忘るるアクアリウムⅡ

 アクアリウムの中身は、暗がりを基調としたシアタールームのような雰囲気を醸し出している。外で鳴っていた南国風の音楽は壁に阻まれてこもる演出が細かいと感心していると、上部から光条が真っ直ぐ差し込み始めた。

 見上げてみると、天井にはまだら模様の光がゆらゆらと揺れている。それが水面を照らす光を、水中から眺めている光の演出した照明機能だと気付くと、今度はくぐもった波の音が耳を捉える。

 視線を室内に戻すと、漂う気泡と共に入鹿さんが手のひらで行く道を指していた。

「カイキョウシティ記念アクアリウムへようこそ。えっと……」

「渚です。浜浦、渚」

「渚さん、こちらへどうぞ」

 事務的な言い回しが終わるよりも先に、入鹿さんは床を蹴って飛び上がり、慣性のまま先の通路へと飛び込んでいく。無重力的な挙動は、仮想体ならではの動きだった。

「渚さんは……えっと、セミクジラの由来は、ご存じですか?」

 薄暗い海底トンネルをイメージした広い通路を進みながら、入鹿さんはおずおずと問いかけてきた。

 いえ、と答えると、こちらを振り返って。

「セミクジラには背びれがないんですよ。それでいてずんぐりした可愛くて丸い見た目をしているので、海面から綺麗な曲線の描く背中が見られるんです。だから『背』が『美』しいと書いて、『背美鯨』と呼ばれたのが由来なんです」

 感心してる間にも入鹿さんは後ろへ進みながら、こちらへ笑顔を向けて器用に話しかけてくる。時たま仮想体のマーカーを点けたサポートスタッフも見かけ、目で追っていると何人かはこちらに微笑み返してきた。

「入鹿さんや、ここのスタッフのみなさんは……」

「海未でいいですよ、私も名前で呼んでますから」ここで、ハッと慌てて口元を押さえる海未さん。

「あ、あああのっ、ごめんなさい! つい馴れ馴れしくしてしまって」

「そ、そんなに気にしなくても……。それで、スタッフのみなさんは、海未さん含めてみんな仮想体なんですか?」

「は、はい。ここには飼育員も必要ありませんし、清掃はAIロボットが自動でやってくれますから。警備員さん以外の実体の従業員はほとんどいませんね」

 通路を抜け、円形のラウンジへと出る。アクリルの透明な壁が現実での壁を表しており、その境界を突き抜けて、アザラシやペンギンなどの可愛らしい生物が腕を大きく広げて泳いでいる。

 足元から鳴き声がして見下ろしてみると、一匹のペンギンが餌をねだろうと羽を揺らして泣いているのを、和やかな気持ちで見つめる。モデルが貫通して違和感を出さないようにする調整も、海未さんのようなシミュレーションモデルデザイナーによって設計されたものであるはずなのに、まるで現実にこの愛らしさを振舞っているかのような確かな存在感に三度驚く。

 無人の……いや、無生物のアクアリウム。

 生気にかけるそのフレーズは、この場所を的確に表す言葉ではあれど似つかわしくはなかった。

 ふと、意地の悪さが顔を出した私は、ElWaISを起動し、腰を下ろして目の前のペンギンにフォーカスを当てさせる。

 現れたクラゲは《仮想体と断定。こちらへの悪性プログラムは検出されません》と淡泊に伝える。

 精巧に作られた仮想体であっても、ElWaISにはその是非が判断できる。煙慈が言ってのはこういうことなんだと、納得した。

「渚さん? どうかしましたか?」

「いいえ」立ち上がって、水中に浮く海未さんを見上げる。

「可愛いペンギンだと思って。本物みたいで、人気がないなんて信じられないくらいです」

「あ、はは……。娯楽施設としてはあまり立地がよくないですからね、ここ。市営じゃなかったらとっくに潰れてますよ」

 まぁ、おかげで趣味が通しやすいんですけどね。と苦笑する海未さん。

 ラウンジを抜けると、高い天井のスペースがあった。入口の『世界初? クジラとのふれあいコーナー』という設計者に似て自信のないポップアップが、ここが目的の場所だと教えてくれた。

「こちら、クジラとリアルなふれあいを楽しめるシミュレーションモデルになっています」

「ふれあい?」

「はい」と、頷いて。

「仮想体のフルトラッキングを使って、クジラを直で触っているような体験ができるように設計したんです」

 海未さんはテキパキ指を動かしながらコンソールを呼び出してシミュレーションを起動する。

 しばらくすると青い光を纏いながら、グリッドの巨体が解像度をあげて生成されていく。

 天井を覆い隠し、一帯に影が差し込み始めると、それは後光を背負いながら雄大に泳ぐ様を見せつけた。

 黒を基調とした丸いフォルムは滑らかな流線をかたどり、ゆっくりときりもみ回転して魅せられる背中には、海未さんが語った通りの確かな美麗さと力強さを感じる。

「こちらをお使いください」

 海未さんは自分に着けているバッジと似た意匠のものを差し出してくる。硬質なバッジの感触が指に伝わり、アクセス許可を承認すると、バッジはひとりでに宙を浮いて私の胸元に張り付いた。

 不思議な感覚が、全身を覆った。

 さっきまでの水の撫でる清涼感とはまた違う、薄い膜に閉じ込められたようなわずかな圧迫感。何かを纏っている感覚はあれど、視界には何も映らない奇妙な感覚。両手を上げて、腰を回して体全体を確認しても変わったところは見受けられず、違和感だけがずっと残った気持ちの良くない感覚だった。

「な、なんですか、これ?」

 苦言混じりの問いに答えられるよりも先に、水のうねる衝撃に頭を押されると、セミクジラの巨体が、こちらと同じ地上スレスレの高度まで下りてきた。

 コブのある厳つい顔を真正面を捉えて、思わず、息を呑んで固まる。

 セミクジラは、世界一やさしい海洋生物とも言われているほど温厚な生物で――。遠くの解説が、虚しく耳から耳へと通り過ぎる。

 セミクジラの全長は一三メートルから二〇メートル。人間の平均身長のざっと十倍で、横幅も大きい。施設の関係で多少スケールダウンしているとはいえ、自分の身長をゆうに超える怪獣が目の前を占領する威圧感に体が竦む。口から漏れ出すひげが異形さを強め、ああホエルのクジラはまだ可愛くされていたほうなんだと新たな気付きを気休めに得る。

 そんなパニックした脳内を知らずか、ゆっくりと、こちらへ、セミクジラは近づいて来る。

 未知への恐怖心から、目をきつく閉じる。

 しかしいつまでたっても妄想した感覚や光景がないことに、安堵と不安をごちゃまぜにして目を開けると、目の前には黒い体表と弓なりの尾びれだけがあった。

 恨みがましく海未さんを睨むが、しかし海未さんは変わらない笑顔で、差し出された体表に手で指した。

 どうぞ触ってください、という意味だと解釈して、私は恐る恐る手を伸ばした。

 海にちなんで、ビーチボールのようだというのが、最初の印象。海生哺乳類故のうろこのない表面はしっとりすべすべしていて、水中にいる錯覚と相まってひんやりしているものの、奥に確かな熱を感じる。

 ここでふと、私の手がクジラのモデルを貫通せずに触っていることに気付いた。

 仮想体で感じたような抵抗感がそのまま肉体に反映されているような、それがセミクジラの実在をより鮮明にしていた。

 しばらく撫でていると、回り込んでいた頭が震えて、セミクジラが再び上昇する。

「どうですか?」

 様々な期待をこめた眼差しで、海未さんは私に感想を求めてくる。

 私は体表の感触を反芻するように、右手を握りながら。

「すごかったです」短く答えて、反抗を含ませて付け加える。

「最初、食べられるかと思いましたけど」

「そうですか? ありがとうございます!」ささやかな反抗は無視されて。

「あの子も喜んでますよ? 普段は落ち着いているんですけど、久しぶりのお客さんに張り切っているみたいで」

「喜んでいる?」

 今見せているあの挙動は、プログラムされていたものではないのだろうかと思っていると、海未は首を振って否定する。

「フルトラッキングによって、見学者の挙動をクジラ側が相互受信できるようにしてるんです。あのセミクジラは、こちらの動きを学習しながら自律的に動いているんですよ」

「その、フルトラッキングって何ですか?」

「全身の稼働に合わせて動く仮想体を、自身の現在座標と同期させるとですね、自身が仮想体越しで別の仮想体に触れているような体験ができるっていう、裏技があるんですよ」

 仮想体は本来、仮想体同士でないと能動的な干渉はできない。しかし人型仮想体は実体を置き去りにしてしまうこともあって公共施設内での使用が著しく制限されており、また仮想体自身も防犯の関係上施設の出入りに制約が多い。

 これを解決するために、実体に仮想体を着ぐるみのように被せることで、仮想体の感覚をリアルタイムで実体へ反映し続けるようにしたのがフルトラッキング仮想体だと、海未さんは語る。

「なるほど。だからさっき、仮想体のモデルを肉体がすり抜けずに静止できていたんですね」

「肉体的な負荷も大きいので三分が限界なんですけど、より体感的な学習ができるのでこのアクアリウムでは多用されているんです。これをお客様にも体験できるようにしたのが、このふれあいコーナーなんですよ」

 言いながら海未さんは胸元のバッジを取り上げると、体を覆っていた閉塞感が元に戻り、名残が尾を引いて違和感だけが残った。

 確かにこれを続けていると、自分が今仮想体なのか実体なのか、あいまいになってしまうのも理解できる。

「すごい技術ですね。このクジラといい、フルトラッキングといい……」

 褒められることに慣れていないのか、いやいやそんな私なんて、私の言葉に頭を押さえて縮こまる海未さん。

 自分の知る限り、ここまで精巧なプログラムを作るのはシャオちゃんくらいしか知らない。

 ファントミーム技術に対して理解の深いエンジニアはGCを除くとかなり希少で、それがこの街を企業城下町たらしてめている一要因でもある中で、ここのスタッフたちの技術力は目を見張るものがあった。

「このアクアリウム、実はグレイテストバン以前にあった水族館を再現させたものなんです」

「え?」

「立地は全然違いますよ? 爆心地近くの元施設は跡形もなくなってしまって、議員の、えっと……クジデラ、さん? っていう人が被災者慰霊の一環で建設したそうなんです。ここにいる職員たちは、子供の頃にその水族館へ来た思い出があって、それでみんな張り切ってるんですよ」

「それは……海未さんも、ですよね?」

「あ、はは……。物心ついたときに貰った初めての誕生日プレゼントが、ここの物販に売ってたクジラなんです。それが可愛くて可愛くて、それから興味を持って……好きが転じて、ここの職員を任されて」

 でも、と海未さんは顔を伏せ、手首を抱いて、ふと呟いた。

「やっぱり、辛気臭いって思っちゃうんですかね。昔の再現っていうと、嫌なことも思い出しちゃうから」

 ――カイキョウシティは体感型未来都市としての面を押し出し、環境事業に力を入れている身です。

 ――人々を恐怖に陥れるような災厄は、忘れ去られるべきです。

 オートモービルで話していた大橋さんのことを思い出す。

 昔テレビで見た女性の、がしゃどくろの表情を思い出す。

 認知心理学において、脳に刻まれた情報――記憶が消失することはなく、忘却というのは脳内に収められた記憶を取り出すことができない状態を指す。

 決して悪いことじゃない。思い出すために必要な鍵を取り換えて、思い出すことがないようにすることができるし、それを心療とすることもある。自動車事故が原因で車を怖がる子供に、車のおもちゃを渡して遊ばせることで、事故の記憶を遊びの記憶に置換するように。

 この街は災害の記憶を、それがもたらした物質と娯楽で覆い隠して、忘却しようとしている。

 言ってしまえば事実の秘匿で、これに怒る人間がいる。その感情はもっともだが、針のむしろに座って、心をすり減らす行為が尊いと教えるのは、酷な話だとも私は考える。

 誰もが、あの大いなる破壊によって生み出したものを、前向きにとらえられるわけじゃない。

 忘れたい人間がいるなら、忘れさせるべきだ。

「でも、このアクアリウムは素敵だと思います。私、ちょっと仕事で疲れていたので、とてもいい息抜きになりました」

 私は天井付近で気ままに泳ぐセミクジラを眺めて、まぎれもない本心を伝える。

 しかし海未さんは諦めたように眉尻を下げて、ありがとうございますと静かにほほ笑んで。

「では、私はこれで。他にもいっぱい見どころがあるので、ゆっくりしていってくださいね。ああそれと、観光客向けのぬいぐるみも物販でありますから、よかったらそちらもぜひ!」

 最後にそう言って、泡に覆われて海未さんはログアウトした。

 セミクジラのスペースを一旦離れ、落ち着ける場所に行こうと、途中のラウンジまで戻って当初の目的を思い返す。

 何故、鯨寺ホエルはセミクジラを爆弾にしたのか。

 クジデラ……おそらくここは、鯨寺議員が設立したアクアリウムなんだろう。そこで展示されているクジラをデフォルメに模した爆弾を抱えて、ホエルは鯨寺邸にいた。そこに何か因果関係があるんだろうかと思案して、すぐ間違いに気付く。

 どういう思惑があれ、鯨寺夫人や鯨寺邸に関するものが目的なら、あそこでああも簡単に夫人を見逃すわけがない。

 つまるところ、彼女があそこにいたのは全くの偶然で、ホエルという名前を貰ったのも、彼女からしたらサプライズのようなもので。結局、彼女自身の正体がわからないと目的も判明しないという根本的な問題へと衝突する。

 備え付きのソファーベンチに座って、しかし落ち着かないまま頭を振り、膝に肘を着く。

 煙慈は否定していたが、彼女は本当に人間なんだろうか。

 鯨寺ホエルは仮想体だ。仮想体なら、オーグギアを通して操作する誰かがいる。ならあのホエルの挙動・発言は、その操作者に依存しているという常識が、自身の考察の進まない理由だった。

 幼児のような非論理性、明解でない行動理由。小規模なグレイテストバンを起こすプログラムを設計する明晰さと、彼女の性格があまりにもかけ離れている理由に説明をつけるなら、彼女が不完全で未熟なAIとするほうが手っ取り早い。

 短絡的だと笑われても仕方ないことだ。しかし、たとえそうだとするなら、私から見たホエルのパイロットの人物像は、とてつもなく幼くてとてつもない天才だという、これまたフィクションめいた結論を出さざるおえない。

 ありえないほどの天才と、ありえないはずのプログラム。

 どっちが現実的だろう? いや、この街で『現実』を規定することに、どれほどの意味があるだろう。

 視線を下ろして、群がる仮想体のペンギンたちを見やる。

 仮想と現実がこんなにも近い距離感で成り立つ街なら、その両方がありえるんじゃないんだろうか。

 その時だった。

「ナギサ、いた」

 脇からふいに、声をかけられる。

 落ち着きを払いながら、球を転がしたような高揚感を押さえられない、幼い声。

 吸い込み、吐いた息が、震える。

 恐怖ではなく、驚愕で、震える。

 ゆっくりと、振り返る。

 目撃したそれから距離を離そうと、座ったまま腰を浮かせる。

 そこには、鯨寺ホエルが、いた。

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