ガール・ミーツ・フィアリング
《熱源を確認。仮想体と断定》
ElWaISが報告したその姿に、私は息を呑んだ。
そこには玄関側の壁に寄り掛かる少女の姿があった。
背丈は中学生~高校生ほど。華奢で小柄な体格の上に乗った小さな顔と大きな瞳には、仮想体を識別するマーカーが施されていない故の生物的なリアリティと人形めいた可憐さとで矛盾を醸し出している。ボーダーシャツの縦線とスカートのプリーツ、縦縞模様のニットカーディガンがなんとなくクジラを思わせるのは、彼女の周りには五・六〇センチの小さなクジラが一頭、彼女の寄り添うように回遊しているせいだろう。クジラは全身がゴツゴツとした黒い岩のような質感をしていて、自分の知るクジラのイメージである深い群青と白の色合いとは違っていて、その異質さが、それを侍らせる少女の異質さと重なって超常的な雰囲気を放っていた。
総じて、クジラと共に神秘的な少女然とした姿に、一瞬目を奪われた私は、しかしそれが仮想体であることを思い出すと頭を振って冷静になる。
――推定される全長は一三〇から一四五センチ。輪郭からして子供のようだけど、仮想体ならあまり意味はないわ。
仮想体の容姿は変えられる以上、見た目の情報は当てにならないが、それでも会議室で東宮さんが話していた容姿と重なるこの少女に、警戒しない理由はなかった。
「あなたこそ、誰? こんなところで何をしているの?」
ワタシ? と仮想体は自身を指さしてキョトンと目を丸くした後、そのまま眉を寄せて考え込むと、最後には泣き崩れている夫人を指さして答えた。
「そこの人はホエルって言ってた」
夫人は指さされたことに気付かず、悔恨のままに嗚咽を漏らし、体を震わせていた。
もう一度、シャオちゃんへコールする。通信はまだ復旧していないようだった。
「あなたは、帆選さん、なの?」
「うーん、どうだろう?」
とぼけた様子がおちょくられているような気配を感じて、思わず奥歯に力が入る。
「ふざけてるの?」
「ううん。だってワタシはホエルであってホエルじゃないかもしれないから」
ホエルであってホエルでない。
訝る私を無視して、少女は続ける。ともすればそれは自問自答のようで、他人事のような問答だった。
「ホエルじゃなくてホエルかもしれない、ワタシであって私じゃないかも。もしかしたらいっぱいいるかもしれないし、ここにひとつしかいないかもしれない。ここにいるつもりでもここにはいなくて、じつはどこにもいなかったりして」
あるいは。宙を泳ぐクジラが退屈そうに上昇し、その首をもたげるように体をくねらせた。
「ワタシは、あなたかもしれない」
クジラの目に見せかけたこぶと視線を結ばせながら、ズレた会話が頭に響く。
あってなくて、いていなくて。
プラスマイナスゼロを語り続ける意図が全く読めないのは、わざとはぐらかされた物言いをしているせいなのか、それにしては純粋さが勝るような言葉の響きで、それもまた頭痛を助長させる。
淡々と語る彼女は、自分が自分以外の何者でもないと気取っているようにも思えて、けれども言葉の端々には、確たる哲学が滲んでいようにも感じる。そんな自分の所感もまた、プラスマイナスゼロのそれであることにも気付いてはいても、彼女の本心を知りえる判断材料が足りないのも事実だった。
『ナギ? 聞こえる? 良かった、ようやく繋がったよ、クサカベ捜査官』
少女に目線を外さないまま動けないでいると、緊迫した通信が耳に飛び込んできた。
『渚ちゃん、今すぐ視覚共有と状況説明をお願い。迅速に』
続けて日下部さんの名前が通信に割り込んでくると、視覚共有を求めるポップアップが浮かび上がる。普段の柔らかな雰囲気に微かな威圧感が加わった口調に緊張を走らせ、しかしそれを目の前の少女に悟られないよう、サイコトラッキングに命じて思考を音声化して通信に飛ばす。
『現在、議員失踪の実行犯らしき女の子の仮想体と接触中。東宮捜査官の見立てとも一致しています』チラリと動く気配のない夫人を見やって。
『鯨寺夫人の実体を確認。外傷はありませんが、気が動転しているようでこの場からは動けません』
『女の子?』
通信越しに日下部さんの困惑した響きが聞こえる。少し間をおいて『小湖』と呼びかけると、シャオちゃん側の通信窓からポップなタイプ音が鳴る。
『ElWaISが熱源を確認した履歴がある。けど共有された視覚映像に、姿が確認できない……?』
『シャオちゃん、どういうことですか?』
『本当に今、そこに実行犯がいるなら……どういうわけか、それはナギにしか見えてない。視覚野がハックされてる……? 違う、特定のパスを通さないと視認できないようになってる? どういうこと……?』
思いもよらないシャオちゃんの報告に、こめかみから首筋へ玉汗が伝う。ような、気がした。仮想体は汗をかかない。
通信では、原因を特定しようとシャオちゃんが要素を検討している。エンジニアのシャオちゃんが対応策を窮していることから、私を取り巻いている現状が普通ではないことが辛うじてわかると、私は私にしか見えていない幻影を前に焦燥にも似た恐怖を抱いた。
視覚を共有しているはずの二人には見えなくて、私にだけ見えている、幻影。
それは本当に、そこにいるんだろうか。
間違っているのは、私なんだろうか。
『渚ちゃん、まずは落ち着いてちょうだい。今、最優先で守らないといけないことはなに?』
普段よりも声を張った日下部さんの声に、目が覚めたような心地で見開かれる。
今。最優先。守らないと。
視線が反射的に、うずくまる夫人へと向かれた。
『被害者の……夫人の、安全……?』
『うん、正解。えらい』お母さんを思わせる嫌味のない温和な賞賛の後で。
『ElWaISにマリオネッターの起動を要請して。すぐに塔子と黒兎も向かわせるから、渚ちゃんは夫人を誘導させたらログアウトして。いい?』
『でも容疑者が目の前に――』
『課長以外の私たちに上下関係はないけれど、今は従って。お願い』
総括オペレーターの命令を受けて、私は少女をギュッと睨みながら、思考に集中する。その思考をサイコトラッキングが拾い、マリオネッター――拘束プログラムの起動シークエンスに入った。
『運動野にオーヴァーレイして強制的に連行させるものだけど、経路の算出は自動でやってくれる。クサカベ捜査官、近隣の警察に通報は?』
『大丈夫、もう通報済みよ。警官との合流ルートをそっちに送るわね』
視界上にマップが表示され、矢印で道が示されると、それを吸収して小さなクモのアイコンが出現する。私はそれを受け取って、鯨寺夫人の首元へと貼り付ける。
うぐっ、息を詰まらせた呻きを上げて、夫人が頬を濡らしたまま不格好に立ち上がる。うわっ、と少女は壁を伝って横へ小さく飛び退く中、名前の通り操り人形じみたおぼつかない仕草で身を翻して裏口へと駆けて行くのをそのまま見逃していた。
「びっ……、くりしたぁ」
不気味に走り去る夫人の姿への感想に心中で同意し、夫人には心から謝りながら、それ淡々と呟いた少女に私は訊いた。
「あの人に、何か用があったんじゃないの?」
「あ、そういえばそうだったかも。まぁ、べつにキミでもいいんだけど」
私? 胡桃のような丸い微笑みの前に、私はログアウトを躊躇った。
夫人に用があったわけではない?
「キミは誰?」
「浜浦、渚……」
「ナ、ギ、サ」一音一音噛みしめるように、うんうんと少女は頷く。
「じゃあナギサ、ワタシは誰?」
ワタシは誰?
ひどく頓珍漢な質問だった。
誰、というのは、今見えている仮想体についてなんだろうか? もしかして、この仮想体を操作している実体のほうを指しているんだろうか。
どちらにしても、ワタシがそんなことを知る由もない。それもわからない目の前の少女に、過剰な幼さを見出せなくもない。少なくともさっきまでの問答の中でこんな子が、議員を誘拐する器量があるとは思えなかった。
『夫人の保護完了したわ。……どうしたの、渚ちゃん?』
『日下部さん。すみません、もう少しだけ待ってください。もしかしたら、犯人じゃないのかも』
所々滲みだす彼女の仕草からは敵意を感じないし、実行犯のイメージは容姿程度しか合致しない。
そうなると、どうして彼女はここにいるのかという新しい疑問が芽生えてきた。
「自分が誰なのか、わからないの?」
「ううん、わかるよ。でもね、漠然として、大きくて……とてもじゃないけど、まとめることができないの」
「大きい?」
「うん、言葉じゃ足りないくらい。だから、ワタシの知ってる人に会って、名前を教えてほしくて。名前があれば、ちょっとだけおさまりが良くなる気がするでしょ?」
「な、名前っ……?」
声が上擦る。自分は誰というのがアイデンティティの話かと思っていたら、名前の話だとは思わなかった。
現代社会で自分の名前だけがわからないなんてことが、あるんだろうか。
「それは、ごめん。私もわからないし、多分鯨寺さん……さっき走って行った人にもわからないよ」
「でも、さっきの人はワタシをホエルって言ってた……」
ここで、あっそっかぁ、と閃いたように笑顔が花開く。
「ワタシはホエルじゃないかもしれないけど、ホエルかもしれないんだから、ホエルって名前、少しの間だけもらっちゃっていいよね?」
「え? それは……」
「ダメ?」
瞳を揺らして、首を傾げる少女。仮想体のエモートにしては表現が凝りすぎている気がして、ようやく私は、彼女に感じていた無垢な神秘性の正体に気付いた。
仮想体の操作は、本来は実体側にあるオーグギアとフィンガートラッキングに音声解析による補正を加えることによって行われる。私は思考透析による操作……サイコトラッキングを導入しているせいで体感しにくいが、ヒト型を操作する場合には両手指の操作であるフィンガートラッキングを使うのが一般的だ。この時、人型仮想体はあらかじめ設定したエモートを、発声に基づく情動解析が補正することで感情表現を行うのだが、大抵はデフォルトエモートの数十パターンで構築されているために、見慣れてくると一種の『仮想体らしさ』というものが雰囲気で判別できるようになる。
仮想体と判別された彼女には、それがない。あまりにも人間的で、健やかに官能的だ。
そんな子が同情を誘う寂しげな表情しているのが、彼女の異常性を差し引いても心苦しくなるせいで、ひとまずはと彼女の提案に頷いてしまう。
「私が決められることじゃないけど、わかった。ひとまずあなたのことは、鯨寺ホエルって呼ぶ」
「やったっ」
そっと、クジラを黒色の肌を撫でると、めいいっぱいの喜びをぶつけるようにそれを抱きしめる。
されるがままのクジラの、ひび割れた岩の表面から光が脈動すると、彼女はそこに頬ずりをした。
「ホエル。くっ、じでっ、らっ、ホ、エ、ル」
柔らかそうな頬をクジラに押し付けながら、貰った名前を嬉しそうに指折り数える。
「ホエル。ホ、エル、ホエルッ。ホッ、エッ、ルッ。あはっ」
もう一度、二度三度。噛みしめるようにその名前を復唱する。今にも小躍りしそうなウキウキとした様子に、こっちも笑みがこみ上げてくる。
そんな彼女の胸の高鳴りに合わせて、クジラの表面が輝きを増していく。クジラは彼女の喜びを表すバロメーターのようだった。
『ナギッ!』
ふいに、脳裏にザザザッと不愉快な雑音が鳴り響いた。
『ナギ! な――して――! 周――ト――ックが急激に増だ――』
砂嵐のようなノイズ音に紛れてシャオちゃんの通信が聞こえ、耳を押さえる。さっきとは比べ物にならないくらい切羽詰まった口調から尋常でない状況を悟ると、ElWaISが状況を説明する。
《トラフィックが急速に増大。通信が一種のジャミング状態にあるようです》
「トラフィック?」
《空間内の通信――量が、急激に増――大している、せいで、他データが入り――り、込めない状況に、にににあります》
時折間延びする淡泊なElWaISの音声から、大体の内容を把握する。
トラフィックの急激な増大。何かが通信を妨害している。
ホエルのほうを見やれば、いつの間にかクジラから腕を離して、こちらに笑顔を向けている。
クジラから漏れる光が、暗がりの水槽に煌々と輝きを放っていた。
「何を、しているの?」
尋ねる声が、震える。
「名前をくれたナギサに、お礼したくて」
ホエルはその陽気さとは裏腹な、儚げな笑みを浮かべた。
「でも、ワタシが渡せるものってこれしかないから」
《高熱源反応を確認。爆発物の可能性を提あ――》
ElWaISの分析が終わる前に、目の前には極彩色がいっぱいに広がる。
「またね、ナギサ」
まるで水彩をバケツ一杯に貯めて無邪気にぶちまけたような淡い色彩の光を見て、ああ、なんだか見覚えのある、けれどとっても綺麗な光だと見とれる刹那、私の頭は熱を伴って、茹って、真っ白になっていく。
意識を焼き切る熱で、私は光に覚えた既視感の正体に気付く。
あの極彩色の光は、一五年前、客間のすみっこで見たものと全く同じだった。
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