三_3、見つける僕と、背いたわたし
◆◆◆
長い話を聞き終えて、僕は手元のレモネードで口を湿らす。氷はとっくに溶け切って、薄まった蜂蜜の甘さは感じず、なのに酸味だけはいやに広がる。
己の手を包むように握り締めた織原さんは、ふと玄関を見遣った。
「あそこの傘……あの日、雨が降ってたから、帰りにお父さんが買ったものなんです。それだけのことなんですけど、わたしには忘れがたく大切で……思い出のある物は他にもいっぱいあったのに、あれだけ持って来ちゃいました」
そう言って寂しげに笑った彼女の目には、いまは溢れてこそいないものの、ふとした拍子に零れそうな程、涙が溜まっていた。
――端的に評すると、想像を遥かに上回っていた。
漣至さんの失踪、織原さんの男性恐怖症も全て合点がいった。
そして……僕の中で、何かが鎌首をもたげて、疼いている。
「話してくれてありがとう。正直、僕には言うべき言葉が見つからないが……せめて、有意義な結果に必ず繋げる事を誓う」
喋りっぱなしだった織原さんは、コップに口を付けて半分ほど飲み干した。僕と篝さんに向けて、気丈な笑顔を向ける。
「こちらこそ、ごめんなさい。手伝ってもらっている身なのに……最初に話すべきでした」
「おいそれと他人に聞かせられる話じゃない。この話をしてくれたのは信頼の証と僕は判断する。それに、前に言ったでしょ。鷹柳会はうちも用がある。それに寄与する情報を提供してくれた事、そして僕達を信頼してくれた事に、感謝したい」
頭の中で、話を聞いて得た情報から、鷹柳会の関わる部分だけピックアップする。
「……訊きづらい事だけど、この件、事務所で共有しても? 全てとは言わない。伏せたい点はもちろん対応する」
「決まってます。全部、明かして下さっていいです」
その固い決意に、僕は改めて感謝を示す。
これは実務的に見ても非常に有用な情報だ。警察関係を当たっている伊縫さん率いる一班、東京で直接調査しているサルマーンさん率いる三班にとって大きな指針となる。
いまの話で、全貌が明らかになったわけでは勿論ない。だが、織原さん自身勘付いているだろうが、彼女がはじめ口にした言葉で収まるような話ではない。
推察するに、違法風俗。織原さんが遭ったのはその商品の仕入れ段階だ。
水に混入されたのは、レイプドラッグとしてはポピュラーな
連れ込んだ少女をそれらを用いて犯し、その様子を撮影。事後にその画像をネタに脅迫し、あるいは打ち込んだ薬物と引き換えにして、紹介した相手との行為を強要する。下衆な思考をすれば、商品一人頭で年間一千万単位を稼ぐのも難しくない。幾ばくかの分前はあるだろうが、ほとんどは脅迫側の懐に入る。それは何らかの形で金にならなくなるまで続く。心を病むか、肉体的価値を失うか、自殺するか、映像の公開が実行されるか。
未然に済んだのは不幸中の幸いと言える。聞く限りでは手慣れている様子で、つまりその運命を辿った者も少なからずいるはず。それに比べれば、などと考えるつもりはない。片足を突っ込んだ織原さんが、心に深い傷を負ったのは事実なのだ。
「……あのさぁ、炸夜くん。なんでそんな冷静に話してんの?」
隣から底冷えのする声が聞こえて見てみると、篝さんは露骨に不機嫌な顔をしていた。控え目に言っても、殺意に満ち溢れている。
「オレ、聞いてるだけですんごい胸糞なんだけど。女の子を何だと思ってんだ。鷹柳会ってさ、この辺にいるんでしょ? ちょっと散歩してきていい?」
「気持ちはわかりますが、ダメに決まってるでしょ」
長年共に過ごしている僕ですら驚く程、キレまくっていた。
当然見過ごしていい事案でないのは僕も承知だが、かといって専守防衛に務める豊条では手の打ちようがない。それ以前にこの件に関してだけ言えば、全て東京で起こった出来事、つまり織原さんには悪いが管轄外なのだ。
それに、鷹柳会となると派閥の事もある。現状、この件がどちらの派閥の与しているものか判然としない。いま最上沢に踏み込んでいる連中がどちらなのか、或いは両方が別々に行動しているのかも。下手に手を出そうものなら、最悪、こちらが筋の通らない喧嘩を売る事になる。豊条のメンツとしてそれは非常にマズいし、余計な争いも生みかねない。
しかし、だ。一連の話を聞いて改めて思った事がある。あまり口を酸っぱくするのも気後れするが、今一度、注意しておくべきか。
「……織原さん、改めて思った事がある。今でこそ僕達がついているからいいが――」
「――無謀だ、って言いたいんでしょう?」
柔らかに言葉を引き継がれ、頷く他なかった。
彼女の覚悟は素直に賞賛に値する。だが気概さえあれば解決するような話じゃない。ヤクザ者と乱闘してでも娘を救った男が、身を隠す事を選んだ程だ。そこに首を突っ込むなど、自殺行為といっても過言ではない。
「最初の日、このマンションに連れて来てくれたとき、瀬堂さん言いましたよね。何の疑問もなくついてくるなんて何を考えてるんだ、って。あれも、わたしなりの覚悟です。がむしゃらに最上沢まで辿り着いたはいいけど、そこからわたしに出来ることがなにもないって察してました。だから、賭けだったんです。あなた達の協力を得られるかどうか、その一点だけ。もしも、瀬堂さんがわたしに乱暴を働いたって、協力してくれるなら構いませんでした。わたしはもともと、あの日に犯されるはずだった。お父さんまでの道のりでなにがあったって、保留になってたわたしの自業自得が降りかかるだけ。承知の上ですよ、無謀だなんて」
――織原さんと過ごす中で、僕が彼女に抱く印象は一定しない。
時には小動物のように怯えて一歩引き、時には周りも気にせず猪突猛進、時にはこうして、全ての苦難を知り、泰然と受け入れる修験者のよう。
「……わかった、その事について、僕はもう何も言わない」
折れる他にあるまい。自身の無力さも、身を投じようとしている危険の大きさも、故に無謀でしかない事も、全て承知の固い決意を前にしては。
「……ありがとう。それと、ごめんなさい。こんな遅い時間になってしまって」
言われて時計を見てみれば、もう日付が変わろうとしていた。僕ならともかく、織原さんはいつもなら既に寝ている時間だ。
「ゆっくり休んで。もし寝付きが悪いようなら、前のでよければ作るから。僕が寝ていても、叩き起こしてくれて構わない」
「そんなことしませんよ。大丈夫、今日はちゃんと寝れる気がします」
その声音に含まれていたのは、心底の安堵、なのだと思う。
織原さんが寝付いた頃、僕と篝さんはベランダで夜風に当たっていた。
彼女が語ってくれた内容を整理したかったのもあるし、あんな話をした後だ、嫌な夢でも見たら話し相手ぐらいにはなろうと起きているつもり。
尤も、篝さんの酒飲み相手になるとは些か予想外だった。あまり飲む人ではないのだが、織原さんの事を相当気に入っているし、そういう気分らしい。
「……思えば、夕方の木城さんのアレ、かなり際どいラインだったかもしれないですね」
「だね。身代わりになって揉まれた甲斐があったよ」
手すりに背を預けながら、篝さんはなみなみと注がれたウィスキーグラスを傾ける。僕の手にも彼女のと同じ琥珀色の液体が入ったグラスがあるが、こちらは生憎と麦茶だ。
「薄々思ってたんだけどさ」
夜風が涼しく、今夜は冷房いらないかな、などと思っていると、唐突に篝さんが切り出す。
先程は凶暴に見える程キレていた割に、なんだか楽しげな口調だ。酒の力、だろうか。
「炸夜くん、深凪ちゃんのこと好きでしょ」
「酔っているならさっさと寝て下さい」
「オレそんなお酒弱くないって」
にやにやしている篝さんに、僕はため息をつく。
「どうして大人はすぐそういう話にしたがるんですかね」
最近、倉科さんに同じ事を訊いたな。大人とは青春を過ぎた者、だったか。篝さんは本業に専念するだとかで高校には行かなかったから、僕を通して、体験しなかった時代を見ているのかもしれない。
「オレにとっちゃ弟みたいなものだから、気になるでしょうよ。さっき、深凪ちゃんがレイプされたって言った時、動揺してたみたいだしね。炸夜くんも男の子だねぇ」
「しますよ、仮にも同居人なんだから。あなただってしてたでしょ」
「そりゃ妹みたいに思ってるし、そんな事あったらショックだよ。未遂だって聞いてどれだけほっとしたか」
「弟と妹をくっつけたがっているんですか? それはそれで問題だ」
「で、どうなのさ?」
案外食いついてくるな。麦茶に口をつけながら、一応ちゃんと考えてみる。
結論からすれば、よくわからない。自分をなるべく客観視してみても、意識しているのは間違いない。ただそれが、なるべく周囲と距離を置いた結果、現在織原さんが最も身近な同世代の異性である、という点も少なくない。今までそうした感情を持った事もないし。
彼女はクライアントで、ただのクラスメイト予定。それ以外に考えた事はない。
僕自身の意識がどんな類のものであれ、それが影響する事はない。仮に恋愛感情だったとして、あの愚直で猛烈なファザコンを振り向かせるなど、僕の手に余る。
つまる所、好きかどうかの是非はどうでもいいので、篝さんに判断を委ねる事にした。
「顔見ればわかるでしょ」
今度は篝さんがため息をついた。
「オレにジャッジを任せる、って顔してる」
「……何故わかったんですか」
「何年の付き合いだと思ってるの。それ、口癖みたいなものだよね」
言われてみればそんな気もする。良くも悪くも、このヤンキー面は思う所があるのだ。
「同性のオレから見てもさ、深凪ちゃんは良い娘だし、見た目も申し分ない。そんな娘の、いまは父親に向けられてるひたむきな気持ち、もし自分に向けられたら……なんて考えるだけで、虜になりそうなものだけど」
「実際、自分じゃよくわからないもので。ただ、それとは別で、確かなモノもあります」
僕自身、以前から薄々感じていた事だ。織原さんに向ける意識の内訳に、それは無視できない程の容積を占めている。
「織原さんには悪いけど、僕はいま、かつてないぐらい、興奮しているんです」
「……え、なに、炸夜くんそんな趣味だったの? それ心配になるんだけど」
滅茶苦茶ぎょっとした顔をされた。自分でも誤解を招く言い方だったとは気付いたけど。
「あ、あぁごめん、そーゆー事か――愛の実在を疑っている、だったね」
そう、僕が吏原漣の作品群に魅せられたのは、そこに優しく美しい愛があるから。そしてそれを、剣と魔法の空想物語のような、現実に存在し得ないモノだと理想化していたから。
だがどうだ? いまの僕には、それをファンタジーと切って捨てる事が出来ない。
物語のような純然たる愛。漣至さんが身を挺して娘を救ったのも、織原さんが己を犠牲にしてでも父を救いたいと願うのも、根底にあるのは不純物のないそれではないのか。
果たして、全てなげうつのは親の義務だろうか。幾度も涙を流すのは子の感謝や恩だろうか。
そんな枠組で説明出来る事だと、僕には思えない。
物語はまだ途上。僕が担うのは、舞台袖という特等席で進行役を務める事。
実在した空想を、僕はただ、見届けたい。
「そっかー」と呟きながら、篝さんはグラスの残りを一気に飲み干す。
口元を手の甲で拭い、じっと僕をまっすぐ見据えた。
「炸夜くん、愛してるぜ」
「今夜は涼しいですね。肌寒くて鳥肌が」
「ひどくない?」
「酔っ払いの戯言を聞くぐらいなら、僕もう寝ますけど」
「いや、だってさ、愛なんてないとか悟ったような事言うんだもん」
別にいま言ったわけではない。それを覆されたという話なのだが。
「そりゃー心配もするわけさ。こんな美人なおねーさんと二人で暮らしてても、一度だって手を出そうとしないんだよ? それがいまじゃ美人な女の子が一人増えた。それで本読むか寝るだけとか、不健全じゃない?」
「健全さの代わりに失うモノがあるならいらないですよ。それと僕、オネエさんの趣味はないですし」
「あのだね炸夜くん、男扱いされる度、オレ何気にヘコんでるの知ってる?」
などと言いながら欠伸をかますのだから、如何に適当な事を言っているかがわかる。
寝ますか、とベランダから戻り、空いたグラスを流し場に片付ける。織原さんは宣言通り、よく眠れているようだ。
「ま、こんなくだらない話が出来るのも、もしかしたら愛の一種なのかもしれませんね」
自室に戻ろうとしていた篝さんが、驚いたような顔で振り向いた。
「珍しい。炸夜くんが寒い事言った」
「くだらないでしょう?」
「……良い事、だと思うよ」
苦笑が自室の戸に消えていくのを見送り、僕も自分の部屋のベッドに潜り込む。
ベランダにいた時はそうでもなかったのに、横たわるとすぐに瞼が降りてきた。
睡眠は休養であると同時、スイッチだ。
明日(もう今日か)には久々に、気を引き締めて臨まなければいけないのだから。
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