六_1、救えない僕と、こわれゆくわたし
◆◆◆
「……炸夜くん、君もそろそろ何か食べな。今日何も食べてないでしょ」
「食べる気分じゃないんです」
「食事が資本、っていつもお説教してるのは君だよ」
「うるさいな」
言ってしまってから、僕は深く息をついた。ソファに全体重を乗せ、天井を仰いで顔を覆う。
「……すみません、いまのは、失言でした」
「仕方ないよ。オレでよかったら、いくらでも八つ当たりしな」
「……すみません」
八つ当たり、か。そうだろうな。
「告げるべきでは、なかったんでしょうか」
「どうだろうね。翌朝には報道で出てたし、黙ってても目についたさ。むしろ、自分から言って責を被ろうとした分、偉いと思うな」
「……そんな大層なものじゃないです。あの時、僕は何も考えられなかった。事実を受け入れる事は出来たけど、それを伝えるべきかどうか、頭が真っ白になって……気が付いたら、織原さんが倒れていた」
こんなのってアリか、と思う。
織原漣至さんが亡くなった。死因は轢き逃げ、つまり事故。
鷹柳会の手によるものかとも考えたが、この感情をぶつける矛先にしようとしているだけだと気付いた。彼らの目的が、担ぐ神輿を壊された報復である以上、轢き逃げだなんてのは考えづらい。そもそも死因は重要じゃない。亡くなった事実が全てだ。
全部、無駄だったのか? いや、そんなはずはない。
殺人容疑で手を引く事にした事務所を説得して調査を続けるべきだった。和やかに読書に耽る暇などなかった。漣至さんへの理解を深めるなんて理由は、彼女の傷をより深くする結果にしかならなかった。
執り得る全ての手を尽くしていれば、或いは、間に合ったかもしれないのに。
あれから、四日が過ぎた。
あの日あの時、織原さんは気を失ったのを境に、目に見えて変調を来している。
連れ帰ってきた彼女が目を醒ますと、ここがどこなのかを確認するように辺りを見回した後、ベランダに出て飛び降りようとした。僕がキッチンに立っている時、物欲しげに包丁を見つめていた。グラスを落として割ったかと思えば、破片をかき集めて飲み込もうとした。
衝動的なそれらを除けば、まだ落ち着いてはいたが……食欲がない、と食事は拒否された。昨日の朝には無理矢理食べさせようとしたが、三口目で吐いた。水だけなら何とか飲めるのがせめてもの救いか。
だが、それを最後に織原さんは自室に篭り、一度も出てきていない。
部屋の仕切り扉一枚が、固い拒絶に思えた。
……当然だ。救ってみせるとのたまった癖に、このザマなのだから。あんなにも信頼を寄せてくれていたのに、全部引き受けた上で裏切った。
ぼん、と妙な音が聞こえて、僕と篝さんは眉を顰める。
少し経って何かが軋む音が聞こえ、音の正体を悟って織原さんの部屋に駆け込んだ。鍵はかかっていない。そんなもの、彼女がこうなってすぐに壊している。
扉を開けるのと、みき、と細い金属が折れた音は同時。
部屋の真ん中で鳶座りをする織原さんの姿に、ぞっと鳥肌が立った。
不思議そうにこちらを見上げる目は、黒く濁りきっていた。唇は渇いてひび割れ、手入れのされなくなった髪は艶を失い、何かに汚れ、細い束となって、一部の房は半ばで千切れている。
そしてノースリーブでむき出しの首筋や肩、二の腕に、まだ血の滲むかさぶたで覆われた、無数の引っ掻き傷があった。
何の用かと言いたげに首を傾げ、彼女はすぐ興味を失い、破壊作業に戻った。
傘だ。いつも持ち歩いて大切にしていたはずの、黒いタータンチェックの紳士傘。
既に一本欠けている骨を掴み、ぐい、ぐい、と曲げて、へし折る。まるで幼子が玩具で遊ぶように。
その手首を掴んで止めると――全力で振り払われて、織原さんは壁際まで後ずさった。ひどく怯えた目で僕を凝視して。
一瞬見えた手のひらも指も血まみれだった。幾筋もの傷が走り、傘の骨で傷ついたのかもしれない赤い血も流れていた。爪も割れ、剥がれかけた箇所から血が滲んでいる。
「……篝さん、救急箱――」
言うまでもなく救急箱を持ってきていた篝さんに、織原さんを押さえておくように頼み、二人がかりで傷口の消毒と、ガーゼを当てて包帯を巻いていく。何度か頭突きを食らって鼻血が垂れたが、気にせず続けた。
……僕は、知っていたはずだ。吏原漣の作品を通じて目にしていた。愛する人を失う痛みがどれほど大きいのかを。空想上の話だと決めつけていた。
現実のそれに、織原さんは耐えられなかった。
「炸夜くん、ここまでなったら、さすがに……」
「わかっています。でも――」
言外に病院を示していたが、傷の治療を受けた後、何科に行き着くのか考えるまでもない。
そうするべきだともわかっている。だが、日本社会における精神症状への無理解と偏見は僕でも知っている。それは今後の彼女に重すぎる足枷になる。
それが馬鹿馬鹿しい希望だともわかっている。今を乗り越えねば、懸念するような今後すら存在しないのだと。
それでも、踏み切れない。
「――僕の、責任だ」
探偵事務所所長としての、吏原漣に魅せられた読者としての、信頼された人間としての。
織原さんが壊れてしまったのは、僕のせいだ。
◇◇◇
ゆらゆら、ふらふら、ぐらぐら、ぐるぐる。
あたまがどこかにとんでいる。
からだはじくじくいたいいたい。
のどはがらがら、おなかがぎゅうぎゅう。
くろいこうもりがゆかにのびてる。
くろいなにかが、かおについてる。
じゃまだからひっぱって、あたまがどこかにぎゅっとなる。
きれいにとれたくろいけは、くろいこうもりにくれてやる。
ここはどこで、いまはいつ? さくやさんとひしまさんどこいった?
わたしはどうしていきている?
――時折、ふとした瞬間に意識が鮮明になると、猛烈な吐き気と寒気に襲われる。
内臓がひっくり返るような嗚咽で出てくるのは、涙と胃液だけ。何度も何度も吐いて、もう喉は焼けるように痛いし、口の中もひりひりする。
包帯の巻かれた手を見下ろす。口を押さえてしまって濡れた包帯は血が滲んで、だいぶ傷んだ髪が絡み付いていた。
わたしの髪だと気付くのに、かなり時間がかかった。
なんで、かな、本当に。
息をするだけでも痛い。体中が膨れ上がったみたいに痛い。髪を無理矢理ちぎった頭も痛い。何も食べずに萎縮した胃が痛い。吐いた胃酸に爛れた手が痛い。胸が痛い。心臓が痛い。
息をするだけでも苦しい。体中が窒息したみたいに苦しい。大切なモノを失った頭の中が苦しい。空腹に喘ぐ胃が苦しい。胸が苦しい。肺が苦しい。心が苦しい。
なんで、わたし、生きてるの?
お父さん、死んじゃったって。
大好きなお父さん、わたしのせいで、死んでしまった。
わたしが裏切ったから。わたしがばかだったから。わたしが無力だから。
なんで、お父さんじゃなくて、わたしが生きてるの?
わたし、なにもできないのに。お父さんを助けられなかった。お父さんを見つけられなかった。わたしのせい。わたしのせいなのに。なんでお父さんなの? お父さんが生きてるほうがよかったよ? 炸夜さんも、お父さんの書く小説が、好きだもの。
炸夜さん……
「……たすけて、くれるって……ゆったじゃん……うそ、つき」
わかってる。わかってるよ。全部、わたしのせいだもの。炸夜さんは、なにも悪くない。
お父さんの優しさがもっと欲しかった。お父さんの娘だって感じたかった。
悪いのは、わたし。だから、ねえ、だれか教えてよ。
なんでわたしが生きてるの?
教えてくれる人はいなくて、わたしはまた朦朧と、どこかにさまよっていく。
くらい、くらい、ゆめのそこに、わたしはおちていく。
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