フィアリング・オーヴァーレイ

 パトカーの窓越しで見た横切る閃光が、視界を支配する。後頭部の奥で、火花がチカチカと光る。花火に気を取られているうちに、体が石畳を二回、三回と打ち付ける感触が体中を支配して、やがて止まる。

 痛みはない。ただ私は公園の芝生に仰向けのまま、左半身が死んだように動かなくなっていた。

 横向きの世界で、彼女の姿を捉える。

 ビジネススーツにタイトスカートを着こなした長身の女性が、こちらに右腕を突き出して邪悪な笑みを浮かべている。その顔に余裕はない。脂汗を流し、髪も乱れている。その腕には、肥大化した銃身がこちらに向けられている。

 ――仮想体はダミーだった。行動制限を受けているけど十分じゃない、そっちに行く可能性がある。

 ようやく、直前に来た通信の意味を理解した。

 そして、彼女が握っているものがゲシュタルト・シュレッダーで、私はそれに撃たれて地面に伏していることを、ようやっと理解した。

 女性が……大橋さんが何かを喋っている。甲高い耳鳴りのせいで何も聞こえない。

 右腕に力を込めるも、左半身はおろか全身が鉛にでもなったかのように動く気配を見せない。それどころか、右手が芝生を掴む感覚すらあいまいで……そうしている間にも大橋さんは私に興味をなくし、慰霊碑のほうを向く。

 銃身が起き上がり、真っ直ぐ銃口を合わせる。

 耳鳴りを突き抜けて、頭に絶叫が響き渡る。

 それが、ホエルを殺されることを予感した私のものなのか、私を傷つけられたホエルの怒号なのか……はたまたホエルの逆鱗に触れた大橋さんの悲鳴なのか、判別がつかなかった。

 ただ目の前では、大橋さんは画面の外へゲシュタルト・シュレッダーを構えた瞬間、その銃型仮想体は白い光に包まれ、彼女の右腕ごと炎に包まれると、大橋さんは燃え盛る自身の腕に絶望しながらその場でクルクル踊って、私の視界から退場していった。

 反対からそれを追いかけようと、ホエルが入れ替わりで登場する。

 目を見開き、歯を食いしばって殺意を向けているホエルに、私は心中で叫ぶ。

 ダメ。ダメだよ、ホエル。

 その声が届いたかはわからない。声に出した感覚もない。それでも標的を捉えていた、濡れた獣の瞳がこちらを向いた。

「だ、め……」

 かすれた声で、ホエルに呼びかける。

 ホエルは、肩と呼吸を何度も震わせ、視界の外と私を何度も見比べて、最後に私のほうへと駆け寄ってきた。

 首を動かして、ホエルの見やっていた方角を何とか見てみると、大橋さんは黒ずんだ右手を隠しながら恐怖に歪んだ顔をこちらに見せつけていた。

「ナギサ! ナギサ、ナギサ、ナギサ……!」

 何度も私を呼ぶホエルを安心させるように、なんとか頬を持ち上げて笑ってみる。

 頭の奥が、ぼやけていく。

 ゲシュタルト・シュレッダー。それを身に受けたということは、自分の体は、プロトコルもろとも崩壊し、どこかでまた別の生命体になって生まれ変わることになるんだろう。

 これで、ホエルの仲間入りできるかも、なんて。

 心でそんな冗談を呟いていると、頬に、暖かな温度を感じる。

 それは表面をなぞるように伝って首元に行きわたると、線香花火みたいに儚く消える。

 ホエルの涙が、私の頬を叩いていた。

 私の瀕死の姿に、ホエルが悲しんでいる。

 ボーっとした頭の芯が、少しだけ冷静さを取り戻す。そうだ、ここで私が死んだら、またホエルは一人になる。そんなことをさせてはいけない。

 考えろ。残った思考リソースを、自分を助け、ホエルを助けることだけに使うんだ。

 爆発。知恵熱。ゲシュタルト崩壊。いつかの煙慈の講義が反響する。まるで井戸から声を投げかけられているかのようだった。

 そんな井戸の底で、一つ、閃く。

 周辺情報のコピーすることでゲシュタルト崩壊が現在進行形で行われている。それはコピー元とコピー先の情報が同等であるゆえに起こることだ。コピー元が様変わりすれば、外傷はともかくプロトコルの崩壊だけは防げるかもしれない。

 そんな方法を、たった一つだけ思い至った。

「ねぇ、ホエル……お願い、しても……いい?」

 泣きっぱなしのホエルがこちらの瞳を覗く。かすむ視界の中で、視覚野に直接投影されるホエルの泣き顔だけが、はっきりと見えた。

「私、の、プロト、コルに……入ってくる気は、ない……?」

 濡れた瞳が、固まる。意味は理解していなくとも、ネットで生きる生命特有の勘が、言っていることの無鉄砲さを本能的に気付いたのかもしれない。

 ファントミームの生体プロトコルは、実体の生体情報を透析して構築される。そしてそれはプログラムのオーヴァーレイによって、相互に影響を与える。生体プロトコルを変えればゲシュタルト・シュレッダーがコピーし続ける情報とは別物になるが、マリオネッターや《白雪》のように、身体の感覚や記憶……下手をすれば人格そのものに影響を及ぼす危険性がある。

 意志のあるプログラムをそのままプロトコルに加え、融和するということは、元人格の消滅を意味していた。

「私と、あなたで一つになる……」咳き込むと、口の端から何かがこぼれた。

「ホエルにその気があれば、だけどね……」

 えへへと愛想笑いをすると、ホエルの視線が落ちる。悩んでいる、というよりは混乱しているようだった。

「ワタシとナギサが、一つに?」

「うん」

「それは……ワタシとナギサ、どっちなの?」

「どっちでも……ない、よ」首を振ろうとして、顎だけが左右に動いた。

「さっきの話の続き。人間はね……思い出せない記憶でも、どんどん重ねていって……オーヴァーレイしたこの一瞬に、人格を、みつけるんだと……思う。私も、気付いたのはついさっき、なん、だけど……」

「かさ、なる……?」

「そう、重なる……。今この瞬間もね、私は、どんどん……変わり続けて、いるの……その一瞬……一瞬にある、自分を振り返って、私はいる。だから、たとえ私とホエルが一つになっても、どっちも消えない」

 記憶のオーヴァーレイ。と、私は名付ける。記憶をパージしたスペクターたちは、それによって別人になったのなら……逆説的に、どんな記憶が重なったとしても、私は私にしかならない。

 どれだけ過去を他のもので覆い隠しても、私は両親の顔も思い出せない親不孝者でしかないし、被災者は蘇らないし、ここが地獄の名残から生まれた未来都市であることは、この先ずっと……ずっとずっと揺るがない。

 それでいいんだ。

 大事なのは、それを受け入れて、きちんと弔うことなんだ。

「だから、信じて。私のこと……自分のことを」

 ホエルは、私の言葉の半分も理解していない顔で、ただ私を見つめている。

 それでも、私の頭に手を当てて頷いた。

 ElWaIS。と心で呟く。ホエルの肩越しに、私の姿が写ると、ノイズだらけのポップアップが、ダウンロードの許可を求めてきた。

 祈るように下げた、ホエルの小さな頭に手を回して、そっと胸元へ抱き寄せる。

 私は目を閉じる。

 私は目を開ける。

 気付けば、私は都市の一角にポツンと佇んでいた。カイキョウシティではない。普通のビル街。スマホを片手に人が溢れ、いたるところから雑音のモザイクに埋もれている。

 それが、一瞬で光に包まれた。

 ほんの少しのざわめきが示す方向へ首が曲がると、刹那の熱が全てを溶かす。

 グレイテストバン。ホエルに眠っていた、地獄の現地映像。手足の感覚がふやけてなくなり、いつしか体そのものを忘れて、私は意識の海を漂う。

 私は誰? と誰かが問いかける。

 私は誰? と、私が問いかける。

 私たちは、実のところ、誰でもない。

 赤ん坊の私、五歳の私、十二歳の私に、二十歳の私。一秒前の私と、一秒先の私。

 振り返って、消えていく私を弔い、その全てが今の私に重なっていく。そうしてできた私も、一秒先の私は弔う。

 弔い続けていくことで、私は私になる。

 ホエルも同じだ。

 この街が生き続ける限り、彼らはホエルを弔い続ける。

 あなたの願いは、もうとっくに叶ってるんだよ。

 それでもさびしい気持ちがあるなら、私が一緒にいる。

 私の目で、耳で、鼻で、肌で……あなたの街を見てみよう。

 なにせこの街は、あなたとその天真爛漫さを真似たみたいに、人を楽しませるものでいっぱいなんだから。

 意識が暗く閉じるなかで、目の前の口元が、そっと弧を描いた。

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