終_2、レモネードと、契約書
◆◆◆
「なんだか、えらくゆったり過ごしてるね、炸夜くん」
「まあ、する事がないとそうなりますよね。課題も終わってますし」
「だらっとしてるの、新鮮で面白いな」
「だらけ癖が付きそうで怖いですよ、僕は」
偽の夏祭りで一仕事終えた二日後の昼、僕はリビングのソファに、何かするでもなくただ寝っ転がっている。
本開催も二日目だが、一度も会場には行っていない。理由は単純、夏祭り運営は急遽解任、それと自宅謹慎中。今は処分の沙汰を待つ身だ。
鷹柳会をおびき寄せる餌として織原さん、つまり一般人を意図的に危険に晒したからだ。
母の逆鱗に触れるのは承知でやった事だ。異論はない。
尤も、そこまでして何か得られたものがあるかというと、自分でも驚く程なにもない。
鷹柳会の件は利益とは言い難い。入り込んだ害虫を駆除しただけなのだから。織原さんとの契約も報酬という事にしただけで何か受け取ったわけじゃない。個人的にも、漣至さんが無事戻ったものの小説家吏原漣は目下活動休止中だ。
現実主義を自認する僕としては呆れ果てるばかりの結果なのだが、これまた不思議なもので、悪い気は全然しないのだ。
それを何と表現すればいいかわからないが、これこそ得たモノだったりするのかもしれない。
そんな事を取り留めなく考えながら、それなりに上機嫌で惰眠を貪っている。
インターフォンが鳴った。僕は起き上がり、一応襟元を正す。
迎えが来たようだ。こっちまで来たという事は、本家に移動か。思っていたより早かった。夏祭りが終わってからだと思っていたのだが。
まあ、何の事はない。覚悟していた事だ。極道にケジメはつきものである。
その、五分後。
僕はキッチンでグラスの中身をマドラーで撹拌し、三人分のそれをリビングへ運ぶ。
……おかしいな、何をしているんだろう僕は。
「あ、冷たいレモネード。これ、また飲みたかったんですよ。ありがとうございます」
ソファで待っていた織原さんの目が輝く。手渡すとすぐに一口飲んで、幸せそうな顔で息をついた。おいしい物に弱いとは聞いていたが、これで満足してもらえるなら何よりだ。
……いや、何かおかしい。何かというか、全部。
「そだ、緋州さん、マッサージのやり方教えてくれませんか? こないだので結構弱っちゃってたみたいで、昨日お祭り行ったら足パンパンで」
「ん、オーケー。でも後でね」
「なんかおかしくないですかね」
「炸夜くんが何か言いたそうだから」
篝さんは何故和やかに話しているのだろう。
僕はソファに深く腰を下ろし、対面の織原さんにとまっすぐ相対する。
「…………何故、織原さんがここにいる?」
「来たからですよ?」
「何故来たのかという話」
「帰ってきただけです」
「何故」
「何故が多いですね。ほら、契約書にもあったじゃないですか。えーと……甲は本契約が有効な期間、乙に対する生活の保障及び身辺の安全を確保するって」
「よく覚えている、というのは置いといて。いま言った通り、有効期限中の話であって、期限を過ぎればそんな義務はない。一昨日、契約の終了はちゃんと伝えたはずだ」
「終了なんてしてないですよ」
「している。受託した業務は終えたし、報酬も受け取った」
「報酬ってデートのことですか? あんなのデートっていいませんよ。昨日お父さんと夏祭りデートして来たので、違うと断言します」
それを聞いて篝さんが噴き出した。ファザコンめ。父親相手こそデートとは言わないだろう。
「報酬は両者による協議と合意の下、ともあります。わたし、協議した憶えがありません」
「合意はしたはずだ」
「でも覚書がありません。取り決めた文書がないです。なら無効だと思います」
「…………」
何だこの押しの強さ。納得するまで居座りそうだ。
「……あの、ですね。わたしも、自分がばかだとわかってるので、色々考えて、できることはやりたいんです。契約書、ちゃんと読み込みました」
「……そのようだ。もう単刀直入に聞きたい。織原さんは何がしたいんだ?」
「お礼がしたい、それだけです」
「…………お礼?」
問うと、彼女はグラスの縁を親指でなぞった。
「お父さんのことで、思ったんです。できるうちにお礼しなきゃって。手遅れになる前に。いつ手遅れになるかわからないから。お礼も、謝ることもできないままって、辛いんです」
「なら、お礼なんかいらない、とだけ言っておく。その為に手を貸したわけじゃない」
「じゃあ、なんの為ですか?」
……さあね。どうしてだか。答えは知っているけれど、それを口にしてどうかなると思えないし、それで水を差す事になるのは御免だ。答えは心の奥底に封印しておく事にする。
「……それに、もう手遅れだよ。僕は処分を待つ身だ」
「処分? なにに対しての?」
「君の事に決まってるだろう。一昨日、僕はカタギである君を意図的に危険に晒した。そんなのは豊条では御法度だ。当事者である君との接触も禁止になると思う」
「あ、そのことでしたか。多分大丈夫だと思います」
「は?」
どうしてそんな事が言えるのか。疑念を向ける前で、織原さんは鞄から用紙の束を取り出して、テーブルに乗せた。
契約書だ。僕達が交わしたのとは、用紙も書式も違う。
アルバイト雇用契約書、と書いてあった。HandS探偵事務所の。署名も割印も済んでいる。
「わたし、もうカタギじゃないです。むしろ身内?」
「…………誰、これ作ったの」
「木城さんです」
やっぱりあの変態か。どこまで節操がないのだ。
「織原さん、知ってるはずだが僕は所長だ。最高責任者。人事権もある。これは無効にします」
「え、もったいない。時間かけて作ってくれたのに」
「そういう問題でなく、だいたい――」
言おうとした言葉は、携帯の着信に遮られる。発信者は母だ。
断りを入れ、念の為キッチンに移動して応答する。
『炸夜、いまちょっと大丈夫かい?』
「ええ、どうぞ」
……なんだ、妙な予感がする。
僕に下る処分についての伝達のはずだ。だが母は、その種の話をする時は面と向かって告げる事を是とする。電話など、ありえないはずなのだが。
杞憂か? それとも、別件か。
『炸夜、一昨日の件についての処罰を決定した。二つある』
……違和感は、拭えないが。
「お受けします」
『まず一つ。処罰理由の当事者である、織原深凪って子についてだが』
「はい」
『こっちに移住する事にしたようだから、炸夜、アンタが面倒を見るように』
「はい?」
『はい? じゃないよ。アンタが拾ってきたんだから最後まで面倒見な』
猫か、というのは今はどうでもいい。なんだそれは。そんな処分聞いた事がない。
『それともう一つだ。HandS探偵事務所だが、アンタから人事権を剥奪する』
……さすがに見えてきた。不自然にも程がある。
「つかぬ事をお伺しますが……まさか織原さんに入れ知恵したの、母上ですか」
『クク、ハハハ! そうそう、あの子、昨日遅くにいきなり本家に来たもんでさ。まさか女子高生が殴り込みに来るとは思わなかったよ』
「殴り込みって……」
『どこぞの馬鹿がうっかり話しちまったみたいでね。アンタが処罰を受けるのが気に入らないんだとさ。それで直談判しに来たってワケだ。気骨のあるいい子じゃないか』
「だからといって母上、彼女はカタギだ。我々側に踏み込ませるなど――」
『――強いよ、あの子は。か弱く見えて、心意気だけで何とかしちまう。あの執念深さ、アタシよりアンタの方がその目で見て知ってるだろう。アタシだって最初は断ったさ。だが根負けしちまった。豊条背負って生きてきたアタシが、だ。アンタの事がそんだけ大事なんだろうよ』
言葉を失った。本当に馬鹿なのか織原さんは。お礼をしたい、なんて事の為にここまでするか。相手は極道者だぞ。
『絶望から這い上がるガッツもある。アンタのおかげだと言っていたよ。アタシが認めた子が言うんだ、アンタがいりゃ大丈夫だろう。だから炸夜、任されろ』
「……………………しかし」
『グダグダうるさいぞ炸夜。アタシの決定に文句があるのか』
「……承知しました。お受けします」
『よろしい。それじゃ』
通話を終え、頭痛がしてきた気がする頭を押さえながらリビングに戻る。あの母を相手にして勝ち目なんかない。その時はカタギとして接していたろうが、それでも粘り勝つなど想像が及ばない。
「姐さん、なんだって?」
「……要約すると、織原さんの言う通りにしろ、と」
「やった」
「……どうやって本家まで行ったの。あそこ鍵ないと入れないんだけど」
一応、訊いておく。またとんでもない答えなんだろう。
「鷹臣さんに連れて行ってもらいましたよ?」
「……詳しく」
父はオンオフの差が激しいが、一線を明確に引く人という事でもある。僕がつけるケジメに異議を唱える、なんて理由は通らないはずだ。
織原さんは、しばし眉を顰めた。
「結構前ですけど、躙虎さんが鷹臣さんにベタ惚れだ、って聞いた覚えがあったので。ちょっと抱きつかせてもらいまして、写真を一枚」
それを聞いた篝さんが青褪める。僕も多分同じ顔をしている。
つまり、脅迫した。ヤクザのトップを。しかも材料が恐ろしい。母にそんなもの見せたら、父が殺される。男性恐怖症なんだろう、なんでそこを頑張った。
「……降参だ。敵う気がしない。好きにしてくれ」
「ありがとうございます」
お手上げすると、織原さんは折り目正しく頭を垂れた。
「けど、いいの? あれほど会いたがっていた漣至さんと再会できたんだ。そっちを優先したいものと思っていたけど」
「あ、それなんですけど。お父さんしばらく東京に戻るそうです。色んな人に迷惑掛けたから、って」
それもそうか。いきなりの失踪とあらば、多方面に不都合が発生している。
「それに、時間はいっぱいあります。本当は、お父さんと話したいこと、いっぱいありましたけど。少しずつでも、ちゃんと話せればいいんです」
「……そっか、当面はここで暮らすという事で承知した。これからよろしく、アルバイトさん」
「こちらこそよろしくお願いします所長さん。あ、あと休み明けにはクラスメイトです」
「そうだったね。なんだか、すっかり忘れていたよ」
実感なんか、全然湧かないが。
終業式の日、面倒を起こされたくないという理由で関わる事になった彼女は、いまや部下でクラスメイト、同居人で、好きな小説家の娘さん。
どこから、こうなっていったのだろうな。
気が付けば、父親をひたむきに愛し駆け抜ける姿に惹かれていって、その結末を見届けたいと願って、いつの間にやら、彼女そのものに魅せられた。
……おっと、これは秘めておくべき事柄だ。迂闊に口にしてはいけない。
「……遅くなったけど、お昼作ろうか。リクエストあれば受け付けるよ」
その事を考え始めたら思考が泥沼に陥りそうだったので、逃げる事にした。
キッチンに向かうと、篝さんがついてきて、手伝ってくれるのかと思ったら、いきなり脇腹を小突かれた。
「どうよ、炸夜くん。嬉しいんじゃない?」
「どうですかね。顔見ればわかるでしょうに」
「そこはさぁ、口に出して言うからいいんじゃん。ヘタレめ」
邪魔するぐらいならリビングで大人しくしていてくれないかな。調理場は僕の聖域なんだが。
しかし、だ。逃げてきたはいいが、何を作ったものか。
「炸夜さん、リクエストあります!」
リビングから織原さんが挙手する。
「また、下の名前で呼んで下さい!」
「料理のリクエストを頼むよ、深凪さん」
「……回鍋肉で!」
昼から重いな……いや、そういうのもアリか。まだあの状態から完全に回復できてはいないだろうから、栄養たっぷり摂らせるか。なにより、彼女へ最初に食べさせたのも回鍋肉だ。
「炸夜くん、めっちゃニヤニヤしてるよ」
「ええ。まったく、どうしてこうなったんですかね」
愛の実在を疑っている、なんて今は口が裂けても言えないな。
特等席で、その在り方の一つを、見届けた僕には。
自分の中にそれがあるのかは、まだわからない。なにせ経験がないんだ。
けど、僕が主役として舞台上に上がる時は、意外と遠くないのかもしれない。
まったく。
あの日、僕が引き受けたのは、途方もなく厄介な案件だったらしい。
舞台袖の僕と、泣き虫なわたし 春雨らじお @Snow_Radio
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