第二章
知恵熱とゲシュタルト崩壊Ⅰ
◆
前代未聞の光景です。ご覧ください。鯨寺蓮太郎議員の自宅は跡形もなくなり、周辺の家屋は、熱の余波で一部焼失しているものもあります。幸い夫人を含めた近隣住民は留守だったためにけが人などはいませんが、事故発生から半日以上経過した今なお爆発の原因ははっきりとわかっていません。専門家の話によれば――。
顔に認識マーカーを引いたリポーターが、仮想体カメラで周辺の風景を映している。遠くでは視覚補正を担うプログラムが破綻しており、一部穴の空いた地平線が晒されているのを見て、壊れたプラネタリウムはこんな感じに映るのだろうかと考え、そもそも自分はプラネタリウムを見たことがなかったと、集中できていない自分を内省する。
病室の備え付けられた、宙に浮かぶ仮想体スクリーンが写す鯨寺邸は、非現実な背景の中に溶け込んでいた。
いや、だったというべきだろうか。
そこは家も、花壇も、門もない、まっさら消え去った土地で、溶け込むも何もない。閑静な住宅地にぽっかりと空いた更地には、残り火の情報を透析しているファントミームが蜃気楼となってゆらゆらと揺れている。
いや、まっさらというべきではないか。
そこには極彩色の霧が、代わりのように漂っているから。
「このままでいいですよ、カウンセラーさん」
映像を消そうとスツールから腰を上げようとした私を、ベッドに横たわる鯨寺夫人が止める。
「ご無理はしてませんか? 今はご自愛して、一旦外のことは忘れてもいいんですよ?」
「いいえ」夫人は寂しそうな笑顔を、穏やかに浮かべている。
「こうして見ていれば、またあの子が顔を出すんじゃないかと思いまして」
口ではそう言いつつも、伏せられた瞳には期待感が見られない。外傷も、マリオネッターによる運動野の後遺症も見られない彼女にとって、きっとの昨日の出来事は悪い夢か何かだと思っているんだけれども、彼女をカウンセリングしている私にとってあの悪夢は、現実以外の何物でもない。
極彩色と熱に巻き込まれた私は、気が付けば自室の天井を仰いでいた。仮想体が意図せず消滅したショックで、一〇分ほど意識を失っていた私の体は、秋の中頃にも関わらずバケツを被ったように汗でびっしょり濡れていて、カラカラに乾いた喉と鈍化した脳が飲み物を求める道中で、鯨原邸爆発の緊急ニュースを目にした。
爆発による仮想体の消滅。
あの時、あの場で、仮想の私は爆死していたらしい。
不思議と怒りはない。後から聞いたシャオちゃんの考えでは、爆発自体に実体の脳へ干渉する仕様はなかったのが幸いしていたという。
――運がいいね、ナギ。それもかなり。
――言うほどですか?
――あの爆破の熱と衝撃の一割でも実体の脳に届いてたら、ナギのシナプスは蒸発してたよ。比喩でもなんでもなく、文字通りね。
「お話は聞きました。爆発に巻き込まれず、こうして無事でいられたのも、あなたが駆けつけていたからだと」
「いえ、私がいたのはただの偶然で……優秀なオペレーターの指示があったからこそで、私なんて……」
私は一通り謙遜した後、彼女に一つの画像データを表示する。
私の記憶からモンタージュしたもので、所々ぼやけた印象ではあるものの、そこには一人の少女が映っていた。
小柄な体格。小さな頭に丸い大きな瞳。ボーダーシャツにニットカーディガン、プリーツスカート。傍らに岩のようなゴツゴツした突起のあるクジラ。
「私が、現場で見た仮想体の写真です。もしかしたら、私も奥さんの子供を見たかもしれなくて……どうですか?」
私が見た少女の姿に、夫人は目を凝らして観察するも、怪訝そうに眉を顰めた。
「いいえ」画像からシーツへ視線を戻して、頭を振って夫人は続けた。
「そこに写っているのは、私の見た帆選ではありません」
その答えにそうですか、と呟く。
結果自体はわかっていたので、特に落胆はなかった。しかしサイコトラッキングは私の抱いていた期待感を反映させて、もう一つの写真を夫人には非共有のまま表示する。
夫人に似て線の細く、うつむきがちで、しだれた黒い前髪が儚げな女子高生。
彼女は、入学式の看板と校門の前でまだ若い鯨寺夫妻の間で笑っている。
鯨寺ホエルと鯨寺帆選。
私が見たものと、夫人が見たものは、同じでも違うらしい。
私が出会った少女は、その言動といい、まるでこの街が孕むあいまいさの塊のような子供だった。
「ですがこの子に、私は感謝するべきでしょうね」
「感謝、ですか?」
「ええ。こうして家はなくなってしまいましたが、幸い夫の不名誉を詰る声は、少し減りましたから……」ここまで言って、夫人は口元を上品に押さえて視線を逸らした。
「……こういうことは、思っていても言うべきではありませんね」
確かに。野次馬の罵声が聞こえなくなっただけで、彼や彼の所属が犯した失態は消えたわけじゃない。失踪の主導が議員か、実行犯かは不明ですが、議員には市民の代表として、責任ある行動をとってほしいと思います。
そんなことを言えるはずもないし、カウンセラーとして言うべきでない。
「いいんですよ。先ほども言いましたが、今は立場を忘れて、ご自愛していただくのが一番ですから」
それはそうと。私は両方の写真を非表示にして、夫人に向き直った。
「家を全部焼いてしまうのは、ちょっとオイタが過ぎているとは思いますけどね。旦那さんも、帰る家がなくなるなんて思ってないでしょうし」
冗談交じりに愛想笑いを浮かべると、釣られて夫人も笑顔を返す。しかしそれも長くは続かずにまた沈み込む。
時間を遡って一昨日。彼が会長を兼任している被災者支援委員会のまとめている被災者のリストが、ネット上に流出したことが話題になった。
被災者、とりわけ行方不明のまま推定死亡者とされた者たちを慰霊するための石碑を建造するためのリストだったらしいそれは、コピーが面白半分に拡散されて、好きな人間がそのリストから死者を自由に弔うことができるという点で鑑みれば、当初の目論見は一部成功していると言っていい。
その過失に遺族が納得するかどうか、情報管理の杜撰さに対する批判、また流出した個人情報の使われ方などについては、適宜議論の余地はあるのだが、その問題を語る上で必要な鯨寺議員が失踪しているために審議は全面的に凍結されているというのが現状では、こんな劇的な展開を娯楽として傍観し、好き勝手妄想を巡らせるのを止められる人間はいない。
曰く、すべては鯨寺議員の工作で、失踪は議員のマッチポンプである。
曰く、すべては零城GCの陰謀で、失踪は企業のマッチポンプである。
SNSでは根も葉もありそうで、実情は願望でしかない憶測が飛び合い、未だに白熱した様を見せていることを、この夫人は知っているんだろうか。
「夫の件は、ごめんなさい。口止めされていたとはいえ、あなたたちに嘘をついてしまって」
議員は、失踪する前夜に自分が姿を隠すことをあらかじめ夫人に話していたらしい。
「ですが、私にも詳細はわからないのです。夫が帆選と呼んだのが、本当に私の前に現れた彼女なのかも」
「無理に話さなくても、大丈夫ですよ」
私は、シーツを掴む夫人の手に触れて、落ち着くように促した。
「うちの捜査官は、優秀ですから。きっと議員も無事に保護できます」
私と違って。
自分を卑下にする言葉を飲み込んで、精一杯の愛想笑いを浮かべる私に、夫人は怪訝そうに眉を顰めた。
ああもう、なにもかもうまくいかない。と、今の私には奥歯を噛むことしかできなかった。
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