スモーキング・パラドクスⅠ
◆
ゲシュタルト・シュレッダー。
本来の意図を邪推せず、言葉を額面通りに受け取るなら、それは情報の確実な廃棄を目的とした技術だったらしい。前に日下部さんが言っていたように、オーヴァーレイネット上の情報は完全な消去が難しく、サルベージによる情報の漏洩はこの社会の一課題であることは事実で、確実な情報漏洩対策を提案し実現するのは企業の行いとしては正当であると言える。
――完璧な情報崩壊を起こすために、周辺情報のコピーを繰り返すプログラムを解凍させて情報をゲシュタルト崩壊させるものだ。原理が同じな以上、結果的にグレイテストバンと似たような現象を起こすが、破壊行為を目的に作られたわけではない。
それが十日前に何者かが操る仮想体によって外部に流出した。
流出の発覚した二日後に議員は失踪し、グレイテストバンの縮小再現が発生した。監査部は技術の安全保障の名目で、しかし市民の混乱を考慮してハッカーの所在を秘密裏に調査していたらしい。
そこで目に付けたのが、ホエルに唯一出会った私。
「くそっ……」
私は自室で、ノートのページを送りながら、隅に表示された電子報告書を閉じて自虐的に悪態をついた。
監査部は私にマークすることでホエルの情報を横から盗み聞きしていた。そして私がホエル知覚化のキーパーソンになると判断し、あのカフェで私にハッキングを仕掛けようとして捕まったのだという。
あれからオフィスへと連行された監査部の女性は取り調べに対して従順な態度で応じてくれたが、それがGCのセカンドプランだろうと、蜂谷さんは考察していた。東宮さんたちを出し抜けないと見ると、彼女らはプログラム悪用による被害を引き合いにして無理矢理にでも味方に引き入れようとする策をとった。
そこは問題じゃない。監視に注意しろと言われてしなかった、私の落ち度だ。
なら、何をそんなに焦っているの?
焦る? 自問自答に疑問符が浮かぶ。
たしかに今の私は、ホエル知覚化の最後のピースを求めて、自室を漁っている。部屋をひっくり返すほどではなく、あくまで理性的に。読みかけの小説や参考書には手を付けず、小さな本棚のごく一部から引っ張り出したノートを積み上げて、一冊ずつElWaISの照合にかけている。
ホエルの起こした爆発事故は、GCにとってスキャンダルになると同時に、合法的な実践データの収集に一役買った。その結果、ゲシュタルト・シュレッダーはGC内で完成し、その安全性と確実性はかなり高い。
そう、ホエルがしたように、仮想体をいとも容易く消し去れる。
――流出したデータは、我々がアップグレードさせたプログラムで消去するという決定が下っている。
『何をしている、浜浦』
脳裏に、煙慈からの通信がオーヴァーレイするのを無視する。
そうしていると緊急のコードから部屋への侵入を承認され、振り返ってみれば精悍な顔つきにマーカーを引いた煙慈が、非難めいた眼差しと共にドアのもたれて腕を組んだ姿勢で現れていた。
苛立った気持ちを隠さないまま、私は応答する。
「捜査活動中です、邪魔しないでください」
「何の調査だ、報告しろ」
「ホエルの調査ですよ! 煙慈が命令したんでしょう!」
閉じたノートを机に叩きつけると、無感動な瞳を睨みつける。
「GCは自社のスキャンダルごと、ホエルを消そうとしています! そんなの放っておいていいんですか!」
「落ち着け」ため息混じりに、煙慈は言った。
「GCがホエルと接触するには、お前を中継するのが不可欠だ。今お前が動いたところで、街中の監視システムで捕捉されてホエルの特定を手伝うだけだ」
そう。そのせいで私は今、事実上の謹慎を受けている。
そんなことわかっています。と、叩きつけたアルバムを指でなぞった。
「だからこうして、私の記憶からホエルに繋がる手がかりを探しているんじゃないですか」
ホエルのAPIが死人にまつわる記憶を参照し、そこから恐怖の象徴としての実像を鯨側に投影するということまで把握している。そして死人を思い出せないといっても、記録を見ればその人間が死んでいるということは理解できる。ならばあの少女の姿を、私は死人かつ恐怖の対象として一度は記録を認識したことがあるということだ。
だけどそれを、自力で思い出すことはできない。
「ElWaISに、自分の脳をトレースさせるつもりか」
煙慈の仮想体は彼の苛立った様子を髪を掻き乱したモーションを再現した後の、仕切り直すような質問を、私は肯定する。
「私のElWaISに搭載したブラックボックスなら、私の忘れた恐怖の感情も見つけてくれるはずです。それとこれまで集めた夫人のSNSユーザーの記録の照合すれば、ホエルのAPIを把握することができるはずなんです。性能はシャオちゃんが保証してくれます」
「その小湖が」荒げるのを押し殺した重い口調で、煙慈は言い返した。
「やめろって言ったんだろうが。お前の脳への影響がでかいってな」
発信される脳波をファントミームによって透析し、変数を操作系に挿入するサイコトラッキングとはわけが違う。自身の記憶野そのものを長時間透析しリアルタイムで反映させるという行為は、そちらよりも記念アクアリウムでのフルトラッキングのほうが感覚としては近い。自身と記憶が透析によって混濁し、情報が受動的刺激か能動的刺激かを脳が判別できずにゲシュタルト崩壊を起こす危険性がある。
――頭の中でグレイテストバンが起こるようなもんだよ。ネット音痴のナギでも、どれがどういうことかくらいわかるでしょ?
そう端的に警告したシャオちゃんは、今まで見たことないほどに顔を曇らせてていた。
ElWaISはシャオちゃんが設計したハッキングツールだけれども、それを管理する権限は個人に委ねられている。シャオちゃんには、警告することしかできなかった。
「数分の使用なら問題ありません。ElWaISの処理能力なら、それで十分ですよ」
その警告に答えたのと同じ言葉を吐くと、煙慈は焦れったそうに乱暴なため息を吐いた。
「ElWaISは万能のツールじゃない。万が一がある以上、看過するわけにはいかない」
「優しいんですね、いつもと違って」
「はぐらかすな。無用なリスクなんざ馬鹿らしいにもほどがあるってだけの話だろうが」
「なら、どうすればいいんですか。このまま何をせずにおとなしくしていろとでも? GCがそれを待ってくれるんですか?」
煙慈は腹の底に倦怠感を鼻から吐き出して、ポケットに手を突っ込んだ。
はっきりしないその態度に、私は嫌な予感がする。
「上からの打診があった」
「何を」
「今後幻捜課は、GCと協力して事件解決に当たる」視線を逸らす煙慈。
「ホエル消去に関しては、上も肯定的だし、俺もそうだ」
さぁっ……と。心の冷える心地がした。
頭のてっぺんからつま先へ、冷たい水が素肌を伝う。そんな、頭の痺れる感覚に唇が震えた。
「なにを、言ってるん、ですか」
「何もこうもねぇよ」本当に、ことなげもなく、煙慈は言う。
「幻捜課が捕まえるべきは、制作者の疑惑のある海未であってホエルじゃない」
煙慈の言葉が、段々と遠くなっていくようだった。
そうだとしても、GCを追い詰めるのが幻捜課の仕事じゃないんですか。街を守るのも仕事だって言ったのは、てめぇだろう。
そうですか。私はあからさまに嘆息する。
最大多数の最大幸福のために、小柴煙慈幻影特捜課課長はホエルを犠牲にするということですね。ええそうですか。正しい判断じゃないんでしょうか。
「勘違いもいい加減にしろよ、馬鹿が」
突然の怒号に襟首をつかまれ、私は煙慈に目を見開く。
「あれはスタンドアローンの自律プログラムだ。学習型AIで学んだ反射的な振る舞いに惑わされるな。ましてや死人をコピーするような悪趣味な奴が作ったプログラムなんぞに……ちっとは頭を冷やせ」
「反射って……」あんまりな言葉に、喉に溜まった怒りが、一気に押し上がる。
「彼女が哲学的ゾンビだって言うんですか! クオリアの有無なんて、誰も証明できないっていうのに!」
「ああ言ってやるさ! お前の追っかけているのはただのプログラムでできたハリボテだ! ElWaISのインターフェースが人間的な返しをするのと何も変わらねぇ……そんなもんに感情移入して熱くなってんじゃねぇ!」
「ElWaISのインターフェースだって、意志があるかもしれないじゃないですか!」
「そんな屁理屈が通用すると思ってんのか!」
「屁理屈は煙慈も同じじゃないですか! 本音と建前が矛盾しなければ両立するとか格好つけておいて、いざ矛盾したらお上の言いなりだなんてみっともないと思わないんですか!」
「見栄だけで組織が務まるなら苦労しねぇんだよクソガキ! てめぇだって治安維持を優先とか言いながらホエルを擁護してる二枚舌をどうにかしやがれ!」
肩で息をしながら、私は煙慈に噛みつく。語気が上がっているの聞く限りでは煙慈も似たような様子で言い争いに参加してくれた。
許せなかった、自分でも驚くほどに。私の中に、失望と憤怒と悔恨が、ぐるぐると渦を巻いて球状になっていくのをずっと吐き続けなければ、私の脳はフルトラッキングを待たず爆発してしまいそうだった。
やがてヒートアップする状況の不毛さに、先に勘付いたのは煙慈のほうだった。
「いったいお前は、何を拘ってる? 気まぐれに街を破壊する恐れのあるモンスターを、なんだって庇うんだ?」
その指摘は、私にとってのタイムリミットだった。
私は、ホエルの感情を整理し切れていない。こうやって煙慈に反抗して、ホエルを保護する方向へチームを動かそうとする意地の、そのエネルギーの出所さえもよくわかっていない。
だから私は、心情の真芯を捉えない取り繕った言葉で、煙慈を拒絶した。
「拘ってなんか……いませんっ! それが幻捜課の仕事だから、やってるだけじゃないですか!」
癇癪気味に叫んで、私は退出ボタンをポップさせて殴りつける。煙慈の仮想体がグリッドの光へと変換され、分解されながら退出していく。
「クッソ……! 待て! 浜う――!」
最後に言いかけた言葉は聞こえないまま、煙慈は消えていく。すぐさまElWaISに緊急回線の閉鎖を命じて、机へと向き直った。
カイキョウシティへ引っ越すときに買った簡易的なデスク。そこに平積みしたノートを一冊、手に取る。中身には私の几帳面さの許す限りで灰色の紙面がびっしりと埋め尽くされており、欄外には矢印と日付で内容の補足がなされていた。
――あの惨事から五年。被災者は今。
――復興委員会発足。GCと足並み揃わずか。関係者に取材。
――原因究明、未だ捗らず。専門家は「カイキョウシティ計画は早計」。
目についた見出しを一つずつ流したあと、ページを伏せ口頭で念じる。
「参照、始めてください」
現れたクラゲが瞬時に消える。
もう一度振り返ると、さっきまで煙慈のいた場所に、私の姿をしたElWaISが立っていた。
いまだに不慣れなリクルートスーツに身を包み、洒落っ気のない顔には無感動に一文字を引いた唇と鼻と目がついている。それは毎朝鏡の前で邂逅する私そのままの姿だった。
「お名前は?」
《渚。浜浦渚》
奇妙な胸中のまま、私は目の前の私に尋ね、私は私に答える。対峙した私の声は、これまでの私の声を自動的にサンプリングしていたものらしく、既視感とむず痒さが走る。脇には夫人とSNSユーザーやホエルの記録に合わせて感情のパラメーターがウィンドウで展開され、私と私を取り囲む。
「私がスクラップノートに残した記録と、参照しているデータとの共通項を読み上げて」
私はそう言うと、私は顎を引いて指を唇で食んで黙り込む。無意識のうちに、私がやっている動作だ。
その姿を観察しているうちに、ふと違和感に気付く。仮想体であるはずの目の前の私の胸がほんのわずかに浮き沈みしているようだった。呼吸の動作でしかないその行為に、私はどうにも生気を感じて、気付くと私も唇に手を当てて考え込んでいた。
《スクラップノート、ナンバー一から三までを検証。該当するデータはありません》
さすがに古い記録は他にホエルと接触した人たちとの共通項は見当たらないらしい。災害当時の記録ならあるいはとも考えたが、図書館でコピーした被災者のインタビューにも引っかからない。指の背を啄んだまま、器用に呟く目の前の私の真横に置かれたパラメーターボックスが安心を表す値を伸ばしながら、その他の感情が上下する。
積まれたノートは十年以上前から作っていたもので、今は大してスクラップできないせいでご無沙汰だが、それでもその合計は十冊を超えている。大抵は新聞記事の切り抜きで、目についた雑誌からのものもちらほら。
その全てが、グレイテストバンに関する被災者の記録……死者を悼む人たちの、大事な記録だ。
当然その内容全てを丸暗記できるわけもなく、これを張り付けていた当時の感情なんてもってのほか。しかしその中にホエルへと通ずる何かがあるんだとするなら、私はその記憶や感情に鍵をかけて、その鍵を無くしているに過ぎない。ElWaISならそれをさらって、私に見える形で見出してくれるはずだ。
しかし。
《ナンバー四から九まで検証。該当なし》
思いもよらない進展のなさに、親指を揉む。
もし。もしも……。このノートに手がかりがないとしたら……。という嫌らしい緊張が胸の奥でとぐろを巻いているようにだった。
しばらくすると、腕を下ろして、私は私に近寄る。そして脇にあったスクラップノートの束をなぞると、束の高さを変えずにその一つを抜き出した。
魂を引きずり出したような表現だった。しかし正確には、スクラップノートの中身をデータに変換してコピーしたもので、ノートは依然として存在する。私がノートを開くと、紙を擦れる音と、新聞紙特有のインク臭が鼻を撫でる。ファントミーム……ブラックボックスはそれを再現して、私に反映させているんだろう。
待っている間、手持ち無沙汰になった私は、目の前の私と同じように、スクラップノートに手を伸ばす。
新聞紙の古めかしい臭い。薄く少しざらざらした紙の感触。ページを捲る叙情的な音。
《私はそれが好きだった。今も好きだ》
私は《耳と目を疑った》
《手に取ったはずのノートの嵩》が減っていない。
おかしい。《だって今、私はこの手でノートを取ったはずなのに》
いいや、なにも《おかしいことなんて》ない。だって私の体は仮想体で、《仮想体は実体に触れる》ことはできないはず。
《その認識は少し誤り》だ。私は記事の一つをなぞる。
日下部さんの使ったマリオネッターは《運動野に電気信号をオーヴァ》ーレイさせることで《夫人を避難させた。そして東宮さん》の《白雪》は自身が《受信する波長》を《符号化……つまり圧縮することで体感できる温度域や》可視域を《調整させ》る。
《仮想体は既に、世界を認識する人間をハックすることで世界に干渉できる域にまで達してる》
こんなかんじに。
《と、私はノートを片手に追いやって、空いた手を私に伸ばす》
《指を首にかける》
《指が首にかかる》
《その小さな喉を潰さんばかりに押し込む》
《私の喉が潰れんばかりに押し込こまれる》
《息が詰まる》
《かっ……》《ひゅっ……と》《空気が抜ける音が、喘ごうと開いた口から漏れる》《苦しい》《手を払おうと首を手に置くその仕草が、自らの首を絞めているようで滑稽だった》
《私はやめてくれとは言えない》
《私にはやめる理由がないから》
《スクラップノートに話を戻そう》《私はこのノートの中身が好きだ。だからそれに付随するノートの情報を肯定的に捉えられる》《これは私の心を救うための聖書だった》《グレイテストバンのあの日、私はあの地獄に出会ったおかげで、憂鬱と億劫な日々を置き去りにできた》《どんな出来事にも、あれに比べればマシなんだと言い続けて、笑ってきた》
《ヘラヘラ》《ヘラヘラと》
《ホエルだってそうでしょう?》
《私の目が見開かれている》
《私は目を剥いて驚愕する》
《彼女を救いたいなんて、どうしてだと思った?》《涙を浮かべて、首を振ろうと頭を揺らす》《それは否定?》《それとも逃避?》《助けて、誰か……やめて》《眼差しがドアを向く》
《私はそれをやめないことを、私がよくわかっている》
《私がそれをやめないことを、私はよくわかっている》
《本当はホエルなんてどうでもいい》《そんな自分に気付いたのが死にたいほど嫌なんでしょう?》
《SNSの人たちを嫌悪していた私は、彼らと何が違うの?》《私だってリストをダウンロードしたのに》《破棄したから問題ない?》《知っているでしょう? 脳に刻まれた情報は絶対に消えない》
《偽善者》《人殺し》
《私は可哀想なんかじゃない》《頭に熱っぽい塊が浮かんでいる》《少しでも酸素を求めて舌が伸びて垂れる》《やだ》《やだ、いやだやだやだやだ》《死にたくない》《死にたくない》
《私は私が殺すまで私は殺さない》《と、私は考えている》
《私?》
《あれ?》
《私はだれ?》
《私はどっち?》
《頭がぼうっと――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます