スモーキング・パラドクスⅢ
「どうして」
どうして、通信が制限されている中で、海未さんの声が聞こえているのか。
『初めて会ったときのこと、覚えてますか? フルトラッキングバッチの認証した時点で、あなたの生体プロトコルにバックドアを仕掛ける内部データを仕込んで置いたんです。既存データを複製して潜伏するので、ウィルススキャン等では検知されないんですよね……て、わわっ』事情を説明しようと舌を回す海未さんは、突如わざとらしい声を上げた。
『なんですか、この煙……あ、もしかして通信系そのものを押さえられてます? ああでも大丈夫ですね、この通信はファントミームの四次元構造を利用した遡行型通信ですので、傍受も逆探もできませんし』
何を言っているかわからない海未さん。私は本題に入る。
「海未さん、今どこにいるんですか」
『いや、流石に教えられませんよぉ。私、捕まっちゃいますし』
と、本当は言いたい所なんですが。と、海未さんは続けた。
『少し事情が変わりまして……。あの、渚さん……よろしければ、取引しませんか?』
「取引?」
『私たちは、鯨寺蓮太郎市議会議員を保護しています』
あっけなく告白する海未さんに、私は耳を疑ったがすぐに持ち直す。たしかに、彼女議員失踪の実行犯だとするなら、彼女の元に議員が匿われていてもおかしくない。
『彼の身柄を引き渡す代わりに、私たちを幻捜課で保護して欲しいんです』
「私たち? 保護って、誰から?」
『GCからですよ』
「どうして、GCからゲシュタルト・シュレッダーを盗んだの? いいや、違う。あなたは、どうしてホエルをそれに結びつけて、放置しているの?」
尽きない疑問に海未さんはしばらく黙ってから。
『今、ここで全部答えるのは、ちょっと難しいですねぇ』あははと愛想笑いを漏らして答える。
『こちらまで来てもらえますか?』
そう言うと、マップアプリから目的地への案内が届く。正確には、私が過去に探っていた検索ルートを履歴から呼び出す形で表示され、ナビゲーターである緑色の矢印が煙の先へ消えていくのを、私は眉を寄せてそれを凝視する。
履歴からルートを呼び出したということは、つまり私はこの目的地にルート検索をしているはず。それなのに自宅からこの目的地へのルートを検索した覚えはない。気になってライブラリを確認してみると、起動された音楽プレイヤーに音声が現在進行形で再生されており、どこからともなく追加されていく海未さんのボイスを再生しては消滅していく。未来から送られてきた音声ファイルを再生して、無理矢理会話を成立させているようだった。
身に覚えのない過去の道順や未来からの声が、海未さんの手ででっち上げられているという事実に、背筋が寒くなる。
この人は、その気になれば人間の過去すら改竄できる。
『監視と案内はこちらで手配します。できれば……その、渚さん本人の判断でお願いします、ね』
私は鏡に手をつき顔を落とした。おどおどした様子とは裏腹に、海未さんの要求には容赦がない。
どちらにしても通信は完全に死んでいて、この状況を外部に伝えることはできない。仮にできたとしても、この状況では海未さんが許さないだろう。いつから私を監視していたかはわからないが、海未さんはずっとこの機会を伺っていたいに違いないというのは、彼女の手際の良さからも窺える。
私は無言のまま洗面所を出て部屋に戻り、リクルートスーツを脱いで適当な服をタンスから見繕った。
ふと、壁に目を向ける。
そこには、クリーニングに出したままの白衣が、ビニールに入ったままかけられていた。
私がカウンセラーを目指しているのは、自分にはその素質があるからという、消極的な意味合いが大きい。
人よりは誰かの心を読み取ろうと観察や傾聴をしてきた自信はある。自分の認識が世間からズレていないかと、ビクビク震えながら。だから将来何で生計を立てて自立しようかと考えたときに、この観察眼を活かせる仕事で、誰かの助けになれるものが適当だと思った。
私と同じように、ままならない境遇や悩みから助けられる立派な人間になりたいと願って……なんて、お行儀のいい理由を考えこそすれ、本心を語るものじゃない。
考えてみれば私は、私の前にある選択肢の意味をいつもなくしてきた。カウンセラーになることも、この街に来ることも、今この状況だって……選択する自由を与えられている、というだけの気休めに理不尽さを感じることを、いつの間にか忘れていた。
違う。と、頭を振って、私は私の言葉を否定する。
本当は、誰かの気持ちに寄り添えるなら、選ばされることにも文句なんてなかった。だから私は、東宮さんにアナリストのほうが向いていると言われてもまんざらじゃなかった。私にとって人の感情が、私の中にある相対的な普遍性を保つためのパラメーターの役割を担えるなら、その職業は何でもよかったんだ。
誰かの心を救いたい。なんて豪語できるほど、私は高尚な人間にはなれない。
煙慈は言っていた。本音と建前は、矛盾しなければ両立する。
私本人の判断で。と、海未さんは言った。私はいったい誰としてこの要求を呑むんだろう。
幻捜課捜査官見習いとしての浜浦渚か。それとも鯨寺ホエルを助けたい浜浦渚としてか。
私は白衣をハンガーから取り出し、被さったビニールに触れる。滑らかさと白衣の柔らかさを確かめてからそれを外し、意を決してシャツの上からそれに袖を通した。
「一つ教えて。ホエルは今どこにいるの?」
『すみません。それは私にも……』
「なら探してください」食い気味に私は言う。
「できないなんて言わせませんよ。呑めないなら、謹慎が解け次第これまでのことを幻捜課に報告します」
『それ、交渉の外の話ですよね? 今は関係ないんじゃ……』
困惑とわずかな煩わしさを感じる疑問に、私は目を閉じて大きく息を吸い、大きく口から吐いて。
「勘違いしないでください」と、正面を睨み付ける。
「ホエルに繋がらないなら、あなたがGCから追われようが知ったことじゃありません。それが嫌なら別の課員とコンタクトを取ればいい。こんな回りくどい方法で私に接触しているあなたに、それができるかは別ですが」
これまでの理不尽を怒りにまかせて言い尽くすと、気圧されたのか海未さんの通信が数秒沈黙してからバツの悪そうに口を開いた。
『まぁ、たしかに……。今の頼みの綱は、渚さんしかいませんが……』
「それなら断る理由はありませんよね? よかったです。それと視覚補正もお願いしますね。私、今ネットが使えないので」
『えぇ……。渚さん、吹っ切れると性格変わるんですねぇ……?』
半ば呆れ気味に戸惑う海未さんを無視して、ノイジーに目を向ける。ノイジーは黙ったまま、頭部を俯かせていた。
「ちょっと、外に出てきます」
そう声をかけると、ノイジーは《検証中》と顔を上げる。
《未完了のプロセスを確認》
唐突な報告に、思わず腕を上げて身構える。
失念していた。煙慈なら、私が無理矢理外へ出ることを想定してノイジーに指令を出していることもあり得る。
今からやることは、私個人の意地でしかない。海未さんによって協力を阻まれていたとしても幻捜課を頼ることはできないし、幻捜課も私の方針に協力することはできないだろう。
だが私の懸念とは裏腹に、しかしノイジーは曲げていた膝の輪郭を伸ばし、音もなく床へ着地した。
《其の五。音声メッセージの再生》
頭をまっすぐこちらへ向け、私と視線を合わせるような素振りで首を微調整する。
そして、たった一言。
『信じろ』
思わず聞き逃しそうになったその四文字を最後に、煙の怪人は沈黙した。
信じろ?
何を? 煙慈を? 幻捜課を? それとも、自分を?
そんなわけない。直感なんてまやかしだと言っていたのは煙慈だ。そんな彼がそんなことを言うはずがない。
「一言二言、少ないんですよ……いつも」
不満をこぼしても黙ったままの怪人を背に、私はマンションを出た。
エレベーターに乗った私は、狭い四角箱の角に肩を預けて、ついさっき言っていた文句について考える。
ノイジーの、ではなく、私の言った文句……そう、煙慈はいつも言葉足らずだった。それなら、『直感なんてまやかしだ』という言葉も、もしかして言葉足らずの忠告なんだろうか。
だとしても煙慈は嘘をつかない。人を化かすシステムが横行するこの街において、自分の勘……つまり、事実に基づかない能動的な発想が信憑性に欠けるというのは、間違いじゃない。
直感を信じるか信じないか。あるいは信じるための何かがあるのか。
考えれば考えるほど、この街はあいまいなものが多すぎて、矛盾が煙を巻くような世界だと、痛感させられる。現に私は履歴を改竄され、未来から来る音声を聞かされ行動している。それがファントミームによるトリックだとしても、人間の知覚は簡単に騙されてしまう。
むしろこの街では、いったい何を信じればいいんだろう。その答えが出るよりも先に、エレベーターが一階へ到着してしまった。
手早くエントランスを抜けると、視覚補正完了しましたよ、と疲れた声音と共に、煙と極彩色の霧が海を割るように景色を開けさせた。
「おねぇちゃん、こっち」
視界の先では、車両侵入防止用のU字柵に腰掛けた幼女が、のんびりとした口調で私を手招きしていた。
その姿に、私は目を見開いた。
「あなた……」
「あのときはありがとう」
言葉に詰まる私に、座っていた柵から飛び降りた幼女――私が慰霊公園で助けた女の子は先んじてお礼を言う。
「えっと、たしか……あずさちゃんだったよね」駆け寄ってくるその子に、私は身を屈めて視線を合わせる。
「うん。海未おねぇちゃんに頼まれてきたの」
その台詞を皮切りに、歩道を縫ってナビゲーションが表示される。緑の矢印を追うと、すぐそこに停車したオートモービルが待ちくたびれていた。
「GCの交通システムをハックしているの……?」
『ここまでの道のりは長いでしょうからねぇ』
では、待っていますよ、と音声ファイルはここで途切れる。そのタイミングであずさちゃんは私の手の甲に触れて、ついてくることを促す。
私は、彼女らの持つ全能感に押しつぶされそうになるのを、白衣の胸ポケットを握りしめてなんとか耐えて、オートモービルへ乗り込んだ。
到着予定時刻は三〇分弱。
行き先はカイキョウシティ記念アクアリウム。私とホエルと、海未さんが出会った場所。
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