だれもがしってるちいさなかいじゅう


     ◆


「迷っていたのだな。私も、君も」

 アクアリウムを出て、いかつい装備で待機していた公安の部隊に鯨寺議員を預けるまで。時間にして十分も満たない中で、議員はそう口火を切った。

 迷う、ですか。と、その時の私は適当に相槌を打って、アクアリウムのロビーを抜けて、遠くで拡散しているパトランプの赤い光を眺めていた。

「心の奥底では、彼女は帆選ではないと感じていたはずだった。しかしその心に偽って、この一週間余りを過ごしてきた」

「彼女は」発作的に言いかけて、何を聞きたいんだろうかと悩んでから。

「そんなに、生前の娘さんに似ていましたか?」

「どうだろうか」自嘲気味に、議員は笑う。

「言動は、よく似ていた。自信なく振舞う様も、生き写しを見ているようだったよ。しかしそれだけだ。彼女の正体を聞いたからじゃない。一目見たときから、決定的に何かがズレている。そう確信できてしまうんだ、不思議なことにね」

 そのズレの正体を、今の私なら理解できるような気がする。

「恐怖、でしょうね。彼女たちは、災害にまつわる恐怖の記憶をパージしているそうですから」

「そうなのかもしれない。私が恐ろしいと思うのは、表出しない感情がこうも人の印象を変えてしまうのに、心のどこかで、それを認めず受け入れ、妥協してしまう自分がいることだ」

 横についている議員は肩を丸め、罪人かのように手のひらを見つめた。

「海未君に、家族にならないかと、訊いたことがある」

「正気ですか……?」衝動的に出た言葉を、しかし議員は再び自嘲して受け入れた。

「まったく同じことを、海未君にも言われたよ。彼女たちは生前の記憶と顔を持っていても、それは自分たちのものではないという自覚があるらしい。顔を変えて完全な別人として暮らす者もいるとか」

 階段付近で待機してた公安の一人が、手を振りながらこちらへ走ってくるのを見計らって、議員は一歩踏み出す。

 議員の柔らかな表情は、次の言い分に同意を求めていたことに気付いて、私は黙ってその笑みを受け止めた。

「私は彼女たちの言い分も理解し、納得を示しながら……気付けばずっとチラつく面影に、娘を重ねていた。情けない話だが……はっきり生きるということは、とても難しいものだな」

 自動運転のパトカーに揺られる私の頭では、議員の最後の言葉がリフレインしながら、素早く流れる夜の街灯が真横に閃光を伸ばしていた。

 GCの敷いた交通システムの一部には、緊急車両用のレーンが設けられている。主に医療関係や災害救助用の特殊車両が緊急時の速やかな移動または移送するために使われるが、警察でも現場へ急行する目的で申請を出すことで使用できる。この緊急車両システムの権限は警察組織が握っているためGCでも手出しできないとは言っていたが、念のためにElWaISを起動して外部のアクセスを監視してる。

 隣には、私の姿をした私が揃えた太ももの上に両手を乗せ、お行儀よく座っていた。記憶のトレースをしたときにモデルの変更を保存してしまったせいらしい。それがノイジー・スモーキーや海未さんの一部機能呼び出しの枷から放たれた今、こうして私のドッペルゲンガーとして鎮座している。

 さっきの話と、海未さんの話を統合するなら、ElWaISの私と私は別人で……しかしながらElWaISの私を、私は真の私とすることもできる。そのままならない感情は正しくて、理屈として死人が思い出せない欠陥の私よりも、私の記憶と思考形態を網羅した私のほうが、より私のディティールは高いはずだけど、私はこの不完全な私を、私としていたい生き汚さを否定できない。

 私。私。ワタシ。気付けば無感動な瞳に射抜かれ、窒息感に喉が震えると、ElWaISのアバターから背中を向けて深呼吸する。

 首を絞められた原因は、私の罪悪感にある。

 私は、流出した被災者リストをダウンロードして、それをスクラップにしようとした。

 被災者リストが、ホエルのAPIを構成していた。流出を面白がったSNSユーザーは当然、鯨寺夫人もリスト作成に関わっていたおかげで、リストの画像から今は亡き鯨寺帆選を現出するに至った。

 今思えばお笑い話だ。心の中でSNSユーザーの悪辣さを罵倒しながら、結局は同じ穴のムジナだった。

 それでも社会は、そんな私にあいまいに生きることを許している。

 誰の言葉にも耳を貸さず、機能的に誰かを愛して、求める。スペクターたちの語った意志のモデルは、その不可思議で全能的な彼女らとは裏腹なものだった。

 誰もが、張り合わせ、折り重なった矛盾や葛藤から、一つの形を見出す。人間でない彼女らが、人間であるかのように人を惑わせるのは、その一点から人間は目を逸らせないからじゃないだろうか。

 ワタシは誰?

 私がフッと笑うと、スピードを上げたパトカーのハイペースな減速によって、体が押し付けられる。しっかり停車したのを確認して、私はパトカーを降りた。

 警告表示がポップする。夜の公園へ入るる際には不審者などの注意して、見かければ通報するようにとのガイドラインを流し読みして、最後に了承を表すチェックマーカーに印をつけて放り投げる。

 海未さんがElWaISに仕込んだマップ座標は、この慰霊公園を指していた。

 迷いのない足取りで前を見据え、ジョギングコースを走る。見渡しても、そこにホエルがいないことは、なんとなくわかっていた。

 巨大な慰霊碑の前へと立ち止まり、大理石の壁を仰ぐ。

 周囲を回る侵入防止用の柵を両手を使って乗り越えて、名前の書かれていない、つるつるの表面に腕を伸ばす。

 ピンと伸びた手が慰霊碑を貫通してすり抜け、指先が固い感触で埋まる。

 石碑の加工手順を考えてみれば単純な話だった。碑に文字を掘る前から沓石に設置するのは考えにくい。本来はここに被災者リストをダウンロードして、名前や写真等を表示するようにするつもりだったんだ。

《対象のオブジェクトの可視化を解除します》

 サイコトラッキングが意図を読み、目の前に広がった、大理石特有のひび割れた文様が消える。

 安堵の息と一緒に、少し肩の荷が下りた心地で、私はその姿を見る。

 鯨寺ホエルは、柵に囲まれた中心で、膝を抱えてうずくまっていた。

 いったいこの公園で、この慰霊碑を見た人間の中で、どれだけの人間が、ホエルを見たんだろう。いや、いない。そうでなければ、こんなに胸が締め付けられるような痛々しい雰囲気を、彼女は出さないだろうから。

「こんなところにいたんだね、ホエル」

 一言声をかける。目の前の少女は、突然の呼び声に肩を跳ねさせると、おそるおそるという言葉がこれ以上ないほど似合うくらいゆっくりと、顔を上げた。

「ナ、ギ……サ?」

 信じられないものを見るような目で、噛みしめるように私の名前を呼ぶホエルに、私はゆっくりと頷いた。

「探したよ。どこにもいないんだから、まったく……」わざとらしく吐いたため息を、しかしホエルは、驚愕で見開いた瞳をじわっと潤ませた。

「ナギサ……だって、だっ……て……っ!」

「うん、ごめんね。気付いてあげられなくて」

 膝をついて、三角座りのホエルと目線を合わせる。

「今まで、誰も傷つけなかったんだね」

 ホエルはチラッと、所在なさげに彼女の周囲を漂うセミクジラを横目に、コクリと顎を引く。

「約束、したもんね。人を傷つけないで、怪獣になるって」

「違うよ」フルフルと、首を横に振ってホエルは否定する。

「わからなかったの。ワタシがきらいなもの、ナギサがきらいなもの……顔のない人たちをみんな、ぼかんってやった後……どうすればいいかわからなくて……」

 ふと、ホエルは立ち上がって湖を見つめる。

 夜の湖は、月明かりが反射して、蛍火めいた揺らめきを表している。その光源は月だけでなく、遠くで渦巻く霧の球体の齎す極彩色と合わさって、水面は万華鏡を映していた。

 ホエルは、万華鏡の先にある球体をじっと見つめていた。

「ワタシ、あれになりたいんだ」

「あれって、あの球体?」

 頷く。

「全部を飲み込むくらい大きくて、誰も近寄らない……怖くて、震えて、叫んで……」

 いつぞやのようにまとまらない思考を、ホエルは滔々と語る。

「でも、みんな私に気付かない。誰も、私じゃなくてクジラを見てるんだって、なんとなくわかるんだ」

 ホエルは私の手を取ろうとその小さな手を重ねようとする。しかし、ホエルの手はそのまますり抜ける。

 表情がクシャリと歪んで、視線が石畳に落ちた。

「ねぇ、ナギサ」震える声で、ホエルは問いかける。

「ワタシって、本当にここにいるのかな。ワタシって……本当に、ここにいても、いいのかな……? ナギサも、本当は幻じゃない……?」

 ポツポツと語られた小さな疑問が、夜の沈黙に溶けていく。

 スペクターは、相互認識によって意志を……相互認識が行われている事実そのものを意志と呼んでいる。その感覚がもし本当ならば、ホエルはいったいどうなるんだろう。この慰霊碑の中に引きこもり、誰にも認識されないまま膝を抱えて泣いている彼女に彼らの解釈を加えるのならば、その行動に意志はなくただの反射に過ぎない。

 そんな馬鹿なことがあるかと批判するも、だからこそスペクターは、ホエルの同種と認めてはいないんだろう。

 相互認識のフラクタル構造。様々な人間の記憶を張り合わせて意志を獲得したホエルは、自身の恐怖を認識してもらうために動き、私に会い、鯨寺邸を爆破して、SNSユーザーの仮想体を爆破した。本来ならそんなことをする必要はない。そんな間もなく、スペクターは消失するのだから。彼女が一万人以上の恐怖の記憶を礎に、この誰にも知られずに生きながらえてきた事実が、スペクターにとってはあり得ないんだ。

 俯くホエルの頭越しに、万華鏡の湖面が煌めく。

 本当にそうだろうか? 

 本当に彼女は、今まで誰にも知りえず生きてきたんだろうか。

 それなら私はどうしてここにいるんだろう? 忘れられるべき過去を背負うホエルを、私は私を救うためにここへ来たはずなのに……その弱々しく、小さな肩を、なんの打算もなく思い切り抱きしめてあげたいと思うのは、何故なんだろうか。

 ああ、と。懐かしい心地が、胸のうちに広がる。かさぶたを剥がして、つるつるの表面が現れたような……私の人生を変えた悟りの瞬間が、今再び蘇った。

「ホエル」

 こめかみを叩いて、ElWaISを呼び出す。分裂した私を見て、顔を上げたホエルが肩を縮めて驚く。その素直な反応にクスリと笑って、今度はこっちからホエルの手を取ろうとする。

 ElWaIS、フルトラッキング。心で唱えた呪文に反応して、ElWaISが私に重なる。薄い膜を纏う奇妙な感覚をそのままに、ホエルの手の平に私の手のひらを合わせる。

 ほのかな体温が、指を伝った。

「最初、ホエル言ってたよね。私は、あなたかもしれないって。あれ、実は当たってたのかもしれない」

「え?」不安げなホエルを安心させるために、儚げな手を両手で包む。

「私、気付いたんだ。私がホエルのことを、こんなにも大事にしたいって思うのは……私たちが正反対で、だから心の奥底で繋がっていたいからなんだって」

 人は、はっきりとは生きていけない。私がこの街のあいまいさに辟易していたのは、きっとそれが許せなかったせいだ。

 私は、両親の顔を思い出せない自分を肯定したくて、それまでの私を忘れたかったから。

 私は過去を忘れたくて、ホエルは過去を忘れられないために生まれた。

「よく、わかんない……」ホエルは、手のひらの感触に困惑するように、身じろぎをしていた。

「反対なのに、どうすれば繋がるの?」

「ううん、もう繋がってる」私は両手にホエルの手を閉じ込めたまま額に当てる。

「人間って、一度覚えた記憶は絶対に忘れないの。そしてあなたは、グレイテストバンの恐怖の記憶から生まれた……最初から、みんなの心の中にあなたはいるの。ここは……あなたの中にある恐怖から生まれたんだから」

「恐、怖……」

「ここではホエルの恐怖がいろんな形で表れてる。慰霊碑、アクアリウム……交通システムにカフェ……そして、私。その全部が、あなたの恐怖を下地に、いろんな思いを重ねて生まれてくるの」

 それは、ともすれば弔いのようだった。

 過去を重ねて、学び、振り返る。葬儀にはそういう側面もある。弔いというのは、生きている人間が前を向くために、過去を忘れる行為ではないんだ。

 過去の記憶を弔って人は育ち、街は発展する。

 恐怖は消えずオーヴァーレイして、その形を変えて残り続ける。

「あなたは、この街そのものなんだよ。あんな球体なんかよりも、ずっとずっと大きい――」

 ここで、私の言葉が途切れる。

 通信が入ってくる。

 聞こえたのは、ノイズ混じりで切迫する、シャオちゃんの声。

 その中身を理解する前に、脇腹に衝撃と爆音が走った。

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