六_3、救えない僕と、こわれゆくわたし

          ◆◆◆

「……ねぇ、それ本気? さすがにどうかとオレは思う」

「本気に決まっているでしょう。でなきゃ、ここまで準備しません」

「んー……炸夜くんが、そんな事するとは」

「馬鹿げた真似なのは自分でも承知ですよ」

 どん、と床にバケツを置く。手には蓮口を外した如雨露。どっちも一応衛生面を考慮して、新品で買ってきた物を熱湯消毒した。

 バケツにも如雨露にも、どろっと粘性の強いクリーム色の液体が満たされている。

 非常食としては優れたアレだ。ブロックタイプのを買えるだけ買い漁って、ミキサーで牛乳と合わせて液状にした。流動食タイプやゼリータイプもラインナップされているが、意外と手に入らないものだ。それに栄養面ではこちらに軍配が上がる。味は知らないが。

 少なくとも見た目は家畜の餌の方がマシ。これからする事を考えたら、実際そんなものだ。

 ノックもせずに扉を開けると、織原さんはベッドに横向きに頭を預けてぐったりしていた。死体のような有様だが、さっき咳き込むのが聞こえたから、まだ間に合う。

 血や吐瀉物で汚れた床に踏み込んで、織原さんの肩を倒し仰向かせる。

 顎を掴んで引っ張ると、抵抗なく口が開いた。そこに如雨露の注ぎ口を突っ込んで傾ける。

 すぐに溢れた中身が僕の手も彼女の顔も身体も汚していく。両腕はだらりと下がったままで、抗う気力はないらしい。

 如雨露を引いて、今度は口を閉じさせる。唇の隙間からこぽこぽと息が漏れた後、咳き込んで全て床にぶち撒けられた。

 問題ない。大量に用意してある。次だ。苦悶に歪む顔をまた掴む。

 二回目、また咳き込む。三回目、同じく。四回目、顔を背けられて口に入らなかった。五回目、嚥下するがすぐに戻す。六回目、同じ。七回目、「……やめて(ひゃめへ)」やめない。八回目、少し間を置いて吐瀉。九回目、やはり吐いて咳が強くなる。十回目――の前に、バケツから補充する。

 十度目を飲み込ませると、後ろから伸びてきた手が如雨露を持つ手首を掴んだ。

「やっぱ見てらんない。まるで拷問だ」

 あまりの握力に骨が軋む。さすが毒蛇と呼ばれるだけある。

 振り向く。篝さんの表情は、感情を押し殺して強張っていた。

「このままなんて誰も望んでないですよ。少しでも生き長らえるなら、拷問でも虐待でも喜んでやります」

 外道そのものだなんて自覚は充分にある。下手をすれば若頭派や女性を売り物にしていた高柳の方が、まだ人間的に扱うかもしれない。

 それでも良心など凍らせてこうしている。生きていてもらう為に。自己満足だろうし、恨まれるだろう。だが一向に構わない。

「……わかるけど、聞いてくれ。いまオレは、生まれて初めて、炸夜くんを本気でブン殴りたいと思ってる。やめてくんなきゃ、本当にそうなる」

「織原さんが巻き込まれない範囲でなら、どうぞ」

 震える程握り締めた拳が振り上げられ――止まる。驚いたような、呆気に取られたような、何とも言えない篝さんの表情。

 こつ、と如雨露の先端に何かが触れた。

 向き直ると、織原さんは力が入らず揺れる腕を伸ばし、如雨露に触れようとしている。

 何度か指先が掠め、弱々しく、注ぎ口を掴む。

 そして、押しのけるのでもなく、振り払うのでもなく、自らの方へ引っ張った。

 遅れて気付く。苦しそうにえずいているものの、最後に流し込んだ分は吐き戻していない。

 篝さんの手が離れ、僕はゆっくりと如雨露を床に置く。

「……飲める?」

 力ない頷き。

「わかった。グラスに注いで――」

 今度はぶんぶんと横に振った。身体に障ったか、少しよろめく。

「…………れ」

「うん?」

「これ……で、のまして……」

「……如雨露で?」

 ベッドにもたれたまま、かくん、と頷く。

 無理矢理にでも栄養を摂らせるつもりだったからこうしたのであって、自らその意志を示されると、こんなアヒルの強制給餌ガヴァージュみたいなのは気が引けるのだが。

 やむなく再開すると、彼女はやはり苦しく喘いだり、吐き出しそうにはなったものの。

 飲み込んだモノはちゃんと腹の中に収めていった。

 ……激しく咳き込みながら、一瞬、かすかに笑った気がしたのは、見間違いだろう。


          ◇◇◇

 炸夜さんがあんなひどいことするなんて、意外だったなぁ。

 餌を与えられた豚になった気分。や、豚なら自分で食べるか。なんだっけ、フォアグラになるアヒル、みたいな。そんな惨めな気持ち。

 それと、あのとき薬の入った水を飲まされそうになった恐怖が甦った。

 だから、たぶん、わたしの心が受け入れた。

 形はともあれ、ひさしぶりの栄養を、生きようとする身体は貪欲に取り込んだ。

 寒さを感じていたのが、いまは暑いぐらい。身体中の傷が熱に疼く。

 脳にもちゃんと栄養が届いたみたいで、ぼやけていた意識も感覚も、いくらかハッキリするようになった。

 そうしてわたしは、時間の感覚なんてとっくに失っていたけれど、ひさしぶりの眠りに落ちて、ひさしぶりの夢を見た。

 ここは、マンションの一室。壁も天井も綺麗な白じゃなく、黄ばんで汚れている。

 部屋にいる二人は、同じヤクザでも、まるで違う人たち。

 見てしまう度に拒絶して、現実へ逃避した悪夢。

 いまわたしは、それを受け入れる。あるべきだった現実を、夢に重ねて見る。

 流し込まれる水を、余さず飲み下す。

 皮膚を破って血管に刺さった針が、得体の知れないなにかをわたしの中に流し込む。

 悪魔が三日月に笑う。笑みを刻む口からぬるりと出たナメクジが、身体を這い回る。

 悪魔が太腿の間に割って入って覆いかぶさる。たぶん、痛い。

 そういえば、薬にはどんな効き目があるんだろう。危ないものっていうイメージしかない。

 不良仲間が、なにかいってたっけ。キメセク? 意味は知らないけど、気持ち良いらしい。

 その方がいいな。こんな風になって、気持ち良くなるのは、恥ずかしいし、惨めだ。

 ……だめだ、わからない。

 経験がないせいか、夢なのにそんな感覚がない。そういうフリでいいや。

 悪魔が、一人、また一人と、増えていく。わたしを取り囲んでいく。

 色んなのがいる。外見も、性格も、声も、臭いも、趣味も、色々。

 共通するのは、全ての悪魔が、男ということだけ。

 色んな苦しみが、色んな辛さが、色んな痛みが、順繰りに、あるいは同時に、襲ってくる。

 おぞましさ、おそろしさ。泣き叫びたくなるようなそれらに、いまは、安らぐ。

 こうあるべきだったんだから。

 こうなっていたら、お父さんは家でいつもみたいに「もっと頑張らないと」っていっている。

 こうなっても、わたしのせいだもの。

 現実にはならなかったから、せめて夢の中で。

 わたしがどんなに壊れたって、きっとあなたは、そばにいてくれるでしょう?

 贖罪の夢は、とても甘美な幻想だった。


          ◆◆◆

 暑い陽射しに滲む汗を拭い、最上沢の町を一人歩く。

 篝さんは同行していない。織原さんの状態が幾分かマシになったとはいえ、改善したとは言えない。むしろ回復した分、また悪い衝動を起こすかもしれない。説得に時間はかかったが、見張る為に残る事は了承してくれた。

 道すがら、結論に至ったまでの道筋を思い出す。

 とんでもない話だ。僕達は、たった一つの嘘に踊らされ続けたのだから。



『……その声、豊条んトコのクソガキか』

「そうですよ。ちょっと遅くなりましたが、窺ってみたい事がありまして。あなた方は報復を終えて、いま如何お過ごしなのかなと」

『白々しいガキだ。テメェ……いや、テメェら、何を仕組んでやがる』

「……はて、何のお話ですかね?」

『ふざけてんじゃねえ。報道は見たぞ、なんだアレは。ウチのクソバカがやらかしやがったのは事実だがよ、!』

 久山との通話。多少なりともヒントを得られれば、というつもりがいきなり核心だった。

 全て豊条が仕組んだ策略――そう思い込んでいたらしく、しらばっくれているフリをしていたら、久山は概ね語ってくれた。

 曰く、轢き逃げを起こしたのは彼の取り巻きの一人。現場で状況を確認したのち、豊条による行動制限を疎んじた久山は、圧力を最低限に留めるべく生贄として出頭させたのだと。

 。事故の犠牲者は全くの別人だった。まさかと思って何度も確認したという。それが翌日の夕方になって、どういうわけか漣至さんの死として報道された。

 ……普通ありえない事だが、つまり、偽装死。

 それは、僕が『泥に咲く』を読んでいて至った馬鹿げた可能性と合致した。

 あの物語で、舞台裏のヒロインは愛する人を失った悲愴に打ちひしがれていたのだろう。織原さんと重ねて見てしまう程に。だが真相は違う。死んでなどいない。自分に降りかかる悪しき運命に巻き込まぬよう、死んだ事にして去っただけだ。

 彼は、彼女の父親は、まだ生きている。



 偽装した事を前提にすると、別の可能性がまた一つ浮かび上がった。

 僕一人の手では到底足りず、事務所を動員して探る事にした。

 まず伊縫さんには、轢き逃げの犠牲者について調べ直してもらう事にした。彼はどうやってか被害者写真そのものを入手して、その目で久山の言葉の裏を取ってくれた。

 次に木城さんに、入手済みの漣至さんの目撃情報を、日時毎に分けての分布図を作成してもらった。明らかになったのはその行動範囲と、ある時点でぱったりと消滅している事。

 最後に東京のサルマーンさんへ、ある意味最も酷な依頼をした。



 目的地であるいつものコワーキングスペースに到着する。

 予めその人が来店しているかは電話で聞いておいた。中に入ると、何人かの客に混じって、聞いていた通りの隅のカウンター席に彼はいた。

 倉科さんの隣へ腰を下ろすと、彼はすぐに気が付いて、いつものように「やあ」と微笑む。

「先日、花火大会でお見かけしましたが、お話しするのは久し振りですね」

「そうだね。珍しいな、今日は一人かい? また、訊いてみたい事でもあるのかな」

「ええ、山程あります」

「そうか、ちゃんと答えられるかな」

「大丈夫、あなたは全部知っていますよ……そうですね、まず最初に、あなたの新作はいつ出るんでしょうか。あなたの作品が好きで、待ち遠しいというのに」

「新作、ね。私はまだデビューしてないんだけどな。読んだ事もないだろう?」

「いいえ。あなたの著作だけは何度も読み込んでいますよ。諳んじられる場面さえあります。なんなら、いまやってみましょうか。吏原漣先生?」

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