スモーキング・パラドクスⅡ


     ◆


 頭の奥に張り付いた痛みで、目が覚める。

「あれ、なんで……」

 胡乱な意識で起き上がり辺りを見渡しながら、記憶を辿る。

 煙慈と喧嘩して……、そう、たしかElWaISを使って……。

 何気なしに口元を撫でると、濡れた感触が指に伝わる。それが涙と唾液であるとわかると、息苦しさがぶり返して体が固まる。

 私は自分の存在を確かめるように、震えながら自分を抱きしめる。

 今、ここにいるのは、本当に私なんだろうか?

 いや、もはやその質問の意味は皆無に等しいのかもしれない。仮想体が、それを認知する人間をハックして、人間と同じように実在できるなら、実体と仮想体という境界線そのものが消え去っているのも同義なんだから。

 動悸が早まり、喘ぐのを抑えようと目を閉じ深呼吸する。

 大丈夫、私はまだ、大丈夫。落ち着いて、ゆっくり目を開く。

 そこで、私は部屋の違和感に気付いた。

 まず、床に転がっているものだと思っていた私の体は、ベッドに寝かされていた。服はリクルートスーツのまま布団を薄いブランケットを被されていて、身じろぎをしたのかスーツが若干よれている。きっと、誰かが私の独断を止めようと家に上がり込んだのかと思ったが、部屋には誰もいないし、侘しさを覚えるほどに静かで人の気配がない。

 鼻先に、粘ついたクセのある臭いが灯る。

 タバコの臭いだ。あの後煙慈は、実体でここに来たのだ。しかしそれにしては、と私は部屋中を見渡す。

 部屋には、煙が充満していた。スチームパンクでよく見るような、視界を遮るほどの濃い煙。それが部屋の隅々まで行き届き、部屋を隠していた。

「なに、これ……」

 私は震えながら、意を決してこめかみを叩き、ElWaISの起動を念じる。

 しかしクラゲは表示されない。

 ElWaIS、と呟くように呼びかけるも、反応がない。混乱する私への答え合わせとばかりに、目の前の煙があるはずのない気流によって激しく渦を巻いて集束する。

 現れたのは、見えない椅子に座るように膝を曲げた、煙の怪人だった。

 透明人間の紳士。というのが、端的に連想されたイメージ。

 包帯代わりに煙を巻き、パレイドリア効果によって生まれるだまし絵の輪郭を表した全身に、渋い茶色のスーツとジェントルマンハットを纏わせたそれは、流動性の高いフォルムに反してゼンマイ仕掛けのような角ばった動きで一礼した。

《実行可能なプロセスを確認》キューンと。ラジオノイズの混じった声色は、その動きと同様に硬い。

《其の一。自己紹介。初めまして、ハマウラ・ナギサ。私は、コシバ・エンジのElWaISアバター兼システムインターフェースの、ノイジー・スモーキー。略称は、ノイジーが、適切》

 ノイジー・スモーキー。

 突如現れたその怪人に、私は驚愕と困惑を隠せないでいた。

「煙慈の、ElWaIS……?」覚醒しきっていないまま、私は尋ねる。

「ここで、何してるの? この煙、あなたのせい……?」

《検証中》一旦、ノイジーの動きが止まる。

《回答に該当するプロセスを優先。其の四。ノイジー・スモーキーのスペックについて》

 そのレトロなロボットめいた挙動は、煙慈のアバターらしい学習内容にも思える。

 煙慈は人間的な振る舞いをするプログラムを嫌う傾向がある。特にオカルト方面での扱いにはあからさまに不機嫌になる。さっきのように。

《ノイジー・スモーキーは、生体プロトコルに侵入して、通信系のシステム内に、複数の仮想LANを作成。入力された情報を、仮想LANから仮想LANへと誘導し、本来のドメインへの情報の送受信を阻害――》

「ごめん、もうちょっと噛み砕いた表現してもらっていい?」

《検証中》再びノイジーの動きが止まると《先のリクエストと統合して、回答を変更》ともう一度説明する。

《現在、あなたをドメインとした情報の送受信を、全て無効化しています》

 私は部屋を……煙の充満した真っ白な空間に手を泳がせる。

 なるほどどうして、煙慈にしては強かな方法だと、嫌々感心する。

 この鬱陶しい煙は、さっき言っていた仮想LANが表出されたものだろう。この煙が視界を遮る現状では、ElWaISの他にもあらゆるアクセスが、ノイジーが言うように煙に巻かれてうやむやになってしまうんだろうと察せる。

 オーヴァーレイネットを基盤にして回るカイキョウシティでは、オフラインでの生活は推奨されていない。というよりも、視覚補正もない霧まみれの外や、センサー類にも検知されずに事故の危険性が一気に高まるという安全保障の面で、個人が故意にネットをオフラインにすることは条例で禁止されている。調べ物なんて論外だ。

 ベッドに腰掛けて頭を抱える。ElWaISにもアクセスできない以上、私がいくらスクラップノートから候補を挙げても照合ができない。このままじゃAPIの解明どころの話じゃなくなる。

「だからって、煙の臭いまで再現しなくても」

 鼻を刺すタバコの刺激臭に対する怒りを愚痴りながら、ままならないやきもきを発散して一旦落ち着く。

 煙慈の言うとおり、ホエルとの接触のためには私の存在が不可欠だ。こうして私が動かなければ、ホエルが消させることはない。そうしている間に幻捜課はGCの協力の下で海未さんの捜査を進め、逮捕される。逮捕されても、ホエルがスタンドアローンであるならそれ以上の手出しはできない。

 このままでいいんじゃないんだろうか。と一瞬浮かんだ甘い考えを、ブンブンと振り払う。

 楽観的すぎる。このまま事件が終わるまで煙怪人と一緒にいるつもりか。GC側がホエルのAPI解析に成功すれば拘束に意味はないのに。

 それに、こうしている間にも、ホエルは一人孤独の中でこの街を彷徨っていると考えると、胸の奥がキュッと締まった。

《其の二。ノイジー・スモーキーの稼働期限》

 はやる私の気も知らず、ノイジーはマイペースに概要を話してきて、できることもない私はその言葉に耳を傾けた。

《ノイジー・スモーキーのハマウラ・ナギサの生体プロトコル内での稼働期限は、残り二二時間五五分三八秒》

「丸一日このままってこと……」

 不満を漏らした後で、浮かび上がった疑念に眉が寄る。

 独断専行しようとする私を抑えるのに、一日だけ拘束するというのはどういうことだろう。

 一日だけだというなら、私はこのまま一日家で過ごし、期限を過ぎた後に飛び出せばいいだけだ。煙慈にはGCと協力して今日中にこの事件を終わらせる当てがあるんだろうか。

 それとも、一日もあれば自分が頭を冷やしておとなしくしてくれるという、安い算段なんだろうか。

《其の三。稼働期限中のハマウラ・ナギサの行動制限》

「何をしていいのかだけ教えて」

《回答を整理。ElWaIS・各種通信システム・データベースへのアクセス以外、行動制限はなし》

「捜査に関わらなければ、何してもいいってこと?」

《検証中》律儀にノイジーは黙る。ぎこちなく動く腕が、帽子の鍔をつまんだ。

《制限事項は、前述で提示した事項のみ》

 試しにシステムを起動するも、こちらがオフラインになっているためにコールすることすらできない。

 名前の横にならんだ通信不可を示す黒いアイコンを眺めて、私は倒れ込むようにベッドへ飛び込んだ。

「くそっ、くそっ……!」

 もう何度目かもわからない悪態を、無意味に繰り返す。それしかできない自分に苛立って、叫びたい気持ちを抑えこもうと枕を抱きしめて顔に押しつける。

 本当は叫びたい。ここは五階建てマンションの一室だけれど各部屋に置かれた仮想体の聴覚フィルターが騒音を全てシャットアウトしてくれるんだから、私は無力な子供のようにワンワン泣いて、喚いて、当たり散らすことだってしてもいい。どうせ何もできないんだ、日々のストレスを発散してもいいじゃないか。

 いじけた思考に辟易して、そんなくだらないことを冷静に考えている自分への嫌悪感を鎮めるために、私は枕を拳で叩いた。

「くっ……ふっ、うぅ……」

 静寂の中で、枕から漏れ出た情けない嗚咽と埃っぽい音が響く。

 何をしてるんだ、私は。

 煙慈の言うことは、全て正論だった。鯨寺ホエルに感情があろうとなかろうと、彼女はプログラムでありそのプログラムの一つは街を破壊するものだ。普段揚げ足取りをしているGCにこちらから頭を下げたとしても、この脅威は絶対に排除しなければならないなんてわかっているし、現に私はズレた言葉でしか言い返せなかった。

 それを突っぱねて、挙句酷い目にあった。自業自得だ。そのなんの成果も得られていない。あのスクラップノートには、何もなかったんだから。

 私にできることと言えば、皆やっているノンバーバル行動の解読によるプロファイリングと、それに基づいた精神ケアくらいなのに……それで失敗したばかりなのに、煙慈に呆れられるのなんて当たり前だ。

 でも、それでも……私の脳裏には、最後に見たホエルの表情が忘れられない。

 縋り付くように濡らした瞳を震わせて、私だけをまっすぐ見つめていたあの子に、私は目を背けた。依存させようとしたあの子に、私はその気にさせて拒絶した。

 最低だ。本当に、最低だ。だから私は、白衣を着ない。着たくない。それも欺瞞だ。私は何一つ、志を貫徹することなんてできやしないんだ。

 ああダメだ。心の隅で、他人事のような誰かが落胆する。ネガティブな思考がループするのをやめられない。

「ふ……ぅっ……! ぅううぅ……っ!」

 痛い。痛い? ホエルはもっと痛いよ。

 私に見捨てられて、抱えた孤独をどこかの誰かにも共感されないままデータとして処理されるだけの彼女のほうが、よっぽど痛い。

 辛い。辛い? ホエルはもっと辛いよ。

 私がわかったような素振りで近づいて、餌をぶらつかせてから取り上げるみたいな意地悪をされたホエルのほうが、はるかに辛い。

 怖い。怖い? ホエルはもっと怖いよ。

 私と違って、泣いても叫んでも吠えても笑っても叩いてもいくら騒いでも、誰にも気付かれないホエルのほうが、ずっとずっと怖い。

 うるさい、うるさいうるさいうるさい。

 どうしてそんなこと言うの? 私だって痛いよ、辛いよ、怖いよ。

 だって、私はそうやって、地獄を踏み台に生きてきたんでしょう?

 自分の息を呑む音で、ハッと目が覚める。

 いつの間にか寝ていたようで、涙で湿った枕から頭を起こす。

 時刻は夕方の四時過ぎ。一時間ほど眠っていたらしい。一縷の望みをかけて部屋を見渡すも一面煙だらけで、隅には煙の怪人が相変わらず中空で座ったまま顔の正面らしき部位をこちらに向けて黙っている。

 私は煙を払いながら起き上がって、机に置かれたスクラップノートを開く。

 私がこのノートを作り始めたのは、小学校の頃に親友と喧嘩してからだ。

 自分と他人が違うこと。障害と診断されて、個性とも言えないこの劣等感を埋めるように、私は昔テレビで見た地獄を思い出していた。

 今思えば、辛い記憶に対しての置換的忘却だったんだろう。両親を思い出せないまま周忌を迎えて哀れむ親戚たちとのギャップを埋めてくれたのは、あのグレイテストバンがもたらした恐怖の映像だった。

 私は可哀想なんかじゃない。だって、画面の向こうではもっと可哀想なことが起きて、泣いている人がいるんだから。泣いていない私なんて、こんなことで悲しみ、悩む必要なんてことなんてないんだと。

 ――しらねぇ。あっちのほうがいっぱい死んでるんだから、あっちなんじゃねぇの。

 まだ高校生になりたてだった煙慈の言葉がなければ、きっと今の私はない。客観的に見れば、あの地獄を肯定的に捉えているなんて口が裂けても言えない。人々が恐怖に陥るなかで、一人笑みを浮かべられるほど、私は図々しい人間にはなれない。

 それでも間違いなく、あの地獄は私を救ったんだ。

 そうか。と、私は思い至る。

 どうして、鯨寺ホエルがプログラムだとわかってもなお放っておけないのか。

 あれはたしかに学習型AIの積まれた反射的な感情行動で動くもので、そこに一個人としてのクオリアなんてものがあるかもわからない。

 ただホエルがあのまま消えてしまうのを、許せないだけなんだ。それは私が積み上げてきた、地獄から重ね合わせてきたこの情緒を否定してしまうことと一緒だから。彼女を助けられなければ、誰よりも私が救われないんだ。

 なんて自分勝手なんだろう。あの子を慮るような台詞を吐いていた自分が、途端に卑しく思えて……私は開いたノートを額に当てて、自嘲した頬を隠す。

 誰にも理解されない欠陥を抱えて、気遣われる煩わしさと寂しさを、私はホエルに見出していただけに過ぎない。こんな傲慢な私が、彼女の共感して、助けるとのたまうだなんて、おかしい話だ。

 普通でもなく特別でもない、ただの憐憫の的になる億劫さと憂鬱さに苛まれていた私は、それでも信頼できる従兄と、それがマシだと言える地獄があった。

 ホエルには誰もいない。誰にも彼女が見えない、わからない。虚像すら結べてはいない。私は、そんな酷いホエルを見て、自分を肯定する。ああ、私はこの子よりずっと幸せなんだと実感する。

 今までそうしてきた。これからもそうするだろう。だから助ける。幻捜課の使命でも、なんでもなく、私は彼女を助けたいから助ける。

 痛いものは痛い。辛いものは辛い。怖いものは怖い。そんな当たり前の話に、理由を求めていた自分が馬鹿らしくなって、私は靄のようにぼやけた思考を振り払うために部屋を出る。

 廊下まで続く煙を無視してまっすぐ洗面台の前に立ち、顔を洗う。ひんやりした水の感触が、思考の熱を抑えてくれる。タオルで顔を乱暴に拭って、私はまっすぐと鏡を見つめた。

 鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。鏡の中の自分は、答えを教えてくれない。だからこの行為に、答えを見出す意図はない。ただ泣きはらした自分の顔を見て、さっきの質問にはっきりと答えたかっただけだった。

 しかし答えるよりも前に、鏡に写った胸元に思いもよらないものを見つけ、手を当てた。

 鏡……正確にはその表面だが、そこには自分のコンディションを逐次報告する健康維持アプリがオーヴァーレイされている。そのためこの街の洗面台や姿見には、IoT家電の要領で自身の生体プロトコルを鏡に投影するカメラ機能がデフォルトで備わっている。故に、仮想体によって表出された虚像もまた鏡によって写されるし、それは私の瞳を通さない。

 私の胸元には、バッチがついていた。ヤシの木やイルカをあしらった、南国風のバッチ。それがよれたリクルートスーツから数ミリ離れたところで浮いている。精一杯顎を引いて見ても、私の視界と当てた指の先にバッチはない。

 私には見えないバッチ。 

「海未……さん?」 

 渦巻いた訝りを口に出すと、脳裏に声が響いた。

『あはは……バレちゃいましたかぁ』

 困惑した声音から、はにかんだ表情がありありと伝わってくるその口調は、一週間前に聞いた入鹿海未さんそのものだった。

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