六_2、救えない僕と、こわれゆくわたし
◆◆◆
篝さんと相談し、どちらかは必ず起きているようにして、交代で睡眠を取る事にした。
織原さんがまた何か良くない衝動に駆られた時に止められるよう。一度でも見逃してしまえば、招くのは最悪の結末だ。
尤も、彼女の状態そのものは最悪に等しい。精神状態は言わずもがな、拒食による栄養失調に自傷行為と自殺衝動、睡眠もほとんど取れていないようで、ずっと白昼夢の中にいる。人はたった数日でここまで心身共に消耗し変わり果てるものなのか。
何より愛していた父を失った、というだけではない。懸念していたのとは違う形だったが、根本の要因が自分にあるという自責の念、救えなかったという罪悪感、父の足跡を辿ると共に肥大化し醸成されたそれらが、織原さんの中で劇薬となって蝕んでいる。
やり切れない。家族でも何でもない僕ですら、そう思う。
関わるべきではなかったのかもしれない。織原さんと会ったあの日、久山らを追っ払ったら別れを告げて、去るべきだったのかもしれない。期待など持たせなければ、壊れる程の傷は負わなかったかもしれない。涙は流しても、立ち直る気力は残ったかもしれない。
……やめよう、こんな考えは。一人の時に思考の底無し沼に足を踏み入れたら、僕も抜け出せなくなる。そうなったら、彼女が死を望んだ時、きっと手伝ってしまう。
頭を切り替える為、キッチンに向かう。材料を大雑把に刻んでグラスに放り込み、ろくに混ぜもしないままジンジャーエールを一気に飲み込む。味なんて生姜のジャリジャリした食感と辛味しかわからなかった。
次にリビングに戻って、本棚から適当に一冊抜き取って、ソファにどっかり腰かけて開く。
気を紛らわせられるなら何でも良かった。現に文章を追う目は言葉として読んでいない。
しかし記憶とは恐ろしいもので、何を読んでいるか視覚は認識していない癖に、脳はページに描かれている内容を浮き上がらせる。
吏原漣著作『泥に咲く』。悲劇的な物語。背表紙も見ずに取ったとはいえ、我ながら最低最悪のチョイスだ。
そして皮肉にも、はじめ読んだ時よりも、僕の中でこの物語は広がっていた。
終盤でヒロインは一途に想っていた男を失う。全編を通して主人公、その男の目線で展開する為に、その時の彼女の姿は描かれていないのだが。
結末の舞台裏で、このヒロインは嘆き悲しんだろう。男を救えなかった自分を強く責めたろう。もしかしたら自死を選んだかもしれない。
そんな情景が浮かぶのは、ひとえに今の織原さんと重なって見えてしまうから。父親か恋人かの違いさえ除けば、恐ろしい程に。
恐ろしくなる程……重なって、見える。
……。
…………。
「………………いや、まさか」
何故、そこまでダブって見てしまう。だいたい、『泥に咲く』の発売日と出版にかかる月日を考えれば、この作品の執筆は例の事件はおろか、すれ違いが始まってすらいない時期だ。
単なる偶然……そう、偶然だ。何の因果関係もない。
ただ、そこに見つけてしまった可能性に、戦慄が走る。
何故、いままで気が付かなかった。遅すぎだ。然るべき時にこの糸を見つけていれば、手繰り寄せて真実に繋がっているか確認する余地はあっただろう。
意志とは関係なく、目まぐるしく思考は回り、いくつもの接続点を見出していく。
業務用端末を持って来て、必要な情報を探し出す。あった。記載された数字の羅列を携帯に打ち込みコールする。念の為非通知で。その間も、出すべき指示を入力していく。
……もう深夜だ。時間を改めるか。いや、もう少し。
とてつもなく長く感じる十五コール、さすがに諦めかけた瞬間、ようやく相手に繋がった。
『…………誰だ』
不機嫌さを隠しもしない低い声。僕は声の震えを押し殺し、余裕の態度で臨む。
「夜分遅くにすみません。ご無沙汰ですね――久山さん」
◇◇◇
そういえば最初の日、ちゃんとした食事を摂るのがいかに大事か、って炸夜さんがお説教してたなぁ。なんの脈絡もないけれど、そんなことを思い出した。
ズレたピントを延々合わせようとし続けているような、ぼやけて揺らめく白い壁……天井? どっちでもいいか。
いまわたしが、現実にいるのか、夢の中にいるのか、それすらもわからない。
でもどうせなら、夢がいい。現実なんて、いらない。
頭の中に、ずっと同じ言葉がこびりついて離れない。
あの日、いいそびれた言葉。いうべき言葉。いいたかった言葉。
ごめんなさい。
ほんとうに、ごめんなさい。
ばかでごめんなさい。たすけられなくてごめんなさい。よくばってごめんなさい。おいしいごはんたべてごめんなさい。れもねーどのんでごめんなさい。はなびをみてごめんなさい。あいしてごめんなさい。あいされてごめんなさい。あなたのむすめでごめんなさい。うまれてきてごめんなさい。いきててごめんなさい。あなたをころしたのはわたし。ごめんなさい。
くるおしく、くるって、こわれそう。こわれてしまいたい。
――ああ、なにか、たべなきゃ。
生きていたくない。死んでしまいたい。でも生きてるうちに、しなきゃいけないことがある。
それがなにかは思い出せないけど、ばかでもやらなきゃいけないこと。
ベッドの縁に頭を転がしていたわたしは、同じようによれたシーツに乗っかってる、自分の手を見る。右手か左手かもわからなかったけど、どっちでもいい。
手を口元まで持ってきて、親指の付け根に噛み付く。顎に力を入れる。
ごりっ、て音がした。ぎちぎち。痛い。痛い。手のひらの傷が、圧迫されてどくどくする。
味がする。鉄っぽい味、酸っぱい味、ひりひりする味。消毒液?
口を離す。涎の糸を引く親指はまだ元の場所にあって、巻かれた包帯が少しほつれただけ。なにも食べてないから、力がでなくて、食べることもできないらしい。
仕方ないから、気持ち悪い味のする唾を飲み込む。
「…………、――っ! ぇほ、ゲホッ…………けはっ……ゥゥ……」
白い壁も天井も床も全部がぐるっと回った。空っぽの内臓が、自分の中にあったものさえ受け入れなかった。
このまま、少しずつわたしが減っていって、全部なくなったら、死ぬのかな。
ちょっとだけ怖い。ちょっとだけ。
苦しいのかな。痛いのかな。辛いのかな。それとも、楽なのかな。
楽なのは、だめ。わたし、悪い子だもの。お父さんを、裏切って、殺した。
悪い子は、ちゃんと、おしおきしないと。
お父さんはしてくれなかった。お父さんはもういない。だから、だれか、わたしを。
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