第28話

 柴田先輩の言ったとおりのところに化学室はあって、私は授業開始の三分前にそこにたどり着いていた。朝のホームルームにいなかった私を、よーちゃんは大歓迎にも、入り口で待っていてくれた。とても素直に嬉しいと思ってる自分に、自分で勝手にすごく驚く。驚いた、ほんと。


「おはよう、葉月ちゃん。今教室に戻ろうかと思ってたとこ。良かった。お休みかとも思っちゃった。


 朝っぱらから私のことをいろいろ考えてくれたと思うと、申し訳ないような気もしてしまう。その間私のしていたことと言えば、朝ごはんなわけだから。ホームルームに出なかったこと自体は特にどうということはないからと言うようなよーちゃんの話を聞きながら化学室に入っていくと、同時に奥のドアを開いて先生が登場した。


 とにかくとにかくと座らされた私の横には、さえこちゃんの姿。まだ先生におじぎもしていないのに、すでに居眠りしているところがなんとも。


 私はかばんから教科書を取り出すと、腰に手を当てて背筋を伸ばしてみた。伸びることにもほっとする。息をするのがずっと楽になってる。今までは違う感じだった。こんな風になれるんだって、不思議な気がした。



「はーづきちゃーん」


「はーい」


「ゴミ捨ててくる。そこで待ってて」


「一緒に行く?」


「だいじょーぶ。でも、待っててね」


――放課後になっていた。無事に。今は確かに放課後で、私は裏庭の掃除なんてしてる。掃除当番だからだ。


 今私に手を振ってゴミ箱を提げて行ったのは、私の前の席の坂本三恵ちゃん。当番は一列ずつずれていって、教室と気を宇出津前の廊下のほかに、クラスごとの担当区域をぐるぐるしているらしい。だけど裏庭なんて誰が汚すものでもないんだから二人で充分ってことで、前から順番に二人ずつ当番、にしている、とか。それで人数が足りなくなったら、じゃんけん勝ち抜き。


 三恵ちゃんは凛々しい眉をした女の子で、厳しそうな人だと思ったんだけど、話し出すととってもとっつきやすい子だった。


『私、葉月ちゃんとゆっくり話してみたかったんだ』


 なんて言ってくれちゃって。えへへ。


 はあぁ。そーらが高いなー。青いなー。こーんな風にのんびりしてると、昨日の騒ぎが嘘みたいに思える。そうよね、これがふつうよね。ふつうの学校生活よ。すいかも転がらず、アイロンも火を噴かず、本も崩れない。もちろんオーブンもヘンデルも無事で、それは当たり前だ。


 こうなってみて考えると、昨日松宮くんが言ってたことは、まったくの正論だったんだ。災難のすべてが私に被さっているわけじゃない。それこそ普通に考えてみたら、私一人になにができるって言うんだ。私のための災難だとしたって、そんなたくさんの人を巻き込むはずがない。変な言い方。私のための災難、だって。


 そうだ。私個人だけの災難じゃないんだもん。みんなも一緒に災難なんだから、全然私のせいじゃないもん。松宮くんのおっしゃるとおりーっ。


 そんなにひどくないって、柴田先輩の言ったことは、やっぱり当たってる。マーラーはやっぱり、偉大な占い師なのかも。私、これから先、何か困ったことがあったら、あの人の占いに頼っちゃおうかなっ。


 と、うかれたところで。ちょっと、……なにか引っかかった。占い師は占いをする人で、マーラーはタロットを使って、私の運勢を占ってくれた。タロット使わないで、今朝はどうしてあんなことが言えたんだろう。マーラーはカードに頼らなくても、人の運勢を読むことができる占い師なんだろうか。って言うか。それってできる技なんだろうかって方。可能なこと? それ。あれじゃ、占いって言うよりも、予言みたいじゃない。


 あれ。誰かもこんなことを言ってた。誰だっけ? む?


 シバさんって、いったい本当は――、だけど予言者なんて占い師よりももっと可能性薄いはずで、存在なんかしないと思ってるんだけど、なんかこの学校に来てから、私の普通だと思っていたものが、どうもずれ始めてるみたいだ。


 そう言えば、あの人。なんであんなに笑ったり? 松宮くんとぶつかりそうになって、急いでるからって走って行っちゃって、それ以外に何もなかったよね、あの時。でも、シバさんは爆笑って感じで笑い出して、それから改正してくれた。……なんでなんだろう? 変じゃない?


 変って言っちゃうといろんなことがとても変で、シバさんに限ったことじゃない。だいたい、朝ごはんを出してもらって食べてるのって、とてもふつうじゃないんだから。だけど、城くんのペースって、どうも巻き込まれなくちゃ悪いような気がして、来いって言われたら行くし、座れって言われたら座っちゃうんだ。断っても泣きはしないだろうけど、あの目かな、人懐っこいを上回るパワーがあるような感じで。


 そうだ。城くんのこと、小林君みたいだって思っていたんだっけ。そう言えば、小林君って名前の人、クラスにいたよね。一番大きいみたいな人だった。よーちゃんと良く話してる。背が高いって言えば、松宮くんの友達のカツヤくん。あの人も大きい。なんかスポーツとかやってる人かなぁ。


 あ。思い出した。私、松宮くんに謝らなくちゃいけないんだ。朝は逃がしちゃったけど、今度会ったら絶対言わなくちゃ。昨日はごめんなさいって。逃がす……、とか言うの、ヘンに松宮くんに似合ってる気がする。あの人、神出鬼没ってイメージあるし。どこにだってふいに――。


 ……なにを、騒いでいるんだろう?


 校舎の中から、叫ぶような声が聞こえた。聞こえ、てる、今も。それも一人じゃなくて、次々といろんな声が続いてる。まさかまたなにか爆発だとか? だけどそんな音はしなかった。それとも私が気付かなかっただけでしてたとか? えぇ? そう?


 そういうことも、絶対ないとは言わないけど。


――?!


 な。ナニ、これ……。


 自分の見ているものが信じられない。だけど、それは目の前に現れた。風に木々がいっぺんに揺れて、大きな音を立てた。


 けやきみたいなとにかく古そうな太い木の下で、黒いマントが舞い上がった。本物を初めて見るシルクハットとタキシード。顔を仮面で隠しているってことは、ジェントルマンじゃないってことなのかも。ジェントルマン、……って……、ナニモノだとしたって、――だって変じゃんっ、そんなかっこしてっ。


 仮面のせいで目は見えないけれど、その変な服を着た人は私の方をみてじっと立っている。校舎の中から聞こえた叫び声は、きっとこれを見た人達のものだったに決まっていた。叫ぶと思う、こんなん見たら。


 あんまり考えなくたって、私のするべきことなんて決まってて、一つしかなかった。ここから逃げる。逃げ出さなくちゃ。こんなのといつまで向かい合ってるの。なにしてるの、私は。


 だいたい、あっちだって、いつまでこんなして向かい合ったままでいてくれるかわからない。


 逃げなさい。逃げよう。逃げなくちゃ。ここにいちゃいけない。ここに突っ立ってちゃだめだよ。だってあの人変な人だもん。なんかされるかも。タキシードだけど。セーラー服な仲間じゃないたみいだけど。え。違うよね。だってタキシードだもん。男の人でしょ。だからあの話とは関係ないはず。全然違うとこから現れた、新しい変な人。


 自分でもはっきりしない間に、私は走り出していた。『あれ』が出てきたのとは別の、私に近い方の入り口から、校舎の中に飛び込む。なにをどこまで考えていたのかわかんない。


 後ろを振り返るなんて、そんなことは怖くてできないことだった。だけど音は聞いた気がする。違うかもしれないけど、私以外の足音が聞こえたような気がする。違う?


 誰かに会いたくて校舎に入ったのに、誰もいない。こんな時に、うわばきとかなくて良かったなんて思ってる。どうだっていい、そんなこと。例えあったって脱いだりしなかったんだから、気にしてるとこじゃない。


 聞こえているのかもしれない足音に追われながら、私は三階まで駆け上がってきた。どうして一人も人間に会わないのか、ちゃんと考えて答えを出すのはめちゃめちゃ怖い。きっと、変な風に考えが動いていって、本当みたいな気がしちゃって止まらなくなる。


 私の話を聞いてくれる人がいない。私の見たものを見たって言ってくれる人は、どこに行ったらいるんだろう。わかんない。わかんないよ。


――誰もいない。


 また元に戻りそう。あんな風になっちゃう。昨日……、今朝までの私みたいに。いろんなことがはっきりしなくてわからなくて、落ち着かなくてたよりなくて、どうしたらいいのかわからなくて不安で。みんなが私を見ているような、つっぱねられて無視されているような……。


 私は階段に座り込んだ。誰もいないんだから、誰の邪魔にもならないから。

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