第10話

「うげ。ユウコ先輩」


「止血止血。あんたの血は変わってるんだから、だらだら流してないでちゃんと止めるのよ。はい、ぐっと引っ張って、ほら、手伝って、そこのっ」


「葉月ちゃぁん」


「あ。うん」


 なんだか哀れっぽいその声に、私は思わず手を出していた。どんな声だろうと断る理由なんて、そりゃないんだけど、ちょっと呆然としてしまったのだ。


 知らない人だけど、とにかく、私は救われてた。松宮くんもだ、とにかく。


 とび込むみたいに現れたユウコ先輩の命令に従って、腕を押さえたり、どっかから現れていた布を引っ張ったり。そんなことしてたら、当然傷口が目に入っちゃって、私は激しく後悔するのだった。うぅ、見るんじゃなかった。


「はいこれで保健室まで歩いてオッケー。血痕がてんてんだなんて、非衛生的にもほどがあるわ。男の貧血も気持ち悪いしー」


「そういう点からの救いの手ってこと? 先輩」


「とーぜん、後輩への愛もあってよ」


「図解見たばっかの止血法、試してみたかっただけでしょ」


「ちゃんと止まってるんだから、私ってすごいよね。ちょっと見ただけなのに成功なんて、大天才じゃん」


「まだちょっと動きを見せてるみたいなんすけど」


「早く保健室行きなさいよう」


「だって靴がないんだもん。知りません? どーっか飛んでったらしいんですけどー」


 質問はユウコ先輩だけじゃなくて、もしかしたら増加しているのかも、なギャラリーにも向けられていた。


 そうだ。傷に気がつく前は、靴の話をしていたんだった。タカハシ先輩と、シンデレラの靴の話。こう言うとネタ的におかしな方向へと進みそうだけど。


「靴ならここだ、隆一朗」


 と、その声は太くて、人をよけさせて現れ出た持ち主に、私は私の勝手に考えていたことのせいで絶句する。方向が間違ってる。シンデレラじゃない。


 いいかげんにしろ。

 

 自分で自分にツッコミを入れて、改めて登場した人物に目を向けてみると、あるのかどうかは知らないけれどラグビー部員って感じの人が、ものすごくちっちゃく見えるかばんと反対の手に、またちっちゃく見える革靴をさげて立っていた。


「も少しで池にはまるとこだったってさ」


「お、さんきゅー、かっちゃん。で、誰が?」


「中等部の一年生女子。名乗らなかったからわかんねー」


「かっちゃん、顔コワイもんね」


「そういう問題か? 今」


 そう言う松宮くんに比べたら、たいていの男子はコワイってことになるような気がするけど、無気力そうにそれでも言い返すその人は、やっぱりコワイのだった。私が中学生で、この高等部の先輩に声をかけなきゃならないんだとしたら、わりと大量に勇気が必要だろうと思う。だって、別に中学生じゃなくても怖いもん。


 松宮くんは友達だから、そりゃ当たり前にひるまずに、


「よし、ぴったり。保健室行くから、オレのチャリ置いてきてよ」


「オレがかい」


「朝から派手なアクション見せてやったんじゃん。報酬くらい下さいよー」


「理屈かよ、それが。なんでオレが」


「傷口見せようか」


「かばんも運ばせてくれ、隆一朗」


「さんきゅー。かぎ、ちゃん取っといてね」


 心なしか哀愁を漂わせてかっちゃんなる人が自転車を引きずって行ったのをきっかけに、出来上がっていた輪は崩れていった。突然の事故の見物人たちも、ばらばらと校舎に向かっていく。


 松宮くんは、すれ違う人がかけてくいろんな言葉にいろんな風に応えながら、私の背中を押して、保健室方向に誘導した。なんで? なんてちらりと思った私は、薄情者度が高いかも。


 ここはそれは当然、付き合うだろう、そのくらい。


「かっちゃんはスプラッタにヨワいんだ。自分の血も他人の血も見境なくダメ。たいていの要求はこれで通るね。覚えときなよ。役に立つから」


 松宮くんはそんなことを伝授してくれたけど、いや別に、と言うか、それよりもあんたね、そんな笑顔だけど、その傷口はスプラッタに特に弱くなくても、かなりキツイものなのでは。


「痛くないの?」


「痛覚あるからねー」


「すごい痛そう……」


「ま。目は覚めた」


 とかって、そんな問題じゃないでしょう。


 私には傷はないはずなのに、同じところがなんだかむずむずしてきた。うー。やな感じだ。ほんとは松宮くんはまだ寝ぼけてるんじゃないだろうか。だって、痛いって、相当。血が。血が、何ヶ所からも生まれてきてて、うわーって。


 ……ほんと見るんじゃなかった、あんなもの。


「初日、疲れた? そんな顔だけど」


 全然違うことを考えていたから、私の反応はすごく遅かった。


 そんな状態でこんな話に意識を持っていける松宮くんに、心底感心なんてしつつ、私はそんなことないよ、なんて答えていた。ほんとはこれでもかってくらいに疲れていたし、それを今朝も引きずっていたんだけど、そんなものはふっとんだような気がする。それに、ひどい怪我をしている人間相手に、疲労がどうとかって語るのも筋違いのような。


 こうしている今も血はあふれるのをやめていないに違いない。私は見ないようにしながら、見えない恐怖に怯えていた。怯えているよりも見ちゃえばいいんだけど、見えなくて怖いものは、見ないほうがいいと決まっている。


 う。なんか貧血起こしそうだ。なんで私が。


「何してたの?」


「え?」


「お茶会じゃ終わらなかったでしょ。昨日、オレが抜けたあと」


 ほんとに痛覚を持っているのかと疑いをかけてしまうくらいなんでもなく、松宮くんは腕を下げた。うっかり私は血が染みているのを見てしまったけど、想像していたよりはマシだった。


 そうだ。血は止まるのだ。私もいいかげん、そこから離れて違う話をしなくては。


「……タロット占いを、してもらったんだけど」


「タロット」


「美術部の部長さんが占ってくれたんだけど。私についての占いだったんだけど」


「あぁ。なるほど。シバさんね」


「うん」


 シバさん、と月見ちゃんたちも城くんも、呼んでいた。しかし、それは仮の姿だって、三年生の柴田さんは言っていた。グレートマーラーこそが、我が真の姿なり、と。


 それはちょっと行き過ぎてて危ないと思うけど、否定もしきれない。占い全部をばっかみたいと切り捨てるには、私の経験はまだ浅すぎる。


「なんか悪い事言われた?」


「うん……、まぁ、……すごい悪かった、んだけど」


 あれ。


 私ははっとしたけど、それは遅すぎていた。瞬間に気付いても良かったのに、私は今さら思い当たってる。『これ』はどう考えても、災難に分類するしかないと言うのに。


 いつもと変わった事。日常では起こり得ない事。普通だったら、私は自転車に飛ばされたりしない。松宮くんだって、空飛んだりはしないはずだ。


 だって。松宮くんにとっては、毎日の通学路なんだから、あの坂道を加速度つけて降りるのも当然だったってことで、そこに私が加わったから。だからあんなことになったんだよね? 本人さっぱり痛がってないとは言え、この怪我の責任は私にあると言えちゃう。私に襲いかかった災難に、この人、巻き込まれたわけなんだから。


 ここはやっぱり謝らなくちゃ。私に関わったばっかりにゴメンなさいって言うのか、責められるのは私だってことを。


「まさか葉月ちゃん、自分の災難に巻き込んじゃってゴメンとかって思ってないよね」


 先に。そう言われて、私は言葉をつなげないまま黙り込んだ。


 どうして考えていることがわかったんだろう。

 

 少ししか光の入ってこない、暗い緑色の廊下を見たいわけじゃないけれど、顔を上げるのは嫌だった。図星突かれて、どんな顔をしたらいいのかわからない。謝らなきゃならないから、私はそう言おうとしていたのに。


「あのねぇ、どっちかって言うと、オレが葉月ちゃんを酷い目に合わせてんだから、謝るとしたらこっちの方なの。葉月ちゃんは怒る方。だいたいそんな怪しいカードで何がわかるんだって。そんな無責任な予言なんて忘れておしまいなさい」


 だって、私だって忘れてたけど、こんなことがちゃんと起こったんだから、思い出しちゃっても仕方ないじゃない。


「カードってのはもともと、偶然を楽しむただの遊びなんだから、べっつになんも教えちゃくれないんだって。そんなとこに勝手に幻想くっつけて語るたわ言に振り回されることないよ」


 そんな、たたみかける様に言われると、それを信じたくなっちゃう。


 だけど、事実なのに。私の身に、確かにカードが語った通りのことが起こって、それをすぱりと無責任とか怪しいとか言い切ることなんて、なんだか都合が良すぎる気がするのにできない。


「確かに、腕は痛いけど、宙に浮いたのはけっこ楽しかった。あれを災難に分類するのは、オレとしては意義ありだけどなー」


 顔を。顔を上げると、松宮くんは当然みたいに笑っていた。


 それで言うことはやっぱり、そんなことだ。


「キカイ使わないで空飛んだ代償が、腕一本なら安いもんでしょ」


 飛ぶなよ……。


 なんてツッコミを、私は心の中だけで入れてみた。松宮くんの意見は、限りなく楽天的だ。前向きとか、プラス思考とか、そう言ってもいいけど、だいぶ脳天気の方に片寄っているような気もする。いいことには、違いないのだろうけど、それは。


「ほかにもなんかあった?」


「何か?」


「シバさんの言うことが当たっちゃってるなー、ってこと」


「別にない、と思うけど」


「ならやっぱりたわ言だね」


 ピシャリと決めつける松宮くんは、私にはとても頼もしく見えたのだった、その時。


 たわ言なら、それでいい。そうあって欲しいんだから、私だって。あんな占い、外れてくれないと困る。災難って言うなら、この転校そのものが、私にとってはすごい災難なんだから、これ以上なんてひどすぎる。


「ここ、保健室。ありがと。葉月ちゃんは授業に行っていいよ。遅刻の理由が面倒でしょ、説明するの」


「あ、うん」


「右に曲がって階段上ると、西階段が奥に見えるからね」


「ありがとう」


 にっこり笑ってうなずいて、松宮くんは保健室に消えた。すぐに部屋の中から、活きのいい笑い声が聞こえてきた。すごすぎる。中で何が起きてるんだろう。


 ちょっと気になったけど、引き返すのはやめておいた。右曲がって階段上って、を早く実行しないと忘れてしまうし、松宮くんの言うとおり、遅刻の説明は面倒そうだったから。それに、松宮くんは一人でも大丈夫。私がいつまでもくっついてなくたって。

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