第2話

――「この学校の前身は、明治時代の商館なんだ。まず形から入るタイプだった当主の趣味が顕著に現れた、ヴェネツィア風の造りになってる。外国かぶれの華族様がおもしろがって始めた貿易業が、思ったよりも成功してね。とんでもなく余裕ができた頃に、子息の教育なんかが絡んできて、うっかり学校などにしてしまった」


 広い広い学校みたいだった。門の前に立ったときには、こんなに広いなんてわからない。どっちかと言うと、こじんまりした感じだって思っていた。


 ここを出発点にしよう、と松宮くんが誘導してくれた先は、中庭と呼ばれている場所。右手に本館・あるいは旧校舎、左手に新館が見えている。学校の前は、バスも通る結構大きな道だというのに、ちっとも車の音は聞こえてこない。どれくらい奥に入ったんだろう、私は。


 ちょっとした公園くらいはあるスペースのほとんど中央に、大きな木が立っていた。その木の下まで進んで、校舎を見上げながら、ガイドさんみたいな松宮くんは続ける。


「さっき、ヴェネツィアって言ったけど、それは基本的な造りがといった意味で、あちこちに様々な様式が滑り込んでいる。グランドツアーよろしく欧州中を見学して回った当主殿の憧れをすべて、注ぎ込んでしまったんだね」


 ヴェネツィア……。


「お金があるというのはいいもんだよね。こんな風に後々の人間までも楽しませることができる。本格的に建築をやってる人間の中には、鼻で笑うような扱いをする奴もいるけど、オレは好きだな。あからさまな夢を見せてくれるこの建物が」


 あからさまな、なに?


「まぁ、近代的な機能に対応しきれないという問題もあって、こっちはほとんど、ただの教室。特別教室なんかはあっちの新館につくってあります。無理な改修を施せないのは、法的に力を持った遺言があるため。その考え方は大変によろしい。そうじゃないと文化遺産なんてものは残っていきませんから、この国では。新館の建物もなかなかスゴイでしょ。それは今の理事長の趣味丸出し。ヴィクトリアンゴシックね」


 なんですか、それは。とか言葉を挟む訳にもいかずに、私は曖昧に笑ったまま聞いていた。カルチャーな番組見てるみたい。さっぱり縁のない単語がびしばし出てきてる。


 興味のあるみたいな顔、長くは続けられないし、だんだん強張ってきているみたいな気もする。同じ事をずっとやってると、まるで違う事をしてるみたいな気分になるのって、私だけ? そんな疑問、まさか今松宮くんにぶつけるわけにはいかないけど。


 それにしても、なんだってそんなことを知っているんだろう。建物としては確かに古くて、観光名所でパンフレットとかもありそうな雰囲気だけど、つまりは学校なわけなのに。生徒として、知っていなくてはならないことだとは思えないけど、もしかしてこの学校ではこれが当然な常識だとか?


 そういえば、学校案内のパンフ、やけに分厚かった。わけのわからない肩書きの人が長い文章書いてるなーと思って、ろくに見もしなかったんだけど、やっぱり一通りは目を通すべきだったかも。帰ったら一応、開いてみよう。捨てたりはしなかった。テレビの前に置きっぱなし。お母さんが片付ける可能性は低い。きっとそのまま、大丈夫だよね。


 そんなことを考えていないで聞いていれば良かったんだろうけど、意識半分そっちにやってる間に、校舎外観については語り終えたらしい。松宮くんは古い方の建物に足を向けた。


 木の陰から一歩出て、陽射しの強さに気が付いてしまう。あぁ、今私は涼しい場所にいたんだ、なんて。思ったとたんに汗が吹き出してしまい、校舎に入ってほっとしていた。


 ひんやりしている。誰もいないわけなんだし、そんな設備もあるとは思えないから、クーラーってはずはないのに、そんな風な冷たい空気だった。石造りの建物だから? 誰か私にそんな話を聞かせなかった? 前に。


 誰の姿もない廊下。松宮くんは、そんなところふしぎに感じないみたいで、ずんずんと進んでいった。庭、つまり地面を踏んで歩いていたのに、そのまま入っていい校舎が変な感じだった。この学校には上履きはなくて、土足のままなんだ。ということは、廊下の雑巾掛けなんていう掃除の仕方はしないということだよね。モップとかかけるのかな。なんだかお掃除のことを考えて見ると、廊下の幅とか、とっても広い。大変そう、だなー……。


「どうかした?」


 え、あ、掃除、とか、大したことじゃ別にっ。えっと。


「下駄箱とか、ないんだなぁって、思って」


「あぁ、ウン。どっからでも入れて楽は楽だけど、靴の傷みが早いんだよね、当然」


 わははと笑う松宮くんを前に、私はなんとか話をすり替えられたことにほっとしていた。だって突然、掃除の話とかないでしょう、普通は。掃除大好きみたいじゃない、私が。そんなことぜんぜんなくって、どうしてそんなことを考えちゃったのか、自分でもわからないっていうのに。


「それじゃ、上にのぼりましょー。エレベーターあるけど、一応、生徒の使用は制限付きだから、階段でね。廊下の先にあるあのドアから出ると、外の螺旋階段なんだけど、一階分以上のぼると気持ち悪くなるよ。たぶん、傾斜角度が狂ってるんだな、あれは」


 右の壁に、小さなエレベーターの扉とボタン。それを指差して、階段に足をかけながら、正面のドアの説明を。


 と思ったら、くるりと振り返って。


「あ、やっぱせっかくだから使ってみよっか。こっちこっち、外に出まーす」


 と、階段から外れて廊下を進んだ。

 

 ドアのかぎ、かかっていたのに外してしまって外に出る。お休みの学校で、こんなに好き勝手をしてしまっていいのかな、なんて不安になったけど、私は案内されている側なわけだし、きっといいんだろうと思うことにした。結局、私にはまだちっともこの学校のことはわかっていないわけだから。


 ぐるぐるの螺旋階段は、校舎の色に合わせてあるのか、赤く塗られていた。踏むと金属の音がする。触った手には、鉄の匂いも。


 学校の階段として使うには、ちょっと狭い気がする。二人すれ違うのがやっとなくらい。非常用、かも。もしかしたら。そんなことを考えていたら、少しだけスペースの広い踊り場で、松宮くんが立ち止まった。


「小学校なんだけど、見えるかなー、今日は。天気がいいと見える富士山のよーな、……あ、おっけー。あの赤いのが、うちの付属の小学校。バスに乗らなくていいように、駅から徒歩十分。不動産値なら七分」


 細い柵の向こうに、町が見えていた。


 基本的には住宅地なんだ。高台だから、わりと遠くまで見渡せて、ちょっとした景色だった。


 赤い屋根なんてほかにはないから、町並みの中にそれはぽっかりと浮かんで見えた。その向こうに線路も見える。そして電車が走っていく。緑の多い、平和そうなところ。東京都って言っても広くて、いろんな場所があるわけだ。テレビのイメージだと、ビルばっかりな感じだったけど、こんなにやわらかい風景もある。


 かんかん、という音にはっとなった。階段をのぼる音だ、これは。私の専属のガイドさんは、もう立ち止まってはいない。ひとつ上の踊り場にたどりつこうとしてる。私はあわてて足を進めた。こんな場合じゃないんだった。


「小学生は学年百五十名。中学では二百名。高校での募集は、その欠員補充。編入って例外的で、その時に欠員がなきゃ認められないから、葉月ちゃんはラッキーだったね。一学期末でひとり、声楽で留学してったから」


「そう、なの」


 迷惑な、と私は思っていた。


 ということは、その人が留学なんてことをやらかさなかったら、私はこんなところには来なくて良かったんだ。


 両親の仕事の都合で転校、とかが私の事情になってるけど、そんなはずは本当はない。うちの親は二人とも、言ってみたら自由業で、限りなく浪人に近い時間が果てなく続くこともある職業。仕事なんてどこでだってできるんだから。今回、東京に帰ってきたのも気まぐれなら、自分たちの母校とやらを思い出したのも、きっぱりと気まぐれ。


 あの時、おばちゃんがあんな写真を発見しなかったら、私はあのままおじいちゃんちで暮らしていたんだ。だってあの人達は、別に私を置いて、今までだってどこでだって暮らしてたんだもん。ほんとにっ、構い方も気まぐれ過ぎて頭くる。思い出したように構うなんて、親としては最低の態度じゃない。しかも、それで娘を窮地に追い込むってんだから。


 そう、この学校は小学校から続いている。中学からもけっこう入ってきてるけど、それでも高校に上がるまでに三年はみんなで過ごしているんだ、一緒に。


 転校先が普通の高校だったら、私もそんなに嫌がらなかったかもしれない。パパたちと家族で暮らすためって思ってがまんできたかもしれないけど、そんな長い時間の中に飛び込むなんてことになっちゃったから、気持ちがすり代わっちゃったんだから。パパママ憎しって方向に。そんな徹底的にグループとかできちゃってるとこに入って、いったい私にどうしろって言うのよ、もう。


「気持ち悪くなってない? 大丈夫?」


「あ。うん、……だいじょうぶ」


 それどこじゃなかったから、螺旋のことなんて気にしてなかった。

 

 そう言ってる松宮くんも、別になんてことなさそうな顔をしてる。少しだけど高い所を吹く風に髪を揺らして、どっちかと言うと気持ち良さそう。


 髪を揺らす、って、なんか男の子が女の子見てどきどきするとこだよね、普通は。だから、ほんとは逆なんだけど、だけどなんて言うのか私には、松宮くんがやたらとさわやかないい感じに見えていた。


 やっぱり笑っている口元とか、町の風景を見ている目とか。景色を見ている人を横から見たりするのって、今までそんなことしたことないや、私。変な気分かも。変って言うなら、今日は初めからずっと私は変だと言えるけど。


「じゃあ、中に入ろっかー」


 あ。はいはい。


「ここ三階になるんだけど、一年の教室のフロアね。若い順に階段を昇るべきだって設定で、三年が一階、二年が二階って。真ん中の五段くらいの階段を降りた先が中学の教室」


 どんどん楽になっていくって設定は、納得のいく気もした。


 中庭に向いた大きな窓は、いくつかが開いている。夏休みなのに、誰かが空気を入れ換えているみたいだった。


 まぁ、夏休みって言っても、それは今日で終わるわけで、だから明日からは二学期で、先生とかも職員室には来ていたし……、明日から。


 そうだ、明日だ。


 そう思ってしまって、また重たい気持ちになってしまった。もう今日も時間としては午後だし、そしたらもうすぐに明日だ。夏休みの間、この時間がずっと続けばいいを代表として、なんとか避ける方法を探していた私だけど、つまりもうどうしようもないってことなんだよね……。どんなに頑張っても明日はここに転入生として来なくちゃならないわけだし、だいたい何を頑張ったら避けられるのか、さっぱりわかんない。


「こっちから一組二組で、葉月ちゃんの教室はここ。二組。どうぞー」


 松宮くんはずっと明るいけど、私の気持ちはぐらぐらしてる。ぐらぐら。それも浮いたり沈んだりじゃなくて、沈んだまま深いとこでちょっと上がったり下がったりって感じがする。


 さっき。螺旋階段では、私はまだマシだったかも。教室とかってほんとにリアルで、あー、これが現実なんだなぁ、私のって思えちゃってツライような。


 広い教室。日あたり良すぎ。松宮くんは教壇にのぼった。教卓と大きな黒板なんて、どこの学校も同じものだよね、それは当たり前。前はなかったテレビがある。天井から下げられた台の上に。それから花瓶と水槽。どっちもなにも入っていないけど、花を飾る習慣なんてのがあるんだろうか。そして水槽って、なにか飼ってる? 高校生にもなって、教室で。


「たぶん席はれーちゃんのところで、ここ。廊下側前から四番目」


 いつのまにやら松宮くんは移動していた。少し光の量の少ない、生徒側に。そして机に座っていた。その、……私の席だと言うそれに。


「席替えはないと思うんだよね、あの担任の性格からして。冬に向かって、ちょっと寒いかもしれない。古いだけあって、暖房は追いつかないんだよね。暖房費取ってるけどね」


 れーちゃんとか言うのは、その留学した子の名前なんだな、きっと。前から四番目。私としては、もっとひっそりとした席に置いて欲しかった気がする。

もっと転入生っぽい、はじっこの席でいいのに。こんな真ん中に置いてくれなくたって。


 あー、だけど、それじゃあいつまでたっても慣れないから、これでいいのかも。

慣れる……。そもそも、それって可能なのかってところから、私にとっては疑問だった。これを自分の教室だとか当たり前に言い切ることなんて、できるわけ? この私が。この教室を。


「オレ、隣のクラスだから、なんかあったら呼んで。まー、全体的にうちの学年はいい学年だから、なんか問題が起きようはずもないって思ってるけど」


 隣。なんだ、……このクラスの人じゃないんだ。


 そう考えて私は、しっかり松宮くんを頼りにしようとしていたことに気付くそれで、なんか反発みたいなものを覚えたり。ひとりでできる。絶対、呼んだりしないなんてことを。


 それからまた思い直す。


 そうじゃなくて、それは結局は迷惑なんじゃないの? だって、松宮くんは別にそんなそこまで頼っていいって相手なわけじゃないんだし。なにかに困ったからって助けてなんて、図々しすぎる、そんなのは。


 それに、なににも困りたくない。そもそも。なんとかうまく、乗り切って乗り越えて、その先の平穏な生活にたどりつかなくちゃ。


「家どこ? 葉月ちゃん」


 無理に覚えた新住所を唱えると、松宮くんはぱあぁっと笑って、


「なんだ、すごい近くだ。迎えに行こうか、明日」


 う。またそんな、絶対予想もしない様なこと言って。


「い、いいよ。だいじょうぶ。ひとりで来れるから」


「そう? それじゃあきらめますケド」


 本気で残念そうに松宮くんはそう言った。小学生じゃないんだから、一緒に登校なんてなかなかしないと思うんだけど、そんな風には考えないのだろうか、この人は。


 学校をぐるりと包むレンガが、いったいどうやって造られたものなのかの解説なんかをしてくれつつ、バスの時間まで一緒にいてくれた、松宮隆一朗。


 総合印象としては、ちょっとできすぎじゃないだろうかってくらい、良くできた人。なかなかできたものじゃないと、自分のことなんかは放っておいて、その時の私は本気で感心していたのだった。……はなはだ、情けないことに。


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