第3話

 だって、どうしたって逃げるわけにはいかないから。


 私が足を進めているのは、ただ単にそれだけの理由からだった。追い詰められているような気持ちでいるんだけれど、ずっと、逃げ出してみたらどうなるか、そればっかり考えている。


 昨日は誰もいなかった学校だけれど、今日は人にあふれているはずで、近付くにつれて、体が強張ってしまいそうだった。それならそれで、いっそのこと気絶でもしてしまえるタイプだったなら、どんなに楽だろう。そう、それで、世間から遠く隔離されて生きていけるなら。しかもそれを、ヘンだと思わないくらい、おかしくなっちゃえたら。たかが転校くらいでって、こんな試練、他にない。今の私にそんなことを言う奴がいたら、絶対犯罪者になってやる。それも試練かもしれないけど、やってしまえば気が狂えるかもしれないし。


 人が、『同じ学校』の生徒さんたちがたくさん。『私の学校』とか『母校』とかって言葉が頭に大きくなっていく。


 せめて制服が先にできていてくれたら紛れちゃえたのに、ってどうしようもないことを、百回以上目に思い付いてしまった。もう三十秒に一回くらい、これを考えて、それを仕方ないって思って。制服ができるまでお休みにしておいて、それから改めて編入ってことにしておけば良かったんじゃないか、と考えて。


 ここまで来たんだ、どうせ引き返せない。もう今さら、私には進むしか道はないということなんだから、こんなこと考え続けたって……。


――「あたり! 四十分か、四十七分。どっちかだと思ったんだ。おはよう、葉月ちゃん」


「……おはよう」


「良かった良かった。バス、そんなに混んでないでしょ。市内と逆方向だから。それでも二本ずらすと地獄が見れるよ。もっぱらうちの学校の生徒のせいだけど。座れた?」


「あ、うぅん」


「三丁目で結構降りるからね。あそこの研究所勤めのおじさんの顔を覚えとくといいんだ」


 おじさん……?


 そんな事は、……頭にまるで……、関係ないじゃない、だって。


 私はとんでもなく鈍くしか回らない頭で、一生懸命、目の前で笑っている人の名前を思い出そうとしている。えーとー、昨日、いっぱいしゃべって案内をしてくれた、――あ、うん、そうだっ。松宮くん。うん。忘れるなよ、こら。


「今日は新学期だから、一応講堂に集まって、勉学に励む立場を再確認するわけなんだけど、先に教室で出欠とるから。終わるのは昼前かな。なんか余計なことを校長が思い付いてなければ。校長には会ってるよね。編入の挨拶したでしょ? あの人、食器道楽でさ、集めるだけじゃなくて最近は陶芸部とて作ったりしてね。旧館の小講堂使って、あ、あっちの端の一角だけど」

 

 朝一番だと言うのに、松宮くんは絶好調らしかった。あんまりそんな事は関係のないタイプなのかもしれない、うらやましいことに。だけど、私だって本当は朝から絶好調なタイプなんだから。ただ、現在のジョウキョウがそれを発揮させてくれていないだけで。


 話していることとか、すーっと頭を通り過ぎていく感じ。校長先生の話だったと思うけど、その本体がわからない。確かに聞いたはずだけど、頭から完璧に抜けてる。

いいかげん、こんな鬱な気持ちはどこかに追いやってしまわないと、私、マズイことになるんじゃないだろうか。こういうのって顔に出るんだから、私、かなり暗い顔してるってことだ、これは。


 マズイよね、こんなんじゃ。スタートとしては最悪だよね。最悪。笑う。やっぱり笑わなくちゃ。必要以上に盛り上がる必要なんてないんだから、ただ普通ににっこりと笑うだけでいいんだから、それだけで。


 そんな事を考えてほっぺたを引きつらせたりしている私の横で、松宮くんは突然がっと勢い良く顔を上に向けた。また突然にそんな。


「まだ暑いのに、意外とさっさと秋の空だよね。変な感じ。毎年のことなのに」


 うん……。なんてうなずきながら、私も空を見上げた。脈絡のない話を、なんて思ったのに、つられてる、また。


 青が薄い? 夏よりは。


 夏より……。と言うことは、私は夏は終わったと思ってるのか。

 

 終わったかもしれない。ほんとに。


 ……終わったなぁぁぁ……。吸い込まれそうな秋の空だなぁぁ……。


 いっそのこと、このままぐーっと吸い込まれちゃったら、そのまま消えられちゃったら、すっごく楽だろう、私。

 

 ――と。


 並んで立っていたはずの松宮くんが吹っ飛んだ。前に。


 なに? 何、が、なにー?!


 いたっ。首痛いっ。急に角度を変えたりするからっ。

 

「はよー、隆一朗」

「おはよー、今日もごきげん」


 女の子が二人、いや一人、うぅん、そんな事はない、やっぱり二人だ。二人分の声もしたし、私の前に二人は並んで立っている。


 松宮くんは、倒れた時に手に付いた砂をはたき落としながら立ち上がり、そんな二人に向き合った。


「やめなよ、こういう挨拶。早死にしたらどうすんの」


「別に困らないわね、私は」

「もともとの寿命もわからないくせに、そゆこと良く言うわ。夏休みぼけだね、隆一朗」


 まったく同じ声で続けて二人でそう言って、その二人はすたすたと校舎方向に歩き出した。二人……、双子だ、この人達。すごい。そっくり。本物。


 そこでやっと私は、それまで間抜けに押さえ続けてた、首に持っていった手を下ろすことを思い付く。別にもう、痛くなんかはないんだから、こんなポーズを続けている理由はない。


「待ってよー、二人とも」


「なに?」


 二人はぴったり同じタイミングで振り返り、怒ったみたいな顔だった。だけど松宮くんはちっともひるんだりしないで、朗らかな声で言う。


「転入生の桜田葉月ちゃん。二人とも同じクラスだから、仲良くしてね」


「隆一朗、幼稚園のせんせーみたい。仲良くしてねなんて言う? ふつー」

「ある意味、ふつーじゃないんだから、仕方ないね。仲良くしよう、はづきちゃん」


 好意的だって思っていいと思う笑顔を向けられて、私は詰めていた息を吐き出した。笑え、たかな、私。


「右が月見ちゃん、左が雪見ちゃんだよ」


「はづきって、葉っぱの月?」


「そう、八月の葉月ちゃん。ほんとは五月だけど」


「なんだそれは」


「詳しい話はご本人から」


「ダブルムーンだね」


 そうつぶやいたのは、えと、右……、松宮くんにとっての右? それとも私に? ほんとはどっちだったの?


「あ、ほんと。私たち、地球上ではあってはいけない現象だ」


 って、あれ。


 しっかり腕を掴まれて、ちょっとも動けなくなった。顔が近い、近すぎる。


「努めて一緒にいるようにしよう。何かが起こらないとも限らない」 


 ということは、私にぶら下がっている、これが月見ちゃん、の方。ダブルムーン。そりゃ地球では月は一つって決まってるけど。


「見分ける秘訣はただ一つ。長く一緒に過ごすこと。月は月、雪は雪だよ」


「当たり前だね」

「ありきたりよ」


「ほかに秘訣はないんだから、それ言うしかないじゃん」


「暗黒世界の中で冴え冴えと照り映える孤高の美が月、万人に等しく降り注ぎ幻想を抱かせる美が雪なのよ。これくらい言えるでしょ、文学青年」


「山道を登りながらでも考えてみます。お姉さま方。じゃあ、葉月ちゃん、また後で」


「ガンバレよー、坊や」

「修行あるのみよー」


 肩を落として歩いていく松宮くんに、二人はそろって以上のような言葉をとばした。


 他にもたくさん、いろいろと。ちょっと取り残されたみたいな気分になったけど、いつまでも一緒に居てもらうわけにはいかないんだから、もちろん。

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