第20話
「どこ行くとこ? 葉月ちゃん」
「図書室に、教科書を取りに」
「あー、そっか。もう届かないとね」
焦げちゃうところを助けてくれた松宮くんに、お礼を言うにはずいぶんタイミングがずれちゃって思えた。マシュマロから私を助けてくれて、どうもアリガトウ。だいたいこれって、なんか変だし。
それよりも、謝った方がいい状況なのかも知れないし。また、私の災難に巻き込んでごめんね、とか。
『また』。やっぱり、『また』が正解なんじゃないのかな。
「スイカね」
「あ、うん」
「ちゃんと飾ってきた。正面玄関。風物詩だからさ」
風物詩、って夏の? あれが? あのスイカが?
あ。あんまし深く考えない方がいいかもしれない。
だけど、その平和そうな光景に、頭が少しくらくらした。お客様も通る玄関口にそんなものを置くなんて、校長先生とか怒らないのかもしれないけど、この学校では。
このくらくらは、傾いている階段のせいもある。目でわかるくらい、真ん中に行くにつれてすりへっている階段を上っているから。
昼休みなのに誰ともすれ違わないのは、特別教室だらけの棟だからかも。ざわめきはわかるけど、なにを言っているのかわかる声はない。近いような遠いような感じで。
「中入るの初めてだよね? 図書室」
「あ、うん」
「けっこいい場所なんだけど、ひとっつだけ困ったことがあるんだよね。それさえなきゃオレも入り浸るんだけど。まぁ歯止めがかかっていいって言うべきか」
困ったこと?
「なんのためだか天井高くていい感じだよ。長いこと開いてるし」
なるほど天井は高かった。二階分使ってるんだと思うくらいに、高すぎる。図書室と言うよりは、図書館に近い。それも、決して小さくはない規模で、私はその棚の多さに圧倒された。都心のおっきな本屋さんみたいにも見える。お父さんと行ったことのある、一つのビル、まるまる使ってる本屋さんだ。
冷房。ここってクーラーが入ってる。すごーい。なんで? 特別勉強する場所だから?
司書さんのいるはずのカウンターは空っぽ。右手の奥の扉の向こうは、自習室らしく、机にしきりが付いている。デスクライト使用のためにちょっと暗くなっていて、混雑具合はわからないけれど、何人かの背中は見えた。べんきょーしてる、昼休みなのに。
左にはいくつも並ぶ書架の向こうに、閲覧用のおっきなテーブルがあった。白くて明るい感じがする。だけどそんなにたくさん人がいるわけじゃない。誰でも入れてクーラーきいてるなんて部屋、入り浸る生徒とかいて普通だと思うんだけど。
入り浸る。そう言えば、さっき松宮くんもこんなこと言ってたっけ。えーと、それで、困ったことがあるって。
「わぁっ」
その自分の声が大きかったことに気付いた時には、私はじゅうたんに手をついていた。じゅうたんの上に転がってた、って言うのが正しいのかも。
な、なんで?! なんでよ? なにやってんの? 私は。なになになに。頭の中ぐるぐる回って、わかんないことだらけになってる。そうだ、隣にいたのは。
「松宮くん?」
どこ?
「ここだよ、葉月ちゃん。大丈夫だよね」
右斜め後ろから声がして、振り向くと一番に手が見えた。よいしょ、なんて言いながら、私を立たせてくれたけど、そんなかけ声が必要なほど重たくないと自分では思ってるんだけど、私は。
だけど、そんなことを考えてるとこじゃなかった。なんで床に転がってたのか、誰が私を転がしたのか、見てみたら簡単にわかった。自分の声のほかに、大きな音がしたことも、今になってわかってる。遅い。
「これ……どうしたの?」
「さて。どうしたんだか」
かなり大きな音はしたと思う。通路に本があふれてた。書架が崩れ落ちたらしく、書棚がただのおっきな木の箱になってしまってる。そして、載っていた本が全部落っこっちゃったんだ。
突き飛ばされなかったら、本の下敷きになっていた場所に、さっきまで私は立っていた。ふー、あぶないあぶない。
……じゃなくてっ、そんな偶然の事故みたいな感想言ってないでっ、もっとちゃんと考えよう、私。
調理室は事故に分類できるとしても、コレはちょっと難しい。いくら私が楽天的に考えようと努力したって、事故と言うよりは……。
行くとこ行くとこでこんな風にこんなことがちゃんと続いてる。だってそれまでずっとふつうに並んでた本が床に散らばってて。崩れるはずなんてなかった、きっと、私さえここに来なかったら、この本は今でもそれまでと同じように並び続けていたはずなんだ。
こうなってみると、調理室だってそう。私さえ通りかからなければ、マシュマロは飛ばなかったんじゃないの?
前にも事故はあったかもしれないけど、それだっていつもいつもってわけじゃないんだから。
やっぱり私のせいだ。私が災難を引きつけて歩いてる疫病神、なんだ。私に関わると、こんなに見事に災難が。
――「やれやれ。よりによってこの棚ですか」
「あんたしか読まない棚だね、隆一朗、片付けな」
いつの間に側に寄っていたのか、声に振り向くと、女の人が立っていた。じゅうたんを沈ませているハイヒールな靴。しかもかかと、高っ。そして上に視線を持っていくと、目の覚めるような真っ赤なノースリーブのワンピース。
キツめなメイクの施された目を大きく開いて、がっしりと腕を組んだ姿勢でそう言ったのを、松宮くんは意外なことに憮然として。
「え、あれ、そういう理屈ー? 読んでるからって順番なんてわかんないよ?」
「あんたしかいじらないんだから、あんたの好きなように並べたら?」
「あ、いいんだ、それで」
「私は構やしないわけよ、それでも。だ・か・らっ、お願いねぇん、隆一朗くぅん」
「僕、いっそがしいんで、これで」
くるりと背中を向けた松宮くんに、綺麗に巻いた栗色の髪を揺らして、その女の人はとびついた。って言うよりも、とびかかって首に腕をかけた、って言った方がいい。もっと言うなら、襲いかかったとでも。
私は少しも動けなかった。だっていろんなことがわかんない。まさか本気で殺されかけているわけじゃない。そんなまさか、こんなとこで。
それでも半分くらいは本気なのかもなんて考えてたから、話し出してくれたときには、ほっとした。ふざけてるだけ、……だって思っていいと思う。たぶん。
「ちょっと色仕掛けよ、おちなさいよ、隆一朗っ」
「そんなささいな見返りでこんな仕事をやれって言うかな。放してよ、はなみさん」
「あんた、私の腕をなんだと思ってるのよ。こんな重たい本なんて持てるわけないじゃないの」
「ちょっとは予測して職業選びなよ。それより、教科書ちょうだい。届いてるでしょ、全部」
「教科書。あぁ、転入生の。あら、あなた?」
「桜田葉月ちゃん。葉月ちゃん、こちら、図書室の困った司書さんで、カワムラさん」
今までになく嫌そうな口調で松宮くんが紹介すると、言われなくちゃそうとは思えなかった司書さんのカワムラさんは、やっと松宮くんの頭を放した。美人。目の醒めるほどの美人だ。
「一月には高田になりますのよ。おほほ」
「生物の高田先生の奥方になる、予定」
「決定でしょうが、ちょっと」
「はいはい、決定ですよ。そうなっていただかないと、オレとしても」
「なになにそれ。私をきっぱりあきらめるためってこと?」
「高田せんせにすべてを押しつけようってとこでしょ。どう考えても」
「ずいぶんかわいくないじゃない?」
「そこが気に入ってるんだよねぇ。ハナミさんは」
カワムラ、ハナミ。
司書さんだってちゃんと名札はつけている。例え、こんなかっこをしていても。大きく開いたワンピースの襟にそれを見つけて、だけど、見る前から、私は知っていたような気がするけど。『カワムラ』が『河村』で、月見ちゃんたちと同じように書くってことは。『河村花見』。似すぎだよ。これ。
「雪見ちゃんたちのお姉ちゃん。わかるでしょ」
「美人の家系ですの」
聞こえよがしな深いため息をついた松宮くんを肘でどつく。て、手加減まるでナシ。
そういうとこが見た目なんかよりもはっきりと、月見ちゃんたちのお姉様なんじゃ。この人って。
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