六_5、救えない僕と、こわれゆくわたし

          ◇◇◇

 シャワーを浴びるのは、何日ぶりなんだろう。

 鏡に映っているのは自分じゃなくてオバケだ、としばらく本気で思っていた。おかしいよね、鏡なんだからわたしが映るに決まってるのに。

 でもそう思ってしまうぐらい、わたしはボロボロの姿をしていた。

 髪なんか、ぼさぼさになってる癖に色んなモノで汚れて束になっていたり、変に千切れたりもしている。日頃から手入れしていた髪がこんなになっているなんて、自分でもびっくり。

 顔もひどい。頬はこけているし、目の下にはくっきりと大きな隈が浮いている。肌はカサカサ、唇もひび割れたり、多分何度も吐いたせいで爛れている。

 身体も、細いほうだってちょっと自慢な部分があったのだけど。ここのご飯が美味しくて、そのうち太るんじゃないかって密かに心配していたけれど、むしろ病的って言葉がしっくりくるぐらい痩せてしまっていた。関節のところなんか目に見えて骨が浮き出ている。それ以前に、傷だらけだ。首や腕が血で固まった包帯だらけで、ほどいたら痛々しいんだろうな。わたしのいまを直球で表した実にメンヘラ感溢れる様相だ。

 これは、炸夜さんたちも形相変えちゃうわけだ。

 熱めのシャワーを浴びて、緋州さんが買ってくれたシャンプーで何度も髪を洗って、トリートメントを馴染ませる。あとで一応、椿油も使っておこう。

 お湯に濡れた包帯をほどいて、身体を洗っていく。お湯もボディーソープも染みて痛かったけど気にしないで、ひさしぶりなぶん、ごしごし洗う。赤黒い塊がぽろぽろ落ちた。

 たっぷり時間をかけて全身一通り洗い終わると、最後に、サボりまくっていたムダ毛処理。

 全身、隅々まで。ひっかき傷の上も余すことなくカミソリを走らせる。痛いし、また血が滲んできたけど、サボった大きなツケを優先。

 全部終わったかな、と思いつつ自分の身体を見下ろしてみる。そういえば普段あまり気にしてないから、一箇所忘れていた。ここもつるっとしてるほうが多分見栄えがいいし、思い切って剃る事にした。

 手遅れ感がすごいけど、いまできるだけ、綺麗な自分を。

 夢から醒めた後、思い出した。死んでしまいたいと考えながら、生きてるならやらなきゃと思ってたこと。

 炸夜さんたちがお父さんを捜してくれたのは契約で、その報酬をまだ払ってなかった。

 お父さんは死んでしまったから、目的を果たせたとはいえないかもだけど、やれることはやってくれたんだ。だったらちゃんと、そのお礼はしないと。

 といっても、わたしには全然お金はない。お金の代わりになるようなものも持っていない。わたしはばかだから、なにか役に立てるようなこともできない。

 じゃあどうしようか、って考えて、わたしはなんで男性恐怖症になったのかを思い出した。

 理由は単純、あんなことがあったから。

 なんであんなことになったかって、もとを辿れば、男のひとはああいうことが好きだ、ってことだと思う。

 炸夜さんも男のひとだし、やっぱり好きなんじゃないかな。年頃だもの。

 わたしのことは別に好きでもないだろうし、むしろ、めんどくさい女って嫌われてるかもしれないけれど。

 こんなわたしでも、せめて喜んでくれたらいいな。


          ◆◆◆

 あの後、何を話して、どう別れたのか、よく憶えていない。

 ただ、身体中の血が沸騰して血管を破ってしまいそうな感覚だけが、記憶に残っている。

 ベッドで寝返りを打ち、ひたすら物思いする。いつものように、リビングで本を読む気力すら湧いてこない。

 織原漣至の所在を、その正体を掴む事が、最後の希望だと思っていた。

 なのにそれは拒絶された。全て己の過ちだと、けじめだと。誰も望んでいない事に何の価値がある? そこまで意固地になる理由がわからない。僕がガキだからか? そんなわけあるか。

 いっそ、織原さんに彼が生きている事を伝えようかとも思った。だが、それはほとんど最悪の手段だ。本人が再会を拒む以上、生きているなどと言っても、慰めの嘘だと受け取られるのがオチだ。僕が慰めるなどという事は、彼女にとって絶望に他ならない。

 何か、ないのか? 織原さんを救う手は。僕に託すと言っていたが、無理に決まっているだろう。僕では彼女の生きる理由になんてなり得ない。今の彼女の笑顔を作る存在になり得ない。

 僕は、舞台袖の進行役でしかないんだ。主役が舞台を降りた時、講じる手段などない。

 無理矢理にでもいい、親子としての形でなくてもいい、再会させる手段はないのか。どんな理由でもいい、織原さんが父親だと気付くきっかけさえあれば――畜生、しくじった。漣至さんはもうあそこに来ないだろう。連絡先も知らない。

 他人の事でここまで考え込む自分を意外にも思う。同時に納得もしている。実在しているなら見てみたいと思っていた本物の愛が、あの父娘の間にあったのだから。吏原漣の作品にのめり込んだように、その結末を見届けたいと願った。だがこんな結末、許せるものか。

 なにより僕自身が、織原さんが幸福を取り戻す事を願っているのだから。

「…………?」

 部屋の前から足音がした。軽い足音。篝さんは足音を立てずに歩くし、寝惚けていても体重的にもっと重い。

「織原さん?」

 身を起こして呼び掛けると、そっと扉が開いて、寝間着の織原さんが姿を見せる。微妙に違和感があると思ったが、何の事はない。見る影もなかった髪が以前の状態に近づいて、素肌が本来の色になっている。僕が漣至さんと話している間に身体を洗ってきただけだ。

 いや、違和感はまだあるな。何の用だ? 自室にいる時まで僕に用があった事はいままでない。あっても、リビングに出てくるまで待っていた。

「まだ起きてたんですね。よかった」

 彼女は了解を得ないまま部屋に入り、扉を閉める――鍵をかける音がした。

 反射的に身を後ろに引き警戒する。しかし織原さんは何も手に持っていない。どこかに隠している? いや、篝さんが拵えた寝間着は彼女のサイズに合っていて、不自然な膨らみは見当たらない。

 どうして、妙に、艶かしく見える?

「……どうしたの、こんな時間に」

「こんな時間だから、ですよ」

 ベッドに上がり込んだ彼女は、こちらを向いて正座し艶然と笑う。

 何かおかしい。ここ数日の惨状よりはマシだが、彼女はこんな笑い方をする人だったか?

 疑問の目を向ける中、彼女はわずかに姿勢を正し、シーツに両手をついて、深く頭を下げる。

「炸夜さん、いままでありがとうございました」

「は……?」

 身を起こした織原さんは、おもむろにこちらへ身を寄せながら、自身の胸元に手をやった。

 ぷち、ぷち、とボタンが外されていく。下着類を身に着けていない肌が、露わになっていく。

 鳩尾のあたりで、指が滑ってボタンを摘み損ねる。指先は少し、震えていた。

「わたしがお願いしたお仕事、終わりましたから。だから今度はわたしの番です。これくらいしか、できることがないので」

 ――そういう事か。

 正直、わずかな情欲が生まれたのは否定しない。僕だって年相応の男なのだという言い訳ぐらい許して欲しい。彼女に好意があるのだと自覚があっては尚更だ。

 だが織原さんの意図を察した僕は、彼女の頬を張り飛ばした。

「っ……?」

 頬を張られ扉の方を向いたまま、彼女は何が起こったのかわからないという風に固まった。咄嗟に出した手のひらに、少し痺れが残る。

 今日だけで何度、この感情が湧き出ただろう。他のモノを塗り潰す程強く。

 嫌になる程よく似た父娘だ。どうしてそんなに自分を傷付けたがる。目の前でそんな事される僕の身にもなってみろというのだ。

「……え、なん……?」

 赤みが差してきた頬に手をやり、呆然と僕を見る。

「あのさ、織原さん。まさかと思うけど、それは報酬のつもり?」

 わかりきっている事を告げる。織原さんは目を泳がせて、やがて俯いた。

「……やっぱり、だめ、ですよね……こんな、わたしなんかじゃ」

「いい加減にしてくれないか。そんな話じゃない」

 自分を卑下するのも遺伝なのか。仲良しだなと皮肉も言いたくなる。

 ……わかってるさ。救えなくたって、瀬戸際で引き止めるぐらいは、僕の役目だ。そこに僕の行き場のない感情を混ぜるぐらいは、目を瞑って欲しい。

「報酬が身体、なんて金の代わりだろう。そこを結び付けるっていうのは、君は僕を高柳諒兵と同類に見ているのか? 君を辱めて金を得ようとした下衆と」

 泣きそうだった顔に緊張が走る。大事な事を見落とすのも父親そっくりだ。

「君は僕を信頼してくれていると思っていたけど、勝手な勘違いだったみたいだ。なんだか、裏切られた気分だよ」

「――ッ、ちがっ、ちがう、わたし、そんなつもりない……!」

 わかってる。本心からそんな事は思っていない。ただ、僕は知っている。君が誰かを裏切ってしまう事を恐れているのを。君は聞かせてくれた。全ては父を裏切ってしまったせいだと。

 縋るように伸ばされた手は、半ばで、シーツにぽとりと力なく落ちる。後を追うように、涙の雫がぽたぽたと落ちて、染みを作っていく。

「……どうしたら、いいんですか……? わたし、なに、できないよ……」

 ――ああ、全く、僕もなかなかどうかしている。どうしてこんな時に、思い付いてしまうのだろう。

 彼女を救う術を。

 悪魔のような手だ。常々自分はヤクザだと嘯いているが、心の底から、自分が悪党だと思う。

 それは細い綱渡りだ。失敗すれば正真正銘最悪の結末が待っている。

 僕が取り得る全ての手を出し尽くしても、成功の兆しすらなく失敗するかもしれない。

 そして最後は完全に僕の手を離れる賭けだ。そこでコインの表を引けなければ、全てが水の泡になる。

 もし成功しても、多分、僕は恨まれる事になる。いいさ。これが本当に最後の希望だから。

「――来週、夏祭りがあるんだ」

 泣き濡れた顔が、僕をじっと見つめる。

 僕は見つめ返して、悪魔の取引を告げた。

「そこで、僕とデートしよう。それが君の払う報酬だ」

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