クオリア・エラーⅡ

     ◆


 憩いの場であった慰霊公園は、物悲しい雰囲気を醸し出していた。

 いや、どうだろうか。ここは依然として芝生と噴水と湖と慰霊碑、少ないけれども一般人を装った捜査官たちがいるだけで、昨日と何も変わらない。

 今、この瞬間を侘しいと感じるのは、私の心のせいかもしれない。

『浜浦、最終チェックだ』

 通信越しに、煙慈は声をかけてくるのを、噴水の端に座りながらうつむいて、耳を傾ける。

『ホエルとの接触時に、お前が直接マルウェアを仕込む。お前の相互通信は例によって途絶されることも考慮して、俺たちがマルウェアを通して仮想体のパイロットを特定しこれを拘束。その間、ホエルとのカウンセリングで時間を稼いでもらう。余裕があれば爆破プログラムの詳細や協力者の可能性を追求してもいいが、本命は時間稼ぎだ。妙な欲を出して勘付かれるなよ』

『マルウェアの感染から、パイロット特定までの時間は?』

『小湖と万代の腕次第だとしか言えない。だが万が一、ホエルが爆破を実行しようとする素振りを見せた時点で、俺たちの負けだということは覚えておけ』

 煙慈の言葉を受けて、私は公園を見渡す。

 侘しさの原因が私の心にあるとはいえ、たった五人の捜査官しかいない慰霊公園は、昨日よりも閑散としているのは間違いない。周辺に見張っているはずの公安は、ここからじゃ確認できなかった。

『仕方ないのは重々承知なんスけど、こんなあからさまな警備態勢で本当に来るんスかねぇ』

『渚ちゃんと小湖の見立て通り、ホエルが周辺の人間を知覚できないなら、問題はないはずよ』

『っていうかチャンナギ。マジで実体で接触するつもりっスか?』

 踵で、噴水の外縁を叩く。

 実体でホエルと接触することを希望したのは、私だ。

『ホエルがヒト型仮想体をどう感じているかはわかりませんが、統計的には実体で会うほうが親近感は増すというデータもありますから、念のためです』

『相手は何の拍子で爆破を実行するかわかんないような奴っスよ? やっぱ危険なんじゃ……』

『昨日も話しましたけれど、ホエルは無目的に爆破を行う愉快犯ではありません。むしろ子供のような情緒とは裏腹に、当人の目的意識は明確なんです』

 自分の名前が欲しい、自分を誰かに知ってもらいたい。

 明確な目標があるにもかかわらず、ホエルには目的に対する解決能力が乏しい。

 私には、目的地の前で右往左往する不安定な情動にピンとくるものがあった。

『彼女はきっと、自分のことをよくわかっていないんです。だから自分を決定するものや助言に依存するし、それを破壊するような真似はしません』

『それ、本当なんスか? なんか確証でも?』

『そういう経験、私にもありますから』

 この推論にたどり着いたことで、私の中でホエルに対する感情の一つに、ようやく答えが出た。

 他人と自分との差異。一般的、常識的というバイアスから断定される人物像と、内心とのギャップ。

 その煩わしさ、寂寥感を、私は知っている。

 ここまでわかってしまえば、彼女を騙すようなこの作戦に乗り気でないことも、今は自覚できていた。

 彼女は、以前の私だ。

『側方に熱源を確認。浜浦研修生』

 そんな私の迷いを見透かしたように、東宮さんの鋭い声が脳裏へと切り込んでくる。

 鼻で息を吸い、肺いっぱいに空気を溜め込んでから、ゆっくりと吐き出す。

『頑張って、渚ちゃん。バックアップは万全だから――』

 発奮させようとした日下部さんの通信が、耳障りなノイズ音に掻き消える。

 私は立ち上がって、三度目のその姿を確認した。

 ボーダーシャツとプリーツスカート。デフォルメされたセミクジラ。

 相変わらずの姿で登場したホエルは、こちらに抱き着きかねない勢いでこちらへ走り寄ってくると、腕を前にして駄々をこねる要領で頬を膨らませた。

「ナギサ、また他の人とお話してる」

「ごめん。仕事で連絡取らないといけなくて」

「ふーん……」

 笑って誤魔化しながら通信を切断すると、ホエルは含みのある呟きで眉を寄せる。しかし次の瞬間には特に気にした様子もなく眉間のしわを解いた。

「ホエルは大丈夫だった? 急に会う約束しちゃったけど、予定とかなかった?」

「うん、大丈夫だよ」ホエルは体を揺らしながら、さっきの不機嫌さを遠くに置いてきたように頬を持ち上げる。

「ナギサが来てくれたから」

「そっか。よかった」

 チラッと、横目でベンチの方向を見やる。

 パンツスタイルの私服で伏し目がちに電子書籍を読む演技をした東宮さんと、偶然を装って目を合わせると、私はElWaISにデータを呼び出しを命じる。

「今日はね、実はホエルにプレゼントがあるの」

「プレゼント?」

 首を傾げながらも、期待感を隠し切れない浮ついた声を上げる。

 呼び出したクラゲが運んできたのは、セミクジラの立体データ。

 手のひらに乗せるように配置すると座り込んで、ホエルに視線を合わせながらそれを差し出した。

「昨日会ったアクアリウムのお土産屋さんに、これのぬいぐるみがあったんだ。ホエルにあげたくて、知り合いにデータ化してもらったの」

 実物よりも丸々としていて、口ひげもオミットされたピンク色の人形は、私が鯨寺夫人へのお土産として買っていたものを、シャオちゃんに再現してもらったものだ。

 ホエルは、ふわふわした質感のそれを、目を丸くして見つめている。

「……別なのが、よかったかな?」

 問いかけながら、心中の緊張と罪悪感が悟られないように努める。

 このぬいぐるみの仮想体には、ホエルのパイロットにアクセスするためのマルウェアが仕込まれている。

 それを知ってか知らずか、ホエルはぬいぐるみを見下ろしたまま固まり、代わりにセミクジラが鼻先を押しつけてその質感を確かめている。

 クジラがデータをスキャンしていようと、シャオちゃんの偽装は完璧だ。

 やがて、クジラが離れていくのと入れ替わりで、戸惑いながらホエルの手がぬいぐるみへと伸びた。

「これ、私に?」

「うん。クジラ、好きかなって思って」

「うんっ」

 手のひらにちょうど収まる小ぶりなぬいぐるみを顔の前まで持っていって、ホエルは声を弾ませる。彼女の喜びに合わせて、クジラのひび割れた表面が発光するも、ホエルはハッとなって手で制すると、クジラは首を竦めて落ち着いた。

「あ、アリガトウ。だよ、ね? アリガトウ。あ、りがとう……?」

 右手をクジラに向けたまま、左手でぬいぐるみを胸に抱え、しどろもどろになりながらも感謝の言葉を並べる。

 その懸命な姿に、阿漕なことをしている自分に、朗らかな喜びとくすんだ嫌悪感が、沸き上がる。

「ホエルは、クジラのどんなところが好き?」

「うんとね」貰ったぬいぐるみを観察しながら、ホエルは答える。

「おっきなところ」

「うん」

「おっきいから、何でも飲み込んじゃいそうなところ。それは、すごい怖いことだから……なの、かな?」

「へぇ……。やっぱり、ホエルは怪獣が好きなんだ?」

「そうなのかな?」顎に指を当てながら、ホエルはにっこりと笑った。

「よくわかんないけど、ナギサが言うならそうなのかも」

 怪獣になりたい。その目的意識は、結果的には私が誘導したものではあるが、ホエルにはそれを疑わない危うさがあるようにも思える。

 アイデンティティの消失からの、主体性の喪失。

 再び、横目で東宮さんを確認する。今頃、ぬいぐるみに仕込まれたマルウェアを通して日下部さんとシャオちゃんがパイロットの特定を行っているはずだが、ホエルに悟られないよう対策しているのか、まだ確保完了のサインは出てきていない。

 私にできることは、この無垢な少女然とした存在を騙して、会話を続けることだと、卑下にする自分が腹立たしい。そうやって、自己嫌悪へ逃げようとしているのが明白だから。

「昨日会ったアクアリウムなんだけど、あそこだともっと大きいクジラのシミュレーションモデルがあるんだよ」

「そうなの? ナギサ、それ見たの? いいなぁ……」

「すっごい迫力だったし、正面から見たら食べられるかと思っちゃった。ホエルも気に入るんじゃないかなぁ」

 そういえば。と話に食いついたホエルに対して、やや強引に話題を転換する。

 ここからはカウンセラーとしての対話ではなく、捜査官としての聴取だ。

「昨日聞きそびれちゃったんだけど、どうしてアクアリウムに私がいるってわかったのか、もうちょっと詳しく聞いてもいいかな?」

 ホエルはその質問に、うーんと唸りながら噴水の端に腰掛けた。

「うまく言えないんだけど……ワタシとナギサって、繋がってるんだよ。ワタシ、繋がっている人以外のことはなんもわかんなくて」

「それは、鯨寺さんも?」

「あの時は、ワタシが誰なのか教えてほしくて」ホエルが空を仰ぐと、瞳に青を写した。

「でも、心当たりが何もなくて……その時にね、おじさんの顔を見つけたんだ」

「おじさんって、鯨寺議員のこと?」

「うん。顔のない人たちがみんな言ってたから、有名な人なんじゃないかって」

 顔のない人たち。

 聞きなれない言葉が浮かび上がったことに訝る私を置いて、ホエルは続ける。

「有名な人で、もしもワタシが見えている人なら、もしかしたらワタシのこと知ってるのかもしれないと思ったんだけど」

 ホエルがポツポツと話す内容に、私はいくつかの確信と一つの疑問が芽生える。

 やはり、ホエルにとって私と鯨寺さんとの間には何かしらの共通点があるということ。ホエルはその共通点によって私や鯨寺夫人の前に現れることができるということ。

 しかし、ホエルがこうして会うことのできるのは二人だけなのは何故だろう。

「顔のない人たちって?」

 先の疑問をぶつけると、ホエルの表情に陰りが差した。

「言いたくないなら、大丈夫だよ?」

「ううん、あまりよく知らないの。あの人たち、きらいだから」

 地につかない足を揺らして、ホエルは視線を落として毒づく。

 出会ってから今まで一時間も満たない彼女に対して、珍しいという言葉を使うのは不適切な気がするが、私が見てきたなかで初めて、ホエルはあからさまな嫌悪感を見せた。

「ワタシの話、全然聞いてくれないんだよ? インボウがーとか、逃げるためのコウサクだーとか、みんな怒ってばっかりで。カイジュウのことも話したけど、ナギサみたいに本気で聞いてくれないの。こんなに悩んでるのに、ひどいと思わない?」

「そうだね。真剣に話しているのに、真面目に取り合ってもらえないと嫌になっちゃうよね」

「そう! ナギサもそう思うよね! それにその人たち、ナギサがダメだって言ってたこと平気で言うんだから!」

「私が、ダメ……?」

「クジデラさんのお家を爆破したことを話したら、今度はジーシー? っていうところも爆破しろとか、できないならワタシはニセモノだって言って……」

 ホエルの口調が、段々と沈んでいく。

 私はどこか噛み合わない気持ちを出さないように顔を引き締める。

 始めは、顔のない人たちというのがホエルに爆破を命じているような人間……いうなれば真犯人じゃないかと考えていたが、ホエルの様子だと違うようだった。

 陰謀。逃走のための工作。

 過激なくせに無責任な言葉が、頭の奥で何かに引っ掛かる。

 そう、どこかでこれと似たようなことを見聞きした覚えがあったと思い至ると、サイコトラッキングがホエルを捉える視界の端で、ウェブページを閲覧記録が表示させた。

 過去に私が見た、匿名性SNSの投稿の一部。

 そこで描かれる、誇大妄想と破滅願望による生産性のない暇つぶしのディベートに、目を見開いた。

 曰く、すべては鯨寺議員の工作で、失踪は議員のマッチポンプである。

 曰く、すべては零城GCの陰謀で、失踪は企業のマッチポンプである。

「ホエル、もしかしてだけど」

 ページを閉じて、私はホエルに尋ねる。

 SNSの不毛な言い争いの現状を、通信回線をジャミングされた今の私は確認することができない。

 だがこれをホエルが見て、意見を求めることができたんだとしたら?

 今までの前提が、端から崩れる気配がした。

「今日、私とここで話すこと、その顔のない人たちにも話した?」

 隠し切れない緊迫した声音に不穏さを感じたのか。

 ホエルが、おずおずと頷いた時だった。

《外部から攻性プログラムを確認》

 ElWaISの警告が、予兆もなく脳内へ届く。

 直後、背後から火花を打ち鳴らす弾けた爆音が、公園に響いた。

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