フィアリング・スタンドアローン


     ◆


 珍しいですね。と、病室に入って開口一番、鯨寺夫人は私にそう言った。

「珍しい、と言いますと?」

「いえ、たいしたことでは」遠慮がちに、夫人は続ける。

「ここへ来るときは、いつも白衣を着ていらっしゃいましたから」

 言われて、ああ、と生返事気味に応答して、すぐ咳払いで訂正する。

「実は、転んで汚してしまって……。クリーニングに出したはいいものの、あれが一張羅でして」

「あら、それは災難でしたね」

 心配そうに眉尻を下げた夫人に、愛想笑いで返す。

 慰霊公園での爆破事件から三日経った現在、土埃にまみれた白衣なんてとっくに洗濯済みで、今は自宅のハンガーに掛けてある。

 結局、あれからホエルには会えていない。

 元々連絡先も交換していないので、彼女から来なければ会えない(当然、東宮さんは怒っていた)という歪な関係だったこともあり、彼女があれ以来どうしているかを知る術はなかった。

 幸いなのは、あれ以来グレイテストバンを想起させるような爆破事件は起きていないということ。

 企業派義勇軍と名乗った顔のない人たちは、今回の件でSNSコミュニティの管理人が閉鎖・開示請求に応じたのもあって、あの場にいた数名は迅速に逮捕された。ホエルに爆破され、仮想体を殺された人間は、数時間から一日前後の意識不明状態に陥ったものの、退院後の生活に特に影響がなかったのも私にとっては幸いだった。

 彼らにもホエルの写真を見せたが、だれもその姿を見たものはいない。

 現場にいた少女も日焼け程度の小さなやけどで外傷もなく、無事親元へと届けられた。現場にいた原因ははっきりとしていなかったが、公安から確認不足だったという正式な謝罪もあって煙慈も深く追求しなかった。

 ホエルを除いて、一旦事件は収束を見せている。

 私は、ホエルと対峙せずに少女へ走って行った、あの選択は正しかったんだろうかと、今でも自問している。

 あの状況で、一般人の保護を放棄するのは人道的にあってはならないと、考える。たとえマリオネッターの強制誘導があったとしても、東宮さんの《白雪》が爆発を遅延できたことを知っていても、煙慈がホエル確保を命じていたとしても……、おそらく私は、女の子に向かって走っていったと思う。

 ただ一方で、東宮さんや日下部さんのサポートをもっと信用していれば、彼女たちに任せてホエルときちんと話せていたという可能性を、無碍にはできない自分がいた。

 私にしか見えていない、私しか見えない少女。

 私しかいないと切願した彼女の瞳には、今誰がいるんだろうか。

 そのことを煙慈に相談する機会にも恵まれず、しかしホエルに言葉をかけられなかった自分には、アイコンだけの白衣ですら袖を通す資格はないように思えた。

 そんな葛藤すらも、今ここで夫人のカウンセリングを行おうとすることで欺瞞になってしまうのが、情けない話だが。

「気分はどうでしょう? 看護師さんの話では、異常はないと伺いましたが」

「ええ、おかげさまで大分良くなったわ。あなたもお話相手になってくれて、退屈しませんし」

 夫人はそばの棚に手を伸ばして、そこに置いてあったピンクのクジラのぬいぐるみに優しく触れた。

「プレゼント、気に入ってくれたようで嬉しいです」

 壮年の女性にプレゼントするものが子供向けのぬいぐるみなんて、今思えばどうかしていたかもしれないと後悔していたが、夫人は柔らかい笑みで受け取ってくれた。

「ええ、とても可愛らしくて」とゆっくりと首を振り、夫人は腿の上に手を重ねた。

「ちょっと、昔を思い出すわ。ここがまだカイキョウシティになる前、夫と娘の三人で水族館へ行った時のことを」

「水族館、ですか?」

「娘がどうしても欲しいと言うので、似たようなクジラのぬいぐるみを買ったことがあるんです」

 どこか遠い目で、夫人は語る。

「す、すみませんっ。そうと知らずに、私……」

「どうして、謝るのですか?」

「え?」

「むしろお礼を言いたいくらい。娘に会えない私を気遣ってくれたのかと思っていたのですが」

「いえ、そんなつもりはなかったんですが……」

「ああ、それにしても懐かしいわ」夫人はぬいぐるみを手に取って掲げた。

「帆選は海洋学者になりたいっていつも言っててね。それも、水族館でセミクジラの模型を見たからだそうなんですって」

「そう、でしたか」

「よく話してくれたわ。セミクジラはヒレのない背中が綺麗な曲線を描くから『背美鯨』だって」

「あ、それ私も聞いたことあります。アクアリウムのスタッフさんが、同じようなことを……」

 会話を弾ませようとした私を、内からこみ上げた大きなしこりが止めさせた。

 ぬいぐるみの話。『背美鯨』の雑学。

 夫人の語るエピソードと、以前見聞きした話が、面白いくらいにデジャブするのが、どうしても引っかかった。

 災害で消失したアクアリウムに勤務しているスタッフの境遇がここまで重なることがあるんだろうか。いや、仮にこの共通点に必然性があったとして、それなら彼女は煙慈の言っていたあり得ない存在になっているのではないか。

 煙慈は言っていた。ファントミームをもってしても、死者の復活などできないし、その再現性もあやふやだと。

 本当に?

 自分の中で、まるで自分ではない誰かが、問いかけてくる。

 鯨寺ホエルは、煙慈の否定していた独立型の自律プログラムだった。

 それが発覚した今、これまでの前提を見直さなければいけないじゃないか?

 この街では、感じたことが唯一絶対の真実ではないんだから。

 自問に答えるよりも先に、サイコトラッキングはElWaISに記憶野からモンタージュの作成を命令していた。

「唐突にすみません。夫人は、この方に見覚えはありますか?」

 作られた画像データを夫人の前に表示させて、恐る恐る尋ねた。

 眉を寄せた夫人は、共有された画像データを怪訝そうに見つめる。

 次の瞬間、その表情が固まった。

「これを、どこで……?」

「旦那さんが設立していた記念アクアリウムで働く、スタッフの一人です」

 画像に釘付けのまま、夫人の瞳が震える。

 私が見せたのは、入鹿海未の画像。

 青色のツナギ。南国風デザインのバッジ。流れるような黒い髪に儚げな表情。

「これは……誰ですか? すみません、本当に、本当に変な話なんですけれど……

 夫人に問う声が、緊張で震える。

 できることなら、この懸念が間違いであって欲しい。

 しかし夫人は、画像と私の顔を交互に見やって、困惑を混じらせた表情で。

「帆選です」呟くように、正解した。

「この子は、あの時、あの部屋で私が見た、鯨寺帆選です」

 私は、一歩後ずさり、戸惑いっぱなしの夫人を余所に、重く息を吐いた。

 そんな馬鹿げていることがあるのか。

 いや、もう私はホエルというあり得ない存在を、知っている。

 そして、この一見してシュールとしか言いようのない、常人では絶対にあり得ないような矛盾も、私ならあり得る。

 鯨寺帆選。死亡。

 この認識が、全てを狂わせていた。

 事実として、帆選は亡くなっている。そこに間違いはなく、その事実そのものが、私にとっての最大の障害だった。

 サイコトラッキングが、帆選の画像と、海未さんの画像を照らし合わせる。

 年齢による顔の変化を考慮して、照合率は九十パーセント超。

 そう、これがあるからこそ、私は手元に帆選の写真があったのにも関わらず、夫人にホエルのモンタージュ写真を見せて確認してもらう必要があったんだ。

 私は、ホエルと帆選が、同じ顔ではないと確信できていなかった。

 両親の顔が、あの遺影に写る顔と同じだとわからなかったように。

 私の脳は、死者の顔を思い出せないようにできていた。

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