知恵熱とゲシュタルト崩壊Ⅱ


     ◆


「知恵熱と、ゲシュタルト崩壊だそうだ」

 指で火のついたタバコを弄びながら、煙慈は目の前にそびえ立つ慰霊碑を何の気なしに眺めている。

 夫人の病院から徒歩数分で着く慰霊公園には、湖を一望できる景観と、それを背景に全長一〇メートルほどの巨大な石碑が設立されている。本来はここに死亡者一万人超の名前が刻まれる予定だったのが、先のリスト流出の件を受けて今はまだ水平線を遮るオブジェでしかない。

 夫人のカウンセリングを終えてすぐ、連絡を受けて煙慈の報告を受けた私は、大理石のつるつるな表面を眺めながらさっきの言葉を聞き直した。

「知恵熱って、考えすぎで熱を出すっていう?」

「ああ、そうだ」

「ゲシュタルト崩壊って……あの、同じ言葉を見すぎたり言い続けていると意味が理解できなくなるっていう、ゲシュタルト崩壊?」

「ああ、それが爆発の原因だそうだ」

 そう言って、煙慈は手元にあった仮想体ファイルを投げてよこす。反射的に手が伸びるも、その手に触れることなくファイルは私の目の前で緩やかに慣性を落として静止した。

 爆発。知恵熱。ゲシュタルト崩壊。

 この三つが、どうつながるんだろうか。

「ファントミームは四次元物質だが三次元上に存在して、電子で構成されたれっきとした物質だ。そこにプログラムを入力すると、電子の運動で熱を発生させる」

 テキストをそのまま抜き出したようなセリフに、研修の時に講義してくれたのが煙慈であったことを思い出す。彼が今喋っているのは、ファントミームの特性に関する項目だった。

「オーヴァーレイネットでは計算リソース量はほぼイコールで空間の広さに準ずる。作動領域が広ければ広いほど高パフォーマンスを期待できるって具合にな。これは空間におけるファントミームの濃度は基本一定で、計算の際に発生する熱を四次元上に放出して三次元空間にはほとんど残さない特性からきている。三次元上に残る熱量は計算結果を出力する際の演算量相当のもの――人間の体温程度のものになる」

 貰ったファイルを開くと、そこにはグラフがあった。

 現場周辺の空間量に対するトラフィックの総量を折れ線で表したものだが、爆破時刻の前にそれが急激に上がっているのがわかる。線がまるで子供の落書きのように伸びて、表を突き抜けていくのを追いかけていくうちに、視界が慰霊碑の灰から空の青へ変わっていく。

「だが、三次元空間内で処理できないほどの情報が読み込まれると、ファントミームは四次元上に点在した放熱用のファントミームも集約させて対処しようとする。すると空間内のファントミームの濃度と、空間内の熱量が上がる。オーバーロードしたファントミームは超高濃度化・高熱化し、同時に周辺の情報を際限なくコピーしていくことでコピーされた膨大な情報とコピー元の物質との境界線がなくなり、物質そのものが存在を保てずに崩壊する」

 ペットボトルに限界まで入った水がある。水やペットボトルの状態を変えずさらに水を加えるために、別の時間軸にあるペットボトルを同座標に呼び出すことのできるのが、ファントミームの特性だという講釈がよぎる。だがその要領でペットボトルが増え続けると、どのペットボトルにどの時間軸の水が入っているのかがあいまいになり、最終的にペットボトルはペットボトルとそれ以外の境界があいまいになって、滲むように消える。

 ペットボトルに入っていた大量の水の行方がどうなるかは、想像に難くない。

「結果、超高温の熱波と物質の崩壊・消失が球状に発生し、爆発を起こしたファントミームの残滓は一定時間留まることで、大気に含まれる様々な情報を読み込み・再現を繰り返して極彩色の霧を生み出す」

「それが、知恵熱とゲシュタルト崩壊……」

 ああ、と煙を吐き出し、遠くを見つめる煙慈。

 その視線の先を追っていくと、湖の只中に白い球体のようなものが水平線上に浮かんでいるのが見える。

 白い球体は、靄がかった表面を、ゆっくりと回転させながらそこに存在する。まるで宇宙から俯瞰したガス惑星で、専門家によれば、ファントミームはあの球体に向かって渦を巻き、四次元のトンネルを通ってまた街の外縁に到達するために街の外へは拡散しないのだという。

 煙慈が見つめているのは、一五年前から今この瞬間にも残っている、災厄の中心点だった。

「ホエル。って言ったか」視線を動かさないまま。

「そいつがやったのは、グレイテストバンの小規模再現だ」

 グレイテストバン。

 推定死者一万人以上。この街を一度、完膚なきまでに崩壊させた爆発災害。

 爆発の直接的な原因は、未だにわかっていない。だが原理が解明されている以上は、再現できる道理はある。

 それを、あの子がやった。

 私が名前を与えたばかりに、彼女は嬉々として、もう一度街を恐怖のどん底に落としてしまう爆発を起こした。

 私のせいだ。

「……すみませんでした」口から出た謝罪は半ば反射のようで、うなだれた影の中へと落ちていく。

「私が、出過ぎた真似をしたせいで……」

「そうだな」

 心臓が跳ねる。自覚するよりも、他人に指摘されるほうが、罪悪感を強く意識する。

「だがあの場にお前がいなければ、その役目は実体の鯨寺夫人がやっていただろう」

 ポンと、丸めた肩に、無骨な手の感触が乗った。

「結果論とはいえ、お前の出過ぎた真似が、人の命を救った。そこを咎める気はねぇよ」

「でも……」

「ああそうだ、結果的に一軒家が爆発を起こして燃えた。人死にが一人も出なかったのは奇跡だし、政府も今回の事態を重く見ている。国を大混乱に貶めた大災厄が、また起こる可能性を示唆されたわけだからな」

 言い返そうとした私の言葉を遮って、煙慈は捲し立てる。

「だがそれだけだ。まだ何も終わってねぇのに愚図るな」

 頭を起こすと、呆れたように煙草の煙を慰霊碑に向かって吐き出して、慰霊碑の向こうにある球体を見据えている。

 乱暴な言い回しが、彼にとっての励ましだった。

「これからは議員の捜索と並行して、爆破を起こした犯人『鯨寺ホエル』の捜査を行う」三白眼が横目でこちらを睨むも、不思議と険はなかった。

「お前はホエルと接触した数少ない人間として捜査に協力してもらう。研修生扱いも、命の保証もできない。ハッカーに脳を焼かれようが、泣き言をほざこうが、お前に拒否権はない。覚悟はできているな?」

「そんなのっ」

 思わず声を上げて、すぐに持ち直す。

 ここに来たのは、半ば強制的だった。政府直属の人間に押しかけられて交渉事を持ち込まれて強く出られる人間はそうそういないし、なし崩しに承った私だってその一人だ。

 そんな学生に、一五年前の災厄を起こすような凶悪犯を捕まえるのに協力しろと、目の前の従兄は言っている。

 覚悟なんてもっての外だ。どの口が言っているんだと、憤慨したい思いもある。

 それでも、自分の犯した過ちの落とし前をつけなければ、恥ずかしい年頃であるのは、間違いない。

「当然です。私にできることがあるなら、なんでもします」

 奮起するために即答すると、煙慈はこちらに向き直って眉を上げた。

 そんな彼を他所に数拍考えて、なんでもと言いましたが、と自分の発言の不備を訂正した。

「変なことはしませからね」

「何考えてんだてめぇ」タバコを口元に持っていきながら、顔を逸らして。

「珍しく落ち込んでると思ったらすぐに調子戻りやがって。こっちの気にもなってみろってんだ」

 気だるげにがなった後、ため息をつく煙慈。

 若干疲れたような見慣れない態度に、どこか違和感を覚えた。

「何か、ありましたか?」

「なんもねぇよ」間髪入れずに、煙慈は否定する。

「俺がお前を心配するのはそんなにおかしいかよ。ただでさえ仮想体で死んだストレスだってあるだろうに」

「そんなわけじゃ……」

 言葉で取り繕いながら、やはり何かあったのだと確信する。

 わかった上での突き放した態度に、追及されたくない意図を感じて、ならばと質問を変えてみた。

「あの、煙慈」

「仕事中は課長と呼べ」

「今は一応プライベートのはずですけど」腑に落ちない気を取り直して。

「私が会ったホエルって子、実は成長して意志を獲得したAIプログラム、だったりしません?」

 おずおずと語った言葉を、はんっ、と煙慈は鼻で笑い飛ばした。

「なんだそりゃ、SF小説の読みすぎだろ」

「こ、ここだって、他所に比べればSFみたいな世界じゃないですかっ」

「確かにファントミームは人間の思考を読み取ることもできる。だが現状、読み取った感情や思考を正確に出力するモデルは存在しない。ファントミームの透析が正確だとしても、出力するプログラム側が正しく再現できないなら、人間と遜色ないAIプログラムは存在しえない。お前に備わったサイコトラッキングが、完璧でないようにな」

 饒舌に語る煙慈の言葉を、なんとか咀嚼して自分なりに置き換えてみる。

 つまるところ、ファントミームの再現性を疑う点はない。ただ人間にも説明がつかない体の変化があるように、ファントミームがそのままコピーしても言語化・数値化できない分野があるということだろうか。

 それが感情や思考で、それによってサイコトラッキングが完璧でないというのが煙慈の意見であるが、そこには首を傾げたくなる。サイコトラッキングを導入している身としては、システムと要望に解釈の不一致が起こったことはなく、快適に使用できているが、これはきっと煙慈が使っていないせいだとひとまず考えることにした。

「ファントミームが透析した情報全部を、人間が構築したプログラムで出力できているわけではない、と?」

「よしんばできたとして、生きてる人間のコピーを作るのがせいぜいだろ。そのコピー人間の同一性も、どう保証されるかなんてわからんしな」

 言いながら、煙慈はタバコを下ろして、人差し指で叩く。

 トントンと、調子良く灰が跳ねて石畳に落ちる。

「タバコを吸うのは個人の自由ですけど」落ちた灰を指さして、ため息と一緒に指摘する。

「いくらなんでもマナーが悪いですよ」

「マナーもクソもあるか。これを誰が見てるってんだ」

「私が見てます」

 端的に反論すると、再びはんっ、と鼻で笑い、煙慈は侵入防止用の柵に体重を預けながら公園全体を見渡す。

 昼下がりの慰霊公園はまばらな人の憩いの場として機能しており、子連れの母親や、犬を引き連れた青年がベンチでなごみながら、中央の噴水を眺めている。またある人はジョギング中で、ジャージ姿の初老の男性が、煙慈の吐き出した副流煙を気にもせずに通り過ぎて行った。

 その違和感に片眉が上がると、煙慈は通り過ぎた男性をタバコで指差して口の端を持ち上げた。

「お前しか見えてないの間違いだ。今、俺が慰霊碑の前でタバコをふかしているのを全員が認識していないとしたら? お前の認識が間違っているか、この煙草にお前にしか見えない何かがあるってことだ」

 腕を上げて、右指で挟んでいるタバコを強調すると。

「この街じゃ、自分の見えてるものが、聞こえてるものが、触れているものが、唯一絶対の真実とは限らない」

 そう言って、親指でタバコの根元をはじく。

 次の瞬間、タバコは跡形もなく消えてしまった。

「え?」

「ホエルも同じだ。お前と夫人で、別のものが見えたことも、お前らにしか見えていないことにも、必ず理由がある」

 そう言い残すと、背広を翻して煙慈は去っていく。

「今日はもう休め。明日から捜査に参加している間はElWaISを常に起動しておけよ、浜浦……」

 一旦立ち止まると、煙慈は上体を回してこちらを向いた。

「浜浦捜査官。何かあれば万代に連絡しろ」

 小さくなっていく煙慈をしばらく眺めて、そういえばとチラリと石畳を観察してみると、煙慈が落としていた灰もいつの間にか風に洗い流されてしまったかのようにその痕跡すらも消えてしまっている。

 煙慈が加えていたタバコは最初から仮想体で、私にしか煙慈がタバコを吹かす姿が見えていなかったらしい。

 してやられた。と、苛立ちが胸にこみ上げてくるものを感じるものの、すぐさまその意図に気付く。

 煙慈の言うことは間違っていない。

 鯨寺邸での電子戦を思い出す。私自身はElWaISの指示に従うだけで、捜査官と同じことができていたわけではない。事情聴取だって別の捜査官と同じことに気付いていただけで、特別なことじゃない。

 自分は未熟だ。だから爆発事故を誘発させた。それを自覚しなければ、またあの子の爆発を許すことになる。

 煙草のトリックは、この街での捜査理念を彼なりに示したものなんだろう。

 この街では、自分の感じているものが、唯一絶対の真実ではない。

 ここで一つ思い当たり、少し悩んでElWaISを起動する。

《お呼びでしょうか、渚様》という挨拶とともに、緑色のクラゲがどこからともなく現れた。

「あの子……ホエルのそばにいたクジラ、覚えてる?」

《映像記録を検索中》一秒と足らず、返答が帰ってくる。

《『ホエルのそばにいたクジラ』……該当する画像を表示します》

 クラゲが私の周りを回遊すると、その軌跡に沿って、あの日見たホエルと一緒にいるクジラの記録が画像情報として表示されていく。

「このクジラ……私はあまり見覚えのないけど、モデルとか判別できる?」

《外見的特徴は、セミクジラのものと一致します》

 ElWaISはそう言って、引っ張ってきた情報を目の前に提示する。

 セミクジラ。ヒゲクジラ類、セミクジラ目、セミクジラ科。体長一三メートルから二〇メートル。体重は六〇から一二〇キロ。黒っぽい体表に、自分がクジラのイメージとしてメジャーだと思った縦縞の模様がなく、頭部のコブのような突起があることから、たしかにホエルのクジラだと納得するも、上部から下方向へ緩やかに伸びる口に違和感を覚えてモンタージュ写真と比較する。

 よく見ると写真のほうは口周りのひげがオミットされているようで、ホエルのそばにあったそれがただのスケールダウンではなく、ぬいぐるみ化したデフォルメがなされているようにも思えた。

「なんで、クジラが爆発するんだろう」

 柵に腰を預け、資料を目で追いかけながら私は考える。

 先ほどの煙慈の教えに則るなら、これを自分が見たこと……いや『見せられた』ことにも、そんなクジラを爆弾にする意味も、きっとあるはずなのだ。

 ――名前をくれたナギサに、お礼したくて。

 ――でも、ワタシが渡せるものってこれしかないから。

 彼女は、あの爆発の何をもってお礼と言ったのだろうか。

 それとも、あのクジラ自身をお礼と言い、クジラが勝手に爆発しただけなんだろうか。

 あの爆発は、本当にあの少女の意図していたこと、なんだろうか。

「うー……んん……?」

 不確定でとりとめのない考察が、脳内で渦巻いてしばらく。

《渚様》

 サイコトラッキングで観察し、見かねたElWaISが、提案を一つ。

《セミクジラについて、カイキョウシティ内の水族館で観察できますが、案内しましょうか?》

「水族館?」

 はい、と短く肯定して。

《市営の記念アクアリウムにて、仮想体を用いた体感型映像があります。マップ座標を表示します》

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