第5話
中央階段、を二階、三階まで。そこには新校舎への渡り廊下があった。当然慣れた様子の月見ちゃんたちについて、中空に浮いている通路を歩いていく。
ギリシャみたいな柱の続く廊下。松宮くんは、これをなんて説明するんだろうなんて考えた。昨日教えてもらったことの半分も、私はもう覚えていないと思う。だっていっぺんにたくさんそんな。
放課後のご招待。断りようもなく受けてしまったけれど、ほんとのところ、私はかなり疲れた気分になっていた。お誘いはとても嬉しいことだと思っているけど、体も心もくたびれちゃってるんだ。どすんと。
新しい環境って、しかも馴染まなきゃならないって思っちゃったりすると、ほんと負担かかる。いろんな人と話をして、気を遣ってもらったんだけど、それもとても嬉しかったんだけど、それとはまた別のところで、生まれてる問題だから、この負担って。
松宮くんの言った通りの予定で、一日は終了した。校長先生も余計なことを思い付いたりしなかったらしい。だけどどっからが余計なのかわからないから、思いついてたかもなんだけど。
家に帰ってベッドに飛び込みたい、ほんと。だけどそんなことしちゃったら、せっかく雪見ちゃんたちと仲良くなれそうなの、ぶち壊しになりそう。
ここは、私、がんばるべきところなのかもしれない。
渡った地点は、新校舎では二階になる。この学校の敷地は、切り拓かれた山の中腹辺りに位置するからだそうだ。とてもわかりやすく新しい廊下を進み、いくつも特別教室の札を見て角を曲がり、浅い階段を二段のぼり、先を行く二人は足を止めた。
「はーい、とうちゃーく。ここが目的地になりまーす」
見事に線対称に、ガイドのポーズで手を挙げて、月見ちゃんたちはにっこり笑った。鏡の前で練習でもしてるんじゃないか、なんて思うほど、角度まで同じ。
示された扉は今までに見たものとはまったく違っていて、濃い茶色の木の色がそのまま出ていた。そして手彫りの彫刻が隅から隅まで施されている。中心部には、飾り文字と言うには、飾りが過剰なくらいの文字で刻まれた、
「美術部」
「そ。絵描くところ。入って。ちょっと臭いけど」
「すぐ慣れるし、そんなの。はい、座ってー」
月見ちゃんの言う通り、部屋全体に油の匂いが充満していた。漂うどころじゃない、まさしく充満。火があったら爆発しそうだ。……気分としては。
雪見ちゃんのすすめてくれた椅子に座ると、目の前にものすごいサイズの絵があった。こういうの、美術館とかで見たことあるけど、描いてる本人って自分が描いてるもの、見失ったりしないものなのか不思議だったんだよね。特にそれが抽象画の場合。
これはいったい、何をどう感じて描いた作品なんだろう。
林立するキャンバスのせいなのか、昼間だと言うのに暗い教室。蛍光灯の光は弱々しくて、それが空々しい感じを出している。ヘンに作り物めいている、ような。
さらさらの髪を揺らして、月見ちゃんは私の横の椅子に鞄を置いた。学校の規定の黒い鞄は、まるで新品のように見える。そしてその細い腰に手を当てて、ちょっとハスキーな声を教室の奥へと放った。
「じょーくん、お客様つれてきたよ。出―ておいでー」
私の後ろの椅子に、背を抱え込むようにして座った雪見ちゃんが小さく笑うのが聞こえた。それはまるで犬を呼んでいるみたいで、私もなんだかおかしくなった。今にも舌で音を立てそうで。
一際暗いその一角には引き戸があって、その上のプレートの標示は『準備室』。その字体と紙の色を見れば、それがもう何年も放ったらかしなことがわかる。その戸の向こうでがたんがたんと、何かを無理に避けて進んでいる様な物音がして、やがてニンゲンが姿を現した。
制服。男の子だ。そりゃそうだ。なんだと思ってた? 私は今。
「予定より早かったですね。僕は高等部はもう少しかかると思ってたんだけど。身を引き締めなきゃならないことが多いはずでしょ、高校生の方が」
「オトナになればごまかし方も当然覚えるもんよ。中学生ほど浅はかじゃないの」
「その分、取り返しもつかないけどね」
お姉様方には立ち向かわないことにしているらしく、賢明な少年は肩をすくめるアクションを返しただけだった。新学期の校長先生のおハナシのことを言っているらしいことは、私にもわかる。
月見ちゃんは少年の腕を引いて、私の方へと押し出しながら、にっこりと微笑んだ。
「葉月ちゃん、こちらじょーくん。中学生。名古屋城と同じ字使って、城くん」
「ほんとのところは江戸城なんですが、二年の桂木です。初めまして、葉月さん」
「はじめまして」
その礼儀正しいお辞儀に、あわてて立ち上がった私と少年の身長は、ほぼ同じくらい。少年……、江戸城の桂木城くんは、まさしく少年と言った外観を持っていた。横にいる月見ちゃんよりは当然低い身長にともない、中学二年にしては珍しいほどの童顔。
城くんを見て私が思い出したのは、私が本からイメージした小林少年。僕らは少年探偵団の小林君は、確か美少年で理知的な輝く瞳を持っていたはず。
アタマ、良さそう。そしてとんでもない事を知っていそう。
あれ。これと同じ事、最近考えたような気がする。いつだった?
「アイスココアでいですか? 葉月さんも」
「え? なに?」
「暑いでしょ。食べるもの食べないと、体もちませんよ。一緒にいろいろ出しますんで、楽しんで下さい」
いろいろ。
確かに、いろいろなものが現れた。手渡されたブドウ柄のグラスに、氷とココアがたっぷり。なんでそんな名前なのか疑問のままのクラブサンドウィッチとか、チョコレートクリームのシフォンケーキとか、ブルーベリーのマフィン。シナモンの香りのクッキーをお皿にいっぱい。チーズコーンのデニッシュもある。ふつう、こんな……。なんでこんなところでこんな事を?
「おお、私の愛するレモンリーフティゼリー。気が利くねェ、城」
「はちみつを苺にしてみた試作品です。ますます、月見さん好みだと思うな、僕は」
「へー、苺。あ、おいしい。これはいけるわ」
「店に出しなよ。これにもっと濃い紅茶合わせたら、これからの季節いいんじゃない?」
「すぐに寒くなるもんねぇ」
まったくこの人達にとっては、これが当たり前だって、私はだんだん理解していた。それと一緒に、ご招待の意味もわかる。お茶会にどうぞってことだったんだ。
そうだ、これはお茶会だ。ちゃんとお茶とお菓子のそろったお茶会。
「うち、レストランなんですよ。それでここにいろいろ持ち込んでるんですけど、お二人の意見ってハズレないんで、アドバイザーです。食事、いけますから、そのうち寄ってみて下さい」
「ちなみに紹介しちゃうと、城くんはそのお母さんの一番弟子なのよねー」
「マザーグースだもん。正しく遺伝すれば、とーぜん大したものよ」
「僕は食べ物ってキョーミ薄いんですけどね。どっちかって言うと、将来的にはソムリエです」
「未成年が見るのって難しい夢じゃない? ソレ」
「そーだよねー。酒飲まないはずでしょー、アナタの年じゃ」
「そんなことをお二人から言われようとは」
城くんの泣きまねに、みんなで笑った。私も一緒に笑えてから、それから、考える。
今の、すごく普通だった。おもしろいことに笑っていた。
だけど、だから、こういうこと考えるのは、ちっとも普通じゃないんだってば。これがいけないんだよ、これが。
普通にっ、もっとさらに普通に。気持ちを落ち着かせるために、城くんのアイスココアに口をつける。
……甘い。
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