表裏背反Ⅰ
◆
「そう、笑ってたんですよ! 信じられますか、シャオちゃん?」
狭いエンジニアルームに、怒れる愚痴が響く。
私のものだ。
愚痴を向けたのは、私が腰を下ろすソファの前方、ゲーミングチェアの背を向けているシャオちゃんだ。
シャオちゃんはこのエンジニアルームを仕切るエンジニアで、フロアの一室であるエンジニアルームは、六畳間ほどの息苦しい空間なのをスクリーンでサバンナのジオグラフィックを壁に投射しているおかげで、なんとか開放感を維持している。もともと薄暗く陰気な場所だったのをカウンセラーとして改善してほしいと頼んだ成果だった。
そんな彼女は「うーん?」と肯定とも相槌とも捉えづらい声を上げて、ゲーミングチェアを回して体を向ける。ジャージの上に男物のサマージャケットを羽織るその姿は、公私を錯綜させた若手のビジネスマンのような風貌で、正直十六歳の彼女の細く可愛らしい顔立ちと似合っていないのだが、彼女なりのこだわりがあるらしく、私は部屋に来るたびずっとこのファッションを見続けている。
「ごめん、ナギ。誰が笑ってるって?」
眼前を覆うバイザー型のオーグギアを装着したまま操作を続けるシャオちゃんが聞いてくると、医療従事者のアイコン程度の価値しかない白衣の袖をフルフルと戦慄かせながら熱弁した。
「奥さんですよ! 被害者の! 私が聴取内容をメモしてるのを見て『あら、紙とボールペンでメモを書くなんて珍しいですね』って!」
「別に、悪気があったようには聞こえないんだけど」
「その後なんて言ったと思います? 『わざわざ持ち歩くの、不便でしょう?』ですって! まるで私が遅れてる人間とでも言いたげなニュアンスで……!」
「それは事実でしょ。
手玉を取るような呆れた口調を、内心むっとした心持ちで受け入れる。その感情をサイコトラッキングが反応したのか、視界の端から検索機能が立ち上がり、リラクゼーション商品の案内を表示したのが私に止めを刺して、最終的にはため息で敗北を現した。
「そんなに気に入らないなら、アンタのプロトコルにメモ帳機能でも追加しようか? 今の精度でも、頭に浮かべた言葉くらいなら正確に文字化してくれると思うけど?」
「いや、いいです。手を動かして情報入力しないと頭の整理ができませんし、なによりペンを紙に走らせる感覚が好きですから」
「感覚、ねぇ」含みのある呟きの後、背もたれに頭を預けながら続ける。
「まぁ確かに、筆記型のインターフェースを導入したライティングアプリだと、本物と間違えないように書き心地をわざと変えてるって話もあるからねぇ」
「再現性は問題ないんですよね? どうして実体と
「一部じゃまだ電子書類化されてない部署もあるから、本物との区別なくしちゃうと、目の前にあるのが紙なのか仮想体なのか、わかんなくなっちゃうんだって」
そういうものかと、私はシャオちゃんの言葉にうなずく。
本物と偽物。実体と仮想体。
言われてみれば、この街はそういうものの境界があいまいに思える。
「というかさ」オーグギアを解いて、シャオちゃんの気怠げな瞳をこちらに覗かせてくる。
「わざわざ被害者のカウンセリングに行ってたの? よくわかんないけど、カウンセラーってそこまでするの?」
「いや、命令されたわけじゃなくて。まぁ、暇だったので」
「まさか、無許可で奥さんの家に行ってたの? まぁた『お
「
「ナギはともかく、アタシはしゃーないじゃん? GCから出向してる、外部の人間なわけだし」
「しょうがなくありません。私たちの優先事項は、この街で起こる『特殊犯罪』の早期解決なわけですから、シャオちゃんの所属なんて関係ないじゃないですか」
「それも建前じゃない? 本当は幅を利かせてるGCの揚げ足取りが本命なんだし」
「建前だとしても、警察組織として当然の義務をおろそかにするわけにはいきません」
メモの書き心地は区別させるのに、なぜそこだけ区別できないのかと憤慨していると、ポーンという通知音と共に、通信のマークが視界の端にポップアップしてきた。
『その通りよ、渚ちゃん。でも、あなたに無理をさせたくないっていう課長の気持ちも考えてちょうだい?』
リアルタイムの音声データが、仮想体を通して私の聴覚野に『オーヴァーレイ』されることで聞こえるのは、柔和で穏やかな女性の声。総括オペレーターの
この声もまた、厳密には生の肉声ではないが、私自身これまで気に留めたこともないし、きっとすぐに忘れてしまうだろう。情報化された社会ではそういったものの境目を、知らない間にゆっくりと妥協して、住み心地良くしていく傾向にあるのは間違いない。
ともすれば、いずれは全ての事柄が個々の脳で完結する、夢の話になってしまうのかも……なんてことを、考えてしまう。
「日下部さん?」
盗み聞きを咎めるような声音で返すと、日下部さんは『あらあら、ごめんなさい』と朗らかにトーンをおさえた。
『そろそろ定例会議の時間だから、渚ちゃんと
「んえ? アタシも?」
突如耳朶を打った穏やかな通信音声に声を上げたのは、シャオちゃんだった。
『ほら、カメラの映像解析を頼んでたでしょう? それの報告が欲しいから』ここで一旦区切ると。
『今、会議室に来いって。よろしくねぇ』
終始のんびりとしたままの通信が終わる。私はやや辟易した気分になりながら、今度は転送プログラムを起動を念じて、肩の力を抜く。チラッとシャオちゃんのほうを見てみると、めんどくさ、とぼやきながらオーグギアを戻していた。
『今』というのは、言葉通りの意味だ。これからエンジニアルームを出て、十数メートル歩いて会議室のドアを開いて来いという意味ではなく、仮想体を用いて直接転送して来いという意味。
バイザー型のオーグギアが展開され、視界を覆う。『指定ポイントへ転送します。よろしいですか?』という音声案内に頷きで返して瞼を閉じると、ソファの柔らかい感触がフッと消え、浮遊感に包まれる。
しばらくして、足元に床を踏む感覚が戻るのを確認して目を開くと、丸形のテーブルとその中央に浮遊するスクリーン、そしてそれを取り囲む四人の捜査官の姿とともに、会議室の風景が広がっていた。
微かに残る煙草の臭い。固めの感触を背中に残す会議室の椅子。真横のいる人の体温の気配。
エンジニアルームには存在しない感覚の数々に、慣れない気分のまま気配のするほうへ首を振ると、そこにはピチピチの真っ赤なスーツを全身に纏った仮面の男が座っているのを見て、うひっ、と変な声を上げてしまう。
「小湖」スクリーン越しのスーツの男性……煙慈が、三白眼とドスをきかせてレッドスーツ男をたしなめる。
「仮想体の設定を弄るな。デフォルトのままでこい」
煙慈の叱責に対して、ちぇーと鳴き声のような舌打ちで答えたスーツ男は、一瞬ログアウトするとすぐさまシャオちゃんの姿で転送されてくる。視線だけで抗議していると、シャオちゃんはヒト型仮想体特有の識別マーカーを浮かべた顔でクヒヒと笑う。
識別、というのは個体ではなく、実体かそうではないか、という区分を指している。
「全員集まったな」
煙慈のその一言で、スクリーンから映像が一つ展開される。
街の一角にある道路沿いのカフェ。そのすぐ近くに、交通巡回システムであるオートモービルの一台が路肩に止めてある。
後部座席から仕立てのいいスーツを着こなした壮年の男性が、カフェへと入っていく。白髪を丁寧に撫でつけた、気品のある面持ちだった。
数分後、男性がカフェから片手にコーヒーを携えて出てくる。その表情は機嫌良さそうであるが、額や眉間には疲れを示すしわが寄っているのが見える。
男性がふと、横切る通行人に気を遣って立ちすくんだ次の瞬間。
男性は、風に吹かれたかのように、ふっ、と。消えてしまった。
身近な例えをするなら、動画のカット編集。何の予兆も、余韻もなく、まるで最初からそこにいなかったかのような急展開は、何度見ても驚きを隠せない。
カメラはそのまま、ポツンと取り残されたオートモービルとカフェと、落ち着いた人のさざ波めいた流れを映す。
手放されたコーヒーが作る、石畳のシミだけが、彼が唯一存在しえたであろう証明だった。
そんな情緒を理解しないカメラは、数拍おいて車を出た秘書の男性が慌てふためく姿と、煩わしそうに通り過ぎる通行人たちを淡々と見つめている。
人が一人、突然消えても、この街は平常運転だった。
たとえそれが、この街の運営する市議会議員の一人だったとしても、仮想と現実の境界があいまいなこの街では、自分が感じえないものは存在しえないのだ。
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