幻影電子戦Ⅱ

 迎撃プログラムのドローンの体が、真っ二つに割れると、アメーバのように二つに分裂する。それをもう一度繰り返して、四つになったカメラアイの銃口が、こちらに向けられる。

 反射的に腕を上げようとして、しかし視界の後ろから細い触手が伸びているのが見えて、何事かと腰を下ろす。

 ふわりと、浮遊感を持って降り立ったそれが、影もなく私とドローンの前に立ちはだかる。

 プルプルと羽ばたく傘と、毛を思わせる触手。ヒダを纏わせた口腕が私への忠誠心を思わせるために、周りを取り囲んでいた。

 目の前に、緑色のクラゲが現れた。

 どうなっているかシャオちゃんに聞こうとして、通信が途絶えていることを思い出す。

 代わりに、機械音声による返答が頭に響いた。

《私は客観型AI搭載オーヴァーレイネット対応電子戦用インフォメーションシステムです》

「な、なんて?」

《ElWaISとお呼びください。なおこの名称はオプション及び学習過程での変更が可能です》

 緊迫したこの状況でも物腰丁寧、そして機械音声特有のズレたイントネーションが、私に以前のシャオちゃんとの会話を思い出させた。

 幻想特捜課は、その任務の特性上ハッカーの作る違法なプログラムや防衛システムに対抗しなければならない。政府が危惧と忌避している零城GCからわざわざシャオちゃんというエンジニアを出向させたのは、彼女にそういったプログラムに対する防衛手段と、ハッキングツールを開発させるためだ。

 けれど、GC社員のシャオちゃんを信用する課員は残念ながらあまり多くない。だからシャオちゃんは、自己学習型AIを搭載した電子戦専用の基礎システムをオープンソースで提供することで、システムを個人の用途に応じてAIに学習・カスタマイズできるようにしたとか。

《私は李小湖エンジニアによって製作された対電子戦汎用兵装として、命令通り事態の収拾に努めます》

「事態の収拾?」

《ユーザー様の障害となるプログラムの鎮圧のため、解析を行います》

 クラゲの触手が伸びて空間を掴む。体全体に光が走り、何かを読み取っている間もドローンは細胞分裂を繰り返して十数個に増えてこちらを取り囲んでいる。

 私は口腕に潜り込もうと体を滑らせる。

 その判断は、しかし四方八方からフラッシュが焚かれると、一歩置き去りにされた左腕の一部を焼いたことで遅かったのだと思い知らされる。

「――づっぅ!」

 凝縮された衝撃と熱に、息が詰まる。

 辛うじて口腕のカーテンに転がり込み、痛覚によって忘れていた呼吸を取り戻すまでの数秒間、私は体を縮こめたまま動けないでいた。

 仮想体に痛覚が実装されているわけではない。セキュリティソフト側が悪性のプログラムに……それを仮想体によって運用するハッカーの感覚野に、『痛み』をオーヴァーレイする機能が実装されている。悪意さえ伴えば、意識を問答無用で遮断し永遠に眠らせることも可能だと、研修で教えられたことが脳裏を過ぎる。

 視界の端で透明な口腕がフラッシュで真っ白に染まっている。バチ、バチバチッ、と爆ぜる音が、目の奥で光る火花とリズミカルにリンクしている。焦げた肉の香ばしい臭いが鼻に届くのが悪趣味極まりない。もう片方の片隅ではプログラム解析の進行状況を示すゲージバーが徐々に伸びているのも、無用な緊張感を演出させる。

 今の私は仮想体だから死ぬことはない。実際にフラッシュの高熱に体を焼かれることはないし、爆音も悪臭も、ElWaISが電子戦を行うために可聴化・可臭化されたもの。

 理性でここまで判断できるこれらが、左腕に感じた痛みによって、今ここにある命を錯覚させる。

 これ、夢? それとも現実? 現行の捜査官たちは、現場でこんなことをしているの?

 私はいま混乱している。

 何故? 自問自答すると、ようやく大きく深呼吸することに成功した。

 大丈夫、これは現実だけど仮想。目的は、このセキュリティを突破して、鯨寺夫人の安否を確認すること。

《解析完了しました》立ち上がった私の熱を吸ったように、ゲージバーが青から赤へ点滅する。

《論理迷路を解読。これよりセキュリティソフトの中枢へ侵入します》

「私はどうすればいい?」

 私の問いに、クラゲが数瞬沈黙する。

《行動指標・パターンの更新》と誰ともなくシステムメッセージを呟き口腕の丸めて胸元に寄せてくると、フリルのようなヒダがモザイクがかり、次の瞬間には拳銃へとなって私の右手に置かれた。

《中枢を可視化しますので、停止コードの送信をお願いします》

「それだけ?」

《それだけで、ユーザー様の仮想体防衛のリソースが確保されます》

 裏を返せば、このまま私が何も言いださなかったら、私はこのクラゲが中枢に侵入する間、フラッシュの雨あられに晒される羽目になったということだろうか。

「わかった。あと、ユーザー様じゃなくて渚って呼んで」

《リソース確保のため、緊急性の低いリクエストは状況終了後に受け付けます》

 どこまでも正直な音声に、思わず鼻から苦笑が漏れる。もう一度深呼吸して、手に握られた拳銃の固い感触を確かめるために握り込んで、気を引き締め直す。

 これも、ただのプログラムであることを忘れてはいけない。

 ここにいる自分も、目の前の敵も。

 フラッシュが止んだ、一瞬。

《侵入開始》

 クラゲが弾け、視界が開ける。

 目の前には玄関ドア。それを遮るドローンの群れが、空間ごとぐにゃりと歪む。

 歪みの先にある、回路図に覆われたチップへ、照準を合わせ、冷たい引き金を引き絞る。

 プログラムによって補正された射撃は、寸分違わず中枢プログラムを射抜いた。

 ように、見えた。事実、爆音と光は止み、増殖したドローンたちはピタリと空中で静止している。

 ただ実際は、パソコンでキーボードを叩いているのと何ら変わらない。私はエンターキーを人差し指で押す代わりに、銃型のインターフェースの引き金を人差し指で引いて、停止コードを送信した。ただそれだけなのに、フラッシュの熱と爆音が戦場を錯覚させていて、きっと本体は汗まみれになっているだろうと辟易する。

 ドローンが無機質なグリッドに変換されて景色と溶けていくのを尻目に、改めてこの街の偏屈さが身に染みながら、静かになった玄関ドアを通り抜けた。

 玄関に入ってすぐのホールスペースは電気がついていないせいで薄暗くしんと静まり返った空気に、感じていた危惧を大きくさせる。その危惧をElWaISが察知したのか、左下に間取り図が表示されると、リビングが吹き抜けになっているおしゃれな内装を昨日ぶりに確認する。

 私はこの先のリビングで、ソファに座って夫人のカウンセリングをした。今もいることを、願うしかない。

 再度シャオちゃんと、遅まきに日下部さんへコールすると、二人の代わりにElWaISが応答した。

《外部への通信が途絶しています。セキュリティソフトが送信システムに干渉していたと推測できます。復旧しますか?》

「復旧したらソフトはどうなるの?」

《セキュリティソフトも同様に復旧しますが、復旧過程で渚様の生体情報を登録することで、問題再発に対応します》

 私のあいまいな問いの意図を汲んで、ElWaISは分析と提案を繰り返す。それに頷きで返すと、肩のすぐ上に手のひらサイズのクラゲが現れて発光する。ついでに、暗がりを照らす明かり代わりになるようだった。今更だけどなんでクラゲなんだろうと疑問を浮かべると、《システムのデフォルトイメージです。オプション及び学習過程で変更が可能です》とすぐさま答えが返ってきた。

 リビングへと静かに踏み込む。昨日とは打って変わって、壁一面に水槽が広がっていた。奥に広がるイルカ、サメ、エンゼルフィッシュ、カクレクマノミなどなどの魚群が部屋の空間認識を混乱させるものの、シャオちゃんのエンジニアルームに施されるのと同じジオグラフィックだとすぐに気付く。真っ直ぐにこちらへ来るイルカを体を傾けて避けると《接触判定は検出されません》とElWaISの分析に突っ込まれた。

「すみませーん。鯨寺さん、いたら返事してくださーい」

 声を張り上げても、返事はない。閉め切ったカーテンの隙間と、肩口の明かりしかない暗がりに、胸の中の不安がもう一際膨らんでいくのを感じる。

 まさか、もう……?

 脳裏に議員失踪のあっけない光景がフラッシュバックしたのを止めたのは、すすり泣きのような小さな声だった。

《ソファの陰に実体を確認。生体情報をセキュリティソフトと照合――》ElWaISの報告を聞き流し、声を方向へ駆け寄る。

 そこには膝と片腕を突いて、うずくまる夫人の姿があった。

「鯨寺さん!」

 夫人のそばで腰を下ろして呼びかけると、夫人は線の細い青白い顔をこちらに向けて、しかし片手で嗚咽を押さえるのに必死だった。大丈夫ですか、と落ち着かせるために背中をさすろうと手を伸ばすが、その手は虚しく背中から胸に突き抜けて、手に人肌だけのぬくもりを与えるだけだった。

 仮想体では、実体に触ることができない。

「ごめんなさい。ごめんなさい、そばにいられなくて」

 私を無視して、夫人は悔恨を呟く。

「ごめんなさい、帆選……」

「万代さん! シャオちゃん! 聞こえてますか! 鯨寺さんが――」

 通信が復旧しているかも確認できないまま、助けを求めるために声を上げたその時。

「誰?」

 と。

 誰かが呼びかけてきた。

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