第22話

「なにっ?!  どしたの、ヨシトっ」


「笑った! 笑ったって、あいつ!」


「あいつって、……ヘンデルさんのこと?」


「そおぉだっ、ヘンデル! ヘンデルが笑ったっ、ヘンデルーっ」


「だるまさんが転んだみたいで、なんか怖くなくない?」


「こんな昼間っからそんなこと言われてもねぇ。あんた、ちょっと根詰めすぎなんじゃないの? ヨシト。いくら好きでもね、これは一応学校の授業なんだから、あんた一人でピアノ使うべきじゃないでしょ。だから錯乱して幻覚見ちゃうんだわ」


 ピアノからヨシトくんの距離、二メートルくらい。ステージの上で背中が壁にぶつかるまで、ヨシトくんは後ずさっていた。彼の指差す先には、愉快な鬘をつけたヘンデルさんとかの肖像画がある。笑った? まさか。なに言ってんの、ヨシトくん。


 そんな彼を見下ろして冷たいまなざしで説教しているのは、腰に手を当てた雪見ちゃん。今まで彼を取り巻いて、うっとりと彼の演奏に聞き惚れていた女の子たちは、きっぱりと敵に回っている。ピアノを弾かないヨシトくんは、人気者ではないのだろーか。


 まぁ、そうだよね。絵は笑わないもんね。いくら人気者の言うことだって、そんなことまでは信じられないか。


 私はヨシトくんの見たものを否定し、私の聴いたものも、否定してる。一緒に力いっぱい否定している。そんなもの、認めるわけにいかないから。起こるはずのないものは、起こるはずはない。起こらない起こらない。だからこれは空耳に決まってる。聞こえたような気がするだけで、ほんとは私は聞いていない――。


 急いで頭から外したヘッドフォンを、私の右手が握りしめていた。今まで自分でも知らなかった怪力を発揮して、こんなモノ、粉々に砕いてしまえたらいいのに!そう考えてすぐに後悔する。そんなことだって、起こるはずのないことじゃない。もういや。なにもかもすべてみんなイヤ。


「どしたの、葉月。なにしてんの」


 私を見上げる月見ちゃんは、今、ヘッドフォンをずらしていた。今……、ってことは。


「あれ、なんの騒ぎ?」


「ヘンデルが、笑った、ってあの人が悲鳴あげて、それで」


「笑ったぁ?」


 月見ちゃんの耳元のスピーカーから、音が漏れて聞こえてる。こんなボリュームで聴いていたから、ヨシトくんの声が聞こえなかったんだ。それで、こんな音で聴いてたのに、私に聞こえたあの声は聞こえていない。聞こえてたら、こんな平然としているはず、ないもん。私だけに? 私だけになんであんなこと? 理由……、理由なんてわかってるけど!


「ぎゃっ、なにコレっ」


 今度は教室の後ろの方で、そんな声がした。月見ちゃんが横で立ち上がる。今度は、今度はなによ?!


「もちょっと女の子っぽく驚けない? さぁちゃん」


「だって、私のフルートからなんかみょーな液体がっ」


「液体?」


 遠くて良く見えないけど、その子の振り回す金のフルートから、滴が床に落ちていた。妙な、色をしている。赤のような、ムラサキ?


 その時、ふっと視界が暗くなった。一瞬、自分が貧血を起こして倒れたのかと思ったけど、そんなんじゃない。それでもちっともおかしくなかったけど、私はまだしっかり意識を保っていた。そっちの方が良かったのに。倒れちゃって良かったのに。


「停電、だよね?」


 誰かが確認するみたいにそんなことを言った。当たり前じゃない。ほかになんだって言うの。教室全体が、オカシな空気になっているように感じるのは、きっと私の気持ちの方面の問題なんだ。別にふつうだ、私たちは。


 そうだよね?! 月見ちゃんっ。


 その月見ちゃんは私の横で、ヘッドフォンを耳に当てていた。なんで。


「停電なのに、音がしてる」


 ……なんで……?


 ボリュームのつまみを回して最大にすると、その音楽ははっきりと私にも聞こえた。


 課題と違う。と思う。


「さきさかー、これ、なんて曲だっけー」


「あん?」


「聴いて、これ」


 さっきの問題のフルートを持っている男の子が振り向いた。一番近くにいる女の子が、ヘッドフォンを手渡している。答えはすぐに返ってきた。


「フォーレのレクイエムだ。暗いなー。オレは嫌い」


「明るいレクイエムがあるかい」


「オレはそうして死にたいぞ」


 聞こえてくる音楽は、メンデルスゾーンが懐かしくなるくらい重苦しく聞こえてた。ほんとはそんな曲じゃなくて、ココロ休まる曲なのかもしれないけど、だって鎮魂って言うくらいなんだから、だけど私にはそう聞こえてる。


 どうして音楽は聞こえ続けているんだろう。停電なんだから電気がないのに、どうしてずっと止まらなくて、しかも違う曲になってるの? 課題曲は一曲で、先生のプリントのどこにもレクイエムだなんて書いてない。


 後ろの席のさえこちゃんが、かたんと小さな音で立ち上がった。すたすたと階段を下りて、そのまま教室を出て行ってしまう。私はその動きをずっと目で追って、扉が閉まるのを見届けてから、一緒に出て行けば良かった、なんて思い付いた。もしも。足が動くなら。


「よーちゃん」


「ん?」


 自分の声が、まるでひそひそ話そうと努力してるみたいに頼りなく聞こえた。ほんとはふつうに話してるつもり。そうしたい、ほんとは。


「さえこちゃん、どうしたの?」


「逃げた。なんかきっと、思うとこでもあったんだろうけど」


「思うとこって……」


「……うん、まぁ。きっとやなんだと思うな、この部屋が」


「……私も、やだよ、よーちゃん」


「それは私もだよ。葉月ちゃん」


 しみじみとよーちゃんは言ったけど、私ほど嫌そうじゃなかった。こんな風に考えるのって、私って変? だけど――。


 ――レコード――


 レコードが転がり出している。ステージの後ろの棚から降りて、……自分の意志で勝手に降りて、ころころと転がってる。全部で五枚。ころころころと、階段を『のぼって』。


 誰も悲鳴をあげたりする人はいなかった。みんな静かにその動きを見守っていた。

その五枚が、教室の後ろの壁にぶつかり、そこに横たわって止まるまで、とても静かなまま。


「これは……」


「発言は許可するよ。語ったら?」


「なんでおまえの許可が必要なんだ、オレに」


「なんか言えって言ってんのよ」


「なんか、ねぇ」


 鎮魂のための音楽を除いて、静まり返ったままの教室で、隣に立った女の子とのそんなやりとりの後に話し出したのは、さっき月見ちゃんの質問に応えた男子だった。まだフルートを手に持ったまま、ゆっくりとレコード盤がのぼった真ん中の階段を下りていく。足音が響く。革靴だから。


「ほかの教室は電気がついてるってことは、配線の問題だろうな。電球操作では、時間を計るのは難しい。ステレオが動いてるのは単に電源を準備室から取ってるから。フルートの液体はあらかじめ仕込んであったもの。凍らせておけば流れ出るまで時間は稼げる」


「凍らせって、ちょっと、それってフルート大丈夫?」


「音が出てたんだから、へーきなんじゃねーの?」


「さぁちゃんは元々出ないわけだしね」


「そうなんだけどねっ」


 その『さぁちゃん』の声をきっかけに、あちこちでいろんな声が聞こえ始めた。あ。ふつうだ。ふつうな感じに向かってる。変な音楽はそのままだし、電気もついてないけど、空気がさっきまでと違ってきていた。


 澱んだ教室に、風が入ったみたいな。


 だけどそれは錯覚だったから、すぐに私はまたぶちのめされる。奈落の底のさらに底まで、落ちるとこまで落ちちまえ、だなんて。


「それでさきさか。あのレコードは?」


「わかんね」


「ってなにソレ。その答え」


「世の中には科学だけでは説明できないナニかがちゃんと存在するんだよ。緑の扉とかさ」


「ばーか」


「おまえもけっこ説明しがたい存在だよな」


「あんたこそね」


 例えどれだけ説明しがたくても、そんなこと言ってる二人は、ちゃんとしてるほんものの人間だった。世の中には科学だけでは。それはほんとにその通りで、私はまだ握っていたヘッドフォンを、やっと手から外して机の中にきちんと戻す。


 怖くて怖くて、気持ちが悪い。気味悪い。耳にあんな声が届くなんて、信じられないけど、本当のことだ。だって私の耳は、ちゃんとそれを聞いたんだから。待って。ちょっと待ちなさい。それを信じる? 私は。何で信じられるの? だってそんなの、そんなの変じゃんっ。


 否定するなら、……全部しっかり根元から否定してよ……、ハンパに喜ばせたりしないで……。


 さえこちゃんみたいに、私も逃げ出したかった。だけど、どこに逃げたらいいのかわからない。どこに逃げたら、逃げられるのか……。


 ……幽霊? 本当に幽霊なの? 何を言っているのかはわからなかった。そこには言葉は聞き取れなかった。低く、本当に映画みたいな這うような声で、何かを私に言っていた。私を仲間に加えたくて、こんなことを続けている、とか? このセーラーを着ている限り、私を仲間にしたくなるの?


 災難って。こういうのも、災難なんて言葉でくくってしまっていいものなのかな。災難で、霊にとり殺されるの? こんなに苦しいものを、災難って言う? 世の中一般の世間では。


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