 その様子を眺めていると、こちらに背を向けていた躙虎さんが顔だけ振り返り、「そんなとこ立ってるぐらいなら、こっちに座りな」と微笑みかけてきて、葉巻を手元の灰皿に押し付けた。

 瀬堂さんが戻ってくるまで出来ることがないので、素直に従うことにした。

 躙虎さんの隣から見えるのは裏庭で、正面口と比べるとさほど広くはなかったけれど、観賞用に整えられている。枯山水、というんだっけ。敷き詰められた砂利で象られた波紋は、時の止まった川のようにも見えたけれど、昼過ぎの斜陽に浮き出る色濃い陰影が絵画のようにも見えて、独特な景色を形作っている。

「電話で木城に聞いたよ。父親を捜しに、はるばる東京から来たんだってね」

 木城さんは確か、HandS探偵事務所の二班班長、クールな美人さん。同性が憧れるような、カッコいいお姉さんって感じの人だ。躙虎さんも、ベクトルは違うけど、多分その類の人。

「身一つで不安もあるだろうに、それほど大事なんだね。良い娘を持ってさぞ幸せだろう」

 わたしはゆるやかに首を振った。幸せなわけがない。全部わたしが招いた、全部わたしのせいなのに。それでもやり直したいと切に願うぐらい、お父さんが大事なのは確かなのだけど。

「わたしには、最上沢まで来るだけでいっぱいいっぱいで、瀬堂さんたちにお世話になりっぱなしです」

「気にする事ないさ。人間社会ってのは助け合いがなきゃ立ち行かない。その礎になれるなら、アタシらは本望なのさ」

 なんだか瀬堂さんが言いそうなことだと思って、彼のお母さんだと今更思い出した。この人の影響を受けているんだなぁと思う。わたしも、お父さんの影響があったりするのかな。

 ――口を滑らせたのは、そんなことを考えていたからなのか、じっと見ていると吸い込まれそうになる波模様のせいなのか。

「……こんなにお父さんにべったりなのって、変なのかなって、思ったことはあるんです。周りの友達とかは、父親がうざいとか、嫌いとか、そういう子ばかりで。わたしはそんなこと、考えたこともなかったんですけど」

 そんな自分に気付いたのは、過去のこと。そしてそれは、わざわざ思い出そうとするまでもない……すべての始まり。

「良い事じゃないか。アタシがそれぐらいの歳の頃は、父親なんざクソジジイ呼ばわりして喧嘩ばかりだったよ。思うに、愛されるのはそいつの魅力だが、愛せるのはそいつの尊さの証さ。反抗期でもいいような年頃で父親をちゃんと愛せるのは、素晴らしい事だよ」

「でも、自分の気持ちがこんなに大きかったんだって、気付くのが遅すぎました。失ってから、どんどん大きくなってく」

「まだ失ったわけじゃない。ただ見失っちまっただけ。だろう?」

 訳知り顔に見えるのは、木城さんに聞いているからなんだろうな。きっと鷹柳会のことも含めて――当然か。あの人達全員の上司みたいなものなんだから。

「その胸ん中にあるモノ、忘れちゃいけないよ。大事なモノだ。アタシもね、自分で手にしてみて、初めて気付いたモノがある――我が子がいかに愛しくて、我が子に愛されるのはいかに幸せな事か、って」

「せど……炸夜さんのこと、ですか?」

 無愛想でお説教くさいところがあるあの人で、どうもそんなイメージが湧かない。

 躙虎さんは、くくっ、と喉の奥で笑う。

「最後のは願望だけどね。母親としての愛情はちゃんと持って接しているつもりだが、アタシも立場が立場だ。あの子にとっちゃ身近な他人、敬うべき上司ってところか。期待するだけ無駄だとわかっていても、いざ親になってみると、そんな幸福を願わずにいられない」

 そう言って躙虎さんは手を伸ばしてきた。指の背でこめかみをなぞるようにした後、耳の上のあたりを手のひらでそっと撫でられる。常に身にまとっている凶暴な気配は、その手からは感じられなかった。

 優しく、見守るような表情をしていた。わたしには家族といえばお父さんしかいないのだけど、多分、母親がいたらこんな感じなのかな、なんて思う。わたしがそう思うぐらいだから、もしかしたら躙虎さんも娘がいたら、と思っているのかもしれない。

 会ったばかりの人に頭を撫でられて、そう感じるのも、ちょっと不思議だ。

「いい髪しているね。触れている方も心地良くなる」

 褒められて、嬉しくなる。髪はがんばって手入れしているというのももちろんそうだし、わたしが髪に気を遣うようになったのは、お父さんに頭を撫でられるのが好きだから。わたしの頭に触れるお父さんに、少しでも心地良さをお返しできたらと思ったから。

 最近はそれを、忘れていた気がする。髪の手入れは習慣になってしまったし、もう何ヶ月も、父と触れていない――あの時を除けば。

「――すまない。興が乗っちまって、変な話をしてしまった」

「いえ、そんな」

「ま、丁度旦那の長話も終わったようだ」

 言われて振り返ると、稗の間の入り口には瀬堂さんと、いつの間にか戻ってきていた緋州さんが立っていた。

 瀬堂さんに手招きされて、わたしは躙虎さんに一礼し立ち上がる。背を向ける一瞬、横顔に少し淋しげな表情が見えた気がした。

 我が子が愛しい、と言っていた。その息子さんはいま、同じ市内とはいえ離れて暮らしていて、それはやっぱり寂しいのかもしれない。

 お父さんもいま、寂しかったりするのかな。


          ◆◆◆

 マンションに戻ってから、僕は夕飯の支度を始める前に、リビングのソファでぐったりと天井を仰いでいた。妙に疲れた。

 織原さんに充てた部屋から楽しげな声が漏れ聞こえる。いま中では、買ってきた服の事で篝さんと一緒に盛り上がっている。店で試着したはずなのだが、また着ているのか。

 本家を出てから、僕達は当初の予定通り、織原さんの服を買いに行った。あとは男の僕が首を突っ込むべきではない類の生活必需品。荷物が鞄一つと傘だけの彼女には色々必要だから、多少は時間に余裕を持たせていたつもりなのだが。

 しかしどうしてこう、女性の買い物とは、こんなにも時間がかかるのだろうか。

 店一件あたりの滞在時間が長い。非常に長い。服選びに時間がかかってしまうのは承知だが、それにしても長い。どんな服がいいかと織原さんと篝さんが相談している間、する事もなく待たされている僕にはあまりにも長い。とにかく長い。

 結局夕食の買い物も済ませて帰る頃には、夏だというのにすっかり日が暮れてしまっていた。

 目を閉じて、はしゃいでいる二人の声に耳を傾けてみる……まあ、時間をかけただけの成果はあったようだし、よしとするか。僕の見積もりが甘かったのだと考えておこう。

 手元に置いていた携帯に着信が入った。手にして画面を見てみると、東京に向かったサルマーンさんからだ。

『鷹柳会について収穫があったので、取り急ぎ、お耳に入れておこうかと』

「今日発ったばかりでですか。さすが仕事が早いですね」

『どうも目立つ動きがあるようでして。詳細はこれから洗っていくところですが――』

 入手しやすい情報にしても、東京に向かった三班はサルマーンさんを含めてもたったの五人だ。そんな優秀な人達を部下に持つ身としては鼻が高い。

『鷹柳会の構成員が最上沢に向かった理由なんですが、内部での派閥争いが関係しているようです』

「派閥争い?」

『ええ。現在の組長が病床に伏していて、最近表に出て来ないあたり先は長くないのでは、と噂されています。そこで後継者候補として、組長の息子と若頭が挙がっていて、それぞれを推す派閥が出来上がっているのだとか』

「跡目争いか……考えた事もなかったですね」

『そりゃ、豊条ウチは若で決まりですし。血縁的にも能力的にも文句ないでしょ』

「まあ、その前提で教育受けていますからね。しかし長の直系と並んで跡目候補とは、鷹柳会の若頭は伊縫さんの言っていた通り、結構なキレ者のようですね」

『ぱっと見の印象では若頭派の優勢ですかね。一方で――息子側の派閥は、直系派、とでも呼びますか。こっちの方は、当の組長の息子に問題があるといいますか。なんというか、才覚に欠けるというか』

「社会の裏表に関係なく、二代目にはよくある話ですね」

『この息子、篝サンと同年代ですが……裏社会の人間というより、悪い商売に手を出して調子に乗ってる大学生みたい、という感じの評判ですね。どこぞの跡目の高校生を見習ってほしいものです』

 それからしばしの間、調査方針についていくつか打ち合わせ、通話を終えた。

 まだ二人は部屋でお楽しみ中だし、夕飯の支度をしがてら、思索する。

 東京の鷹柳会が最上沢に構成員を送り込んだのは、内輪揉めでしかない派閥間抗争に関係がある。どういう事だろうか。

 問題はその中身じゃない。僕にせよ伊縫さんにせよ、漣至さんにまつわるものという可能性を見ていたのだが……織原さんだって、それに心当たりがあるようだった。

 繋がっているように思っていたのは錯覚だったのか?

 情報が揃うのを待つしかない……しかし想定以上にややこしい事案かもしれない。

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