五_1、火華の炸く夜と、深く凪いだ夢

          ◆◆◆

 緩やかな時間が過ぎていく。

 予定は未定と言われるように、元々夏休み中の具体的な行動計画は立てていなかったのだが、鷹柳会の案件に加えて織原父娘の件があったから、休日という休日はかなり久し振りに思う。

 炊事掃除を日々欠かさず行いながら(洗濯は同居人二人が女性なので当然分担)、空いた時間はなるべく高校の課題に割いた。

 こういう時、篝さんは良くも悪くも仕事人間だ。僕の身辺警護という本業も、僕が家の中にいる以上同じように家に留まらざるを得ず、暇を持て余す。余暇の潰し方はもっぱら筋トレだ。仕事熱心なのは良い事だが、暑いからって全裸で部屋をうろつくのは織原さんが驚くからやめて欲しいし、場所がないからってベランダの手すりで人間鯉幟ヒューマンフラッグをやるのも織原さんとご近所さんが驚くからやめて欲しい。簡単なトレーニングをたまに織原さんが一緒にやっているのは、まあいいだろう。

 織原さんは自室かリビングで、一日のほとんどを読書に費やしている。僕の勧めで父の作品に目を通す事にしたからだ。ああは言ったが、実の所それ程期待しているわけではない。なにせ豊条の情報網にも引っ掛からないのだから、可能性はあれど期待というには及ばない。

 とはいえ、好きな作家についての話題が増えるのなら、素直に喜ばしい。彼女も存外没頭していて、落ち込みがちだった心持ちも落ち着いてきているようだ。


          ◇◇◇

 いろいろと考えさせられる。わたしは知らなさすぎたんだな、って。

 お父さんの小説を読むというのは、なんとなく気恥ずかしかったり、踏み入ってはいけない領分なんだと勝手に思って、いままで手を付けることはなかったのだけど。

 お父さんはこんなこと考えたりしたんだなー、とか。

 登場人物の女の子がする体験に、わたし自身の過去が重なって感情移入してしまったり。

 ちょっとえっちな場面になったときはこっそり部屋に戻って続きを読んだ。

 こうしてみると、ここにはいないお父さんに、少し近づけた気がした。お父さんが何フェチかは、知らないほうがよかった気もするけど。

 ただ、ときどき、普段本を読まないわたしにはわからない部分もあった。単に言葉だったり、表現の意味とか、話の展開とか。そういうときは、瀬堂さんに質問してみた。

 お父さんのファン(という以前に読書趣味なんだけど)である彼はその都度、丁寧に教えてくれた。知らなかったことが、どんどん、胸の中に吸い込まれていく。

「この辺とか、ちょっと脈絡なく感じるんですけど、どうなんでしょう?」

 見開いたページを渡して、目を通した瀬堂さんは苦笑した。

「ああ、これは仕方ないかな。先入観とか、ファンサービスの一種みたいなもの」

「?」

「作者名って、ブランドみたいなものなんだ。こういうのを書く作家、ってイメージ。この作者ならこうするだろう、っていう予想が伏線になるんだ、この場面は。作品を通して作者を知っていき、それがまた作品に深みを与える。ファンはそうやって生まれるんだ」

 著作を通してお父さんを知る。それこそ、瀬堂さんがこの機会を与えてくれた意図だ。

 あるいは、気遣ってくれたのかもしれない。お父さんを捜すことに手詰まりだったのは事実だけど、最上沢に来る前から精神的に参ってた部分があるのも本当だし。

 実際わたしが理解を深めてどうこう、ってなる気がいまいちしない。

 前から思ってたけど、豊条もHandS探偵事務所も、なにより瀬堂さん自身が優秀すぎる。この前のまさしく探偵らしい推理もそうだし、質問をするのが課題消化の邪魔にならないかと思って訊いてみたのだけど、もうほとんど終わってるらしい。事務所を任されるのがわかってたから、中学のうちに大学入試レベルまでは頭に叩き込んでて、家で予習復習もあまりしないのだとか。ぶっちゃけ同い年の男の子じゃなくて、宇宙人じゃないかとすら思った。

 読書でかたまった身体をほぐすために、緋州さんと一緒にストレッチをしていると、頭の中で読んだ内容が再生されて、より深く、心に刻みつけられる。

 お父さんに早く会いたい。助けなきゃとか、そういうのももちろんあるけれど。ページ越しに知るのではなく、ただ純粋に会って、他愛のない話をしたい。

 高校に進んでから、あまり話してなかったから。その隙間を、埋めていきたい。


          ◆◆◆

 あまり量を出されていなかった課題は、集中すればすぐに全て片付いた。

 緋州さんだけでなく僕まで暇を持て余すようになって(事務所関連の仕事はしているが)、リビングでの読書の時間が増える。

 家にあるのはどれも既読だったけど、新しく買いに行く気も起きなかった。若頭派への警戒もあるから外出を控えたいという理由もあるが、いまは織原さんと同じ作者の本を読んでいたいと思っただけ。

 ソファで対面に腰掛けて、お互い黙々と手元の小説を読む。そうする頃、篝さんはあまり自室から出てこなくなった。妙な親切心的な何かを働かせているのか、服は脱ぎたいが部屋から出ると怒られるからか。両方というのも有り得るな。

 何か口を開くのは、織原さんが小説で疑問に感じた点が出てきた時、その質問と解答ぐらい。都度読書は中断となるが、悪い気はしない。どうせ一度は読み終えているのだし、むしろ、そういうやり取りというのはなかなか面白い。

 課題が終わった事で気兼ねなくなったのか、頻度は増えた。単語の意味とか、携帯で調べた方が早そうな事まで訊かれたが、織原さんも楽しんでいるのかもしれない。

 開いたページを見せての問いかけもあって、いつの間にやら、定位置は同じソファの端と端になった。

 時折ふと見る、小説を読み込む彼女の横顔は、綺麗な黒髪も相まって文学少女のようにも見えた。感情移入しているのだろう細かな表情の変化は、横目に見ていて微笑ましくなる。

 自分では意外に思うが、以前ベランダで夜風に当たりながら篝さんが言った事も、あながち間違いではないらしい。

 尤も、この三人掛けソファの真ん中の距離が埋まる事はない。

 落ち着きを見せてきたとはいえ、織原さんの男性恐怖症が残る以上、少なくとも物理的な距離を縮めるわけにはいかない。

 何より、僕と織原さんを繋いでいるのは、吏原漣という小説家、織原漣至という父親。

 この空白に腰掛けるのは、ここにはいない彼なのだ。

「思ったんですけど」

 織原さんが一冊読み終えて本を閉じ、考え込むように表紙を見つめながら言った。

「わたしたち、お互い苗字呼びですよね。名前呼びにしません?」

「……どうしたの、急に」

「なんといいますか、こう、ちょっと距離感ありません? わたしがお世話してもらってるといっても、こうして一緒に暮らしてるわけですし」

 距離感というワードに若干ビビりながら、考えてみる。

「……一応、僕達は取引契約で成り立ってる関係だ。距離云々の必要はないと思う」

「ではクライアントとして提案です。今後の名前呼びについて協議しましょう。契約条項です」

「時々思うけど、織原さんって結構ぐいぐい来る時あるね?」

「不便もあると思うんです。わたしはこないだ、他の瀬堂さんと会わせてもらいましたし、わたしたちはいま、わたし以外の織原さんを捜してるわけで。織原さんなんて呼んでたら、お父さんいちいち反応しちゃいますよ」

「わかった、わかった。協議はいらない。名前呼びにしよう」

「それじゃ、あらためてよろしくお願いします、炸夜さん」

 妙な勢いに気圧されて承諾すると、おり……深凪さんはにっこり笑って、本棚へ次の一冊を取りに行き、また一人分の空白を空けた元の場所に戻った。

 物理的には埋められなくても、言葉だとか、意識だとか、そうした類の距離は縮むらしい。

 ……漣至さんに、彼女の声が届くといいのだが。僕なんかより深く結ばれているはずの二人はいま、互いの手も声も届かない程、遠くにいる。

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