五_3、火華の炸く夜と、深く凪いだ夢

          ◆◆◆

 幼い頃から慣れ親しんだ玄鳴の花火大会。

 特に感じ入る事はない。打ち上げられる花火も、運営や職人など携わった人達には失礼だと思うが、正直見飽きたと言っていい。

 そう思っていたはずなのだが。

 僕の視線は自然と、やはり一人分の距離を空けて、隣に立つ深凪さんに向いていた。

 一心に夜空を見上げ、桜よりも短い生を終えていく花々に見惚れるその横顔は、素直に美しいと思った。だって仕方ないだろう、ただでさえ目を奪われる瞬間があるのに、こんな。

 ……いい加減、認めざるを得ない気はする。篝さんの言った事。元々自覚的な部分がないわけでもなかったのだし。まあ、認めてしまうだけで、何かあるわけでも、するわけでもない。

 しかし、困った。花火なんていうのは燃焼速度と炎色反応を組み合わせた化学的構造物に過ぎないというのに、その描く芸術が観客にまで伝播するなど、どんなに理科学を勉強したってわかりはしない。

 いや、なにこっ恥ずかしい事を考えているんだ僕は。自覚した途端ポンコツ野郎か。

 目を背けて素直に花火鑑賞に勤しもうと思うのに、心の中の何かが邪魔して押し留める。いま、こっちを向かれたら、なんだかまずい気がする。

 せめてずっと、花火に夢中でいてくれ。



 やがて全ての花火が打ち終わると、注意を促すアナウンスと共に、観客達はいそいそと会場を後にしていく。予報が外れ、ぽつぽつと雨が降ってきていた。

「やっぱり持ってきて良かったですね、これ」

 上機嫌かつ得意げに、深凪さんは持参していた紳士傘を開く。ぼん、という音は、なんとなく花火を打ち上げる瞬間に似ていた。

「やっぱり来て良かったです。すっごいキレイでしたし。あ、写真撮ればよかった……って、花火ってちゃんと撮れるんでしたっ――ぁれ、炸夜さん?」

「帰るよ。どこかで篝さんに拾ってもらおう」

 僕は差した傘をふんだくって、深凪さんが濡れないように差した。一人分の間を空けて。大きめの傘とはいえ当然僕は雨ざらしだが、自分の分は持って来ていないのだから仕方ない。

 歩き出すと、深凪さんは大人しくついてきて傘の下に入っていた、のだが。

「……なにしてるんですか。濡れちゃいますよ」

 その瞬間、内心では留まらず態度に出てしまう程、狼狽した。

 傘を持つ僕の手を、寄りかかるように押し込んで、二人が傘の下に入るようにしてきた。空けていた距離なんて、いまはどこにもなくなっていた。

「この傘、わたし一人じゃ大きすぎますし」

「いや、それはわかってるけど」

「ていうか自分が入らないのに、なんでぶんどっちゃうんですか」

 本当にね。なんでだろうね。

「じゃなくて……平気なの?」

 ちなみに僕はあまり平気とは言い難いのだが。

 腕が触れ合う程近くで、初めはテーブル越しでも怯えを見せていた深凪さんは、僕を見上げて柔らかに微笑んだ。

「炸夜さんは大丈夫、怖いなんて思いません」

「……そ、う。なら、いい、けど」

 しとしと、さらさら。雨の中、同じ傘の中で、並んで歩く。

 あの日、僕が引き受けたのは、途方もなく厄介な案件だったらしい。

 ……しばらくして、冗談抜きで、本気でそう思った。



 やがて雨がひどくなってきて、僕達は通りがかった公園の四阿で雨宿りする事にした。

「篝さんに場所伝えたから、しばらくしたら来るよ。焚さんは雨で早々に諦めて、本家に回収されたらしい」

「回収って」

 篝さんとの通話を終えてそう告げると、僕は四阿の中、深凪さんが腰を下ろしているのと向かい側のベンチに腰掛けた。四阿は僕達だけで、距離は多分六人分ぐらい。

「……なんか、遠くないですか?」

 詰まる事がないと思っていた物理的距離を思いがけず埋められてしまった反動だと察して欲しい。いや、やっぱりわからなくていい。

 まるで中学生男子だな、と自分でも思う。意識している相手と触れたぐらいで動揺しているのだから。尤もそういう経験が皆無な僕は、中学生どころか小学生とでも張れる自信がある。

 傘を綺麗に畳んで立てかけた深凪さんは、何かを考えているようだった。時折目線を向けられたが、僕は僕で顔を伏せて考え事をしている振りをした。

 無言の時間を過ごす中、不意に、携帯が着信を告げた。伊縫さんからだ。

 携帯を手に立ち上がり、念の為雨に濡れないギリギリの角に行って応答する。

『サルマーンから新しい調査報告が共有されてるが、見たか?』

「……あー、すみません。花火大会に行っていて、端末を家に忘れてしまいました」

『そうか。良い報せだ、いま伝えよう』

「恐縮です」

 ……なんだ、何か引っ掛かるな。

『高柳のガキと志麻が殺害された件だが、どうやら例の親父さんはシロになりそうだ』

「本当ですか」

『ああ。こないだの若の憶測をベースに調査してみたらしいが、致命傷は若頭派の手による可能性が強まった。いまんとこは状況証拠だけで法的根拠は弱いが、洗っていけば容疑は晴れるはずだ。嬢ちゃんにも伝えてやってくれ』

 スピーカーに耳を当てていなければ聞き取れなくなる程の雨。視界は一面に、公園の土が水浸しになって泥沼のように広がっていた。

『…………』

「……伊縫さん」

『あン?』

「他にもありますよね、報告」

『…………』

「いまの話は朗報です。でも伊縫さんが電話する程至急の連絡事項でもありません。なにより、わざわざ良い報せと言った。悪い報せもある、という事ですね?」

『……ああ。俺から、なるべく早く報告すべき事がある』

 普段容赦のない伊縫さんが、躊躇している。

 ――そして僕は、生温い日常に浸っていた自分を、呪った。

『すまねェと、嬢ちゃんに伝えといてくれ』


          ◇◇◇

 困ったことに、目下することがない。

 暇つぶしがてら炸夜さんに話しかけようと思っていたのだけど、何故かよそよそしいし、いまは電話中。真面目な表情なあたり、多分お仕事の話。

 さっき、相合傘をしていたとき、炸夜さんにいったことは本当だ。だけど本心として、少し試してみたくなったことがあった。

 わたしは、男性恐怖症を克服できるか。

 炸夜さんのことは信頼してて、男の人としては一番ハードルが低い人。そして実際、傘の下で近づいて、いっそ触れてみても、恐怖心は湧いてこなかった。

 むしろ、お父さんとは違う種類の、安心感のような感覚さえあった。

 お父さんを捜して、救う。炸夜さんはずっとそれに前向きでいてくれて、いくつもの成果を出してくれている。一方わたしはどうだろう。不公平なぐらいの契約に甘えて、自分で為すべきこともやれていない。

 もう何度も痛感したこと。お父さんを助けるのに、わたしひとりじゃどうしようもないって。

 お父さんが無事に戻ってきたら、全て元通りではなくても、わたしも前向きにならないと。

 その上で、男の人が怖いなんていってられない。

 さっきのは、炸夜さん相手だから試せた。万が一わたしに好意を持ってる人だったら、さすがに悪いと思うけど、彼は自分はヤクザだからとか、わたしはクライアントだとか、男性恐怖症だからと距離を置こうとする人なのだ。わたしを意識してるなんてありえないので大丈夫。

 驚かせはしてしまったみたいだけど。でも性根は優しく気遣ってくれる人で、お父さんを救ってくれるといった炸夜さんを、信じたい。

 ――その、いま誰より信頼する人の表情が、硬く強張る。

 不穏な空気に耳をそばだててみるけど、雨がうるさくて、電話の内容は聞こえない。

 盗み聞きなんて趣味が悪いけれど、結局何も聞き取れないまま電話は終わり、ふらふらと元のベンチに座り込んで、うつむいた。

「……どうか、しました?」

 炸夜さんは答えなかった。いまどんな表情をしてるのか、見えない。

 緋州さんが到着して、四阿まで迎えに来ても、炸夜さんの反応はなかった。

 だんだんと、予報外れの雨が強くなる。傘を持ってきてよかったといま思えないのは、何故?

 やがてのっそりと上げられた炸夜さんの顔は、漂白されたような無表情だった。

「……織原さん、報告があります」

 違和感に満ちた言葉に、怖気が走る。

「今朝にニュースでやっていた、轢き逃げ事件、憶えていますか」

 脈絡がない話に一瞬混乱して、すぐに気付いて、背中に氷を入れられたような感じがした。

 ……小説を読むときの、「この作者ならこうするだろうっていう予想」が、いままさにあった。

「伊縫さんのツテで、情報が入ったそうです」

 耳を塞ぎたかった。でも、身体が動かなかった。

「――被害者は、織原漣至。今朝既に、死亡が確認されています」

 現実感のない淡々とした声が、異常にうるさい雨の中にあって、残酷なほど明瞭に聞こえた。

 ……そういえば、あの日も、雨が降ってたっけ。

 身体がどこかにいってしまったような、ふらふらした夢みたいな感覚。

 ……ああ、そっか。これ、夢だ。

 だって、炸夜さん、お父さんを助けてくれるって、言ってたもの。

 夢からの醒め方は知ってる。嫌な夢を見たとき、そうしてるから。

 これは夢なんだって、強く、思えばいい。こんなの、現実なわけがないと。

 目を閉じると、世界が暗闇に落ちていって、ノイズみたいな雨が止んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る