忘るるアクアリウムⅢ

 小柄な体格。小さな頭に丸い大きな瞳。ボーダーシャツにニットカーディガン、プリーツスカート。傍らに携わるセミクジラのデフォルメ。

 ホエルはソファーベンチの端に座り、私を見つめながらにっこりとほほ笑んでいた。

 驚愕のあまり止まりかけた心臓を、再起させた反動で高鳴る動悸を押さえようと、胸に手を当てる。

「どうかしたの?」

「どうもこうも」鯨寺邸で会った時と変わらないマイペースぶりが、安心さと不気味さを両立させる。

「どうしてあなたがここにいるの?」

 私の問いかけに、ホエルは小首を傾げて訝る。ソファーベンチから投げ出された足は振り子のように緩やかに振られ、足元のペンギンの仮想体を容赦なく貫通していた。そのペンギンは相変わらず餌をねだろうと私の前で羽と口を広げており、自身の体が蹴り上げられていることに全く気付いていないようだった。

「ワタシは、ナギサに会いに来ただけだよ。もしかして、イヤだった?」

「イヤというか……」

 その緊張感のない様子にまた毒気を抜かれそうになって、気を取り直す。

 悪意の有無はどうあれ、この子がそばに侍らせたセミクジラを使って鯨寺邸を爆破したのは、まぎれもない事実だということを忘れてはいけない。

「どうして私のところに? いいや、どうして、私がここにいるってわかったの?」

「わかるよ。だって、ナギサはそこにいるんだから」

 相変わらず要領を得ない、あいまいな話を聞き流しながら、私は日下部さんに通信を開こうとする。

「ダメだよ、ナギサ」

 ホエルは呟いて私を睨みつける。丸々とした大きな瞳が繰り出す眼光に覇気はなかったが、変化が起きた。

 いつもは数秒足らずで出る日下部さんから、返信が来ない。それどころか接続状況が不安定になり、ついには時間切れになって切断されてしまった。

《回線に第三者からの膨大なデータの流入が起きていています。日下部万代捜査官へ音声データが到達するまで、十分以上の遅延が発生しており、接続を保てずタイムアウトしてしまいます》

「今日はワタシの話を聞いてほしいんだから、他の人と話しちゃ、ダメ」

 無機質な声と無邪気な声が背反する。

 救援が呼べない。実体である今はログアウトして逃げることもできないという事実に、背筋が凍る。

 落ち着きかけた鼓動がまた早まり、吐き出した息は細く小さい。

 アクアリウムがほぼ無人なのは幸いだが、それでも何も知らない仮想体のスタッフは大勢いる。海未さんたちが、私と同じように爆死のショックに耐えられるという保証はない。

 この場で、自分にできることはなんだ?

 ――今日はワタシの話を聞いてほしいんだから、他の人と話しちゃ、ダメ。

 一つの懸念が脳裏を掠める。

 今日は。ということは、つまり最初に会ったあの時も、ホエルはやろうと思えばこちらの通信を一方的に切断することもできたんじゃないんだろうか。

 昨日と違って、ホエルは私に興味を示している。

 私が彼女の興味を引いている間は、スタッフの安全を確保できるんじゃないだろうか。

「わかった、ホエル。今日は、あなたとお話をする」

 一旦目を閉じ、日下部さんへのコールを取り消して、座るホエルを再び見据えた。

 ElWaISの推測通りなら、最初に送信したコールが日下部さんに届くのは十数分後。タイムアウトしたとはいえ、不在着信は届くはずだと、今は願うしかなかった。

「でも約束して。話をする代わりに、誰かを傷つけたり、物を壊さないこと。昨日みたいに、私やここにいる人たちを爆殺しないって」

「爆殺なんてしないよ」心外そうに、ホエルは頬を膨らませる。

「ナギサだって生きてるし」

「それは仮想体だったからだよ。下手をすれば、あなたは誰かを殺していたかもしれない」

「殺しちゃ、ダメなの?」

「ダメ」

「どうして?」

「殺したら、殺したことの責任を取らなきゃいけないの。殺すだけじゃない、あなたが壊した物の責任は、あなたが取らなきゃいけない。建物の修繕費とか、家が直るまでのその人の生活保障とか……想像できる?」

「ううん。全然わかんない」

 こちらと目を合わせながら、ホエルはブンブンと首を振る。

 やはりというか。

 この子には社会秩序に準拠する善悪の概念がない、子供よりも子供らしい精神構造をしている。ただ怒られているという感覚はあるようで、肩を狭めて居心地悪そうにしているのも、またそれらしかった。

「だと思った。つまりね、あなたの持ってるクジラが爆発すると、みんなが困っちゃうの」

 例えば。と、浮きかけた腰をソファーベンチに座り直して、膝をホエルに寄せた。

「あなたのお家が、悪い人に壊されちゃったら、どう思う?」

「どうして、悪い人はお家を壊したの?」

「理由なんてないよ。そういう気分だったからとか、偶然会ったあなたのことが気に入らなかったのかもしれないし」

「理由がないわけないよ。理由がなかったら、そんなことしないもん」

 頑固として、ホエルは譲らない態度を取る。

「そうだよね。うん、あなたの言ってることは正しい」頷いて同意してから、次の質問に切り替える。

「ということは、ホエル……あなたがこのクジラを爆発させて、鯨寺さんのお家を壊したのは、何か理由があるって考えてもいいかな?」

「あれはっ、ナギサにお礼がしたくて……壊したかったわけじゃないよ、本当だよ?」

 チラリとクジラを見たあと、こちらを前かがみになりながら見据えて、ホエルは弁明する。

 あのクジラが起こすことを、爆発だと知らなかったようにも思えて、もう一度私はホエルに尋ねた。

「じゃああなたは、鯨寺さんのお家を壊したかったわけじゃないし、鯨寺さんのことを傷つけたかったわけでもない?」

 コクリ、と。

 不安げに頷き、上目づかいで機嫌を伺うホエルに、こっちが被害者にも関わらず段々と罪悪感がこみ上げてきた。

「そっか。本当に、私のためだったんだね」そんな双方の感情を拭わせるために、私はほほ笑む。

「お礼をするときはね、ありがとうって、言葉で伝えるだけでいいの。物を壊したり、誰かを傷つけるよりも、簡単で伝わりやすいことなんだよ」

「あり、がとう……?」

「うん、ありがとう。そう言えば私も、ホエルは今嬉しがってるんだなってわかるから、今度からはそうしてくれる?」

「よくわからないけど……わかった。ナギサがそう言うなら、殺さないし壊さない。嬉しくなったら、次からはありがとうって言う」

 あっけなく、ホエルは私の言ったことを反芻する。

 ここでようやく、彼女が悪意をもって爆発を起こしたわけでないということを、辛うじて理解する。

 そして同時に、彼女は無邪気にあの爆発の恐怖を振りまいて、それになんの感情を抱いていないという危うさも再認する。

 無邪気な彼女の振る舞いが、彼女の本性だと言い切れないのがもどかしい。音声である程度補正がかかるとしても、表情豊かな数々の挙動が、パイロットのノンバーバル行動と結びつかないのが、ヒト型仮想体の厄介なところだと焦燥しつつ、しかし一方で自分の仮説のおさまりの良さに安心めいたものを覚えている。

「本当に?」

「うん、ナギサは名前をくれたから」

 ホエルは立ち上がり、群がっているペンギンたちを踏みつけ、貫通させながら私の前に立つと、体を傾けさせながら私に尋ねた。

「でも、その代わりに教えてほしいことがあるんだけど、いいかな?」

「なに?」

「どうしたら、ワタシのことをみんなに知ってもらえるかな?」

 ワタシのことを、みんなに知ってもらう。

 承認欲求の充足。という難しい言い回しは、今まで見聞きした彼女の幼い人物像と一致しない。だが真っ直ぐと無垢な瞳を向ける彼女の声音から、嘘をついているような響きは感じない。ここまで考え、足元にめり込んだペンギンを見て思い直す。

 特定の人間から彼女が見えないように、彼女も特定の人間しか見えていないのではないか。

 その数がどれほどになるかはわからないが、少数ならその中で私を訪ねてくることもおかしい話じゃない。

 いっそ、この世界で彼女が視認しているのは、私だけなのかもしれない。と、考えれば、この異様な懐かれようも、孤独を癒すためにそんな質問をすることにも合点がいった。

 自分が一人であることにおびえるのは、立派な生存本能だ。

「えっと……ホエルは、みんなに自分のことを知ってもらいたいの?」

「うん」

「質問を変えるね。ホエルは、自分の何を知ってほしいのか、言葉にできる?」

 うつむきながら、体を左右に揺らして、ホエルは思案する。

 しばらくすると我慢できなくなったのか、振り子運動を維持したまま、ポツポツと言葉を紡ぎ始めた。

「うんと、ぼかん、ってする」

「ぼかん?」

「ぼかんってして、みんなが震えて、もういやだって叫んで、逃げて……。うーん、と」

「震わせて、叫ばせて、逃げさせて……?」

「それで……うーんと、だから、だからね……うーん」

 しどろもどろに言葉を繋げるホエル。言葉が出ない代わりに振り子がどんどん激しくなっていくのを、ホエルのセミクジラが煩わしそうに避けている。

 ホエル自身が、ホエルの欲求を把握してないわけではない。鯨寺邸に行ったり、私に会いに来たり……彼女の行動自体はかなり明確で、意外と理性的なところに、彼女自身にちゃんとした目標設定があるという印象を私に与える。

 ならこの拙さは、ただ語彙の弱さからくるものなのだろう。

 ぼかん。震え、叫び、逃げ。

 呟かれる言葉の数々がネガティブなイメージを先行させるものばかりで、しかしそれはホエルの個性のようにも思えて、初めて私は、彼女のことを知りえた心地がした。

「なんだか怪獣になりたいみたい」

 冗談めかしにそんなことを呟くと。

「カイジュウ……? カイジュウって?」

 ホエルは思ってもみなかったと言わんばかりに、目を見開いた。

「街を破壊しちゃうような、大きて恐ろしい生き物のこと」

「恐ろしい……」

 オウム返しをするホエルの動きが、徐々に収まっていく。

「そう! そうだ! ようやくわかった! あはっ、やっぱりナギサはすごい!」

「え?」

「ワタシ、カイジュウになりたい! みんなを怖がらせたいの!」

 ホエルはセミクジラをきつく抱き寄せる。セミクジラ自体の質感はかなり柔らかそうで、締め付けられた体が腕の隙間を縫って膨らんでいるのがわかる。

「怖がら、せる?」

「うん! だって、そうすればみんなの中にワタシが生まれるんだから! そしたらワタシが! みんなのものになるんだよ!」

 このドラッグハイなテンションには見覚えがあった。

 その既視感の答え合わせとして、クジラの体表が、ぼう、と妖しく光った。

「でも、怪獣は街を壊してみんなを怖い思いにさせるのに、ナギサはダメだって言うんだよね」

 胸元に置いたクジラの頭を、悩ましそうにホエルは撫でる。

 鬼火のように滲んだ光を見せるクジラに、血の気が引いていく。

「ダメっ!」

 立ち上がって、手を伸ばすも、ホエルの肩口から背中を突き抜け空を切った。

 ホエルは唇を尖らせて拗ねる。

「それじゃあ、ワタシはどうやってこれを伝えればいいの?」

「それは……」

「教えてよ、ナギサが言ったんだよ?」

 口元を押さえて、噛んだ唇を隠す。

 馬鹿か私は。

 これまでの会話で、ホエルの目的意識の高さと主体性のなさは十分わかっていたはずだ。言い換えればそれは自分の目標ははっきりしているのに導線がなくさまよっている状態で……そんな状態で、信頼している人間の言葉は暗闇の光明のように響きやすいことなんてわかっていたのに、私は自分からホエルの考えを誘導するような真似をしてしまった。

 誘導だけならまだいい。よりにもよって誘導先が、破壊的なモチーフにしてしまうなんて。

 冷や汗が背中を流れる。

 善悪の区別のない子供。災害級の破壊をもたらすプログラム。そして怪獣めいた破壊衝動。

 最悪の歯車が、災厄の形で嚙み合った。

「ごめん。それには、私も答えられない」

「どうして?」

「ホエルは、私の言うことをなんでも聞いてくれているけど、それがホエルにとって良いこととは限らないの」

「そんなの変だよ! だって、ナギサはワタシに名前をくれたもん」

「うん、ありがとう。でも、『カイジュウ』になることが、ホエルにとってとても大事なことなら、ホエルがちゃんと納得しないと、あとできっと後悔することになる」

「わかんないよ、そんなこと……」

「うん。だから……、だから……」

 一度言い淀み、逡巡する。

 本当にこれを言っていいのか、迷いがあった。

 ここまで、私のミスで彼女の破壊行為を許し、これから行うことも肯定させてしまった。

 だからと言ってカウンセラーは指導者じゃないし、カウンセリングや傾聴術は人心を掌握するためにあるんじゃない。

 頭に浮かぶのは、目の前の彼女が起こした破壊の恐怖。

 正体不明さも、無邪気さも、可憐さも。何もかもが、彼女の恐怖を彩る透明なレイヤーのようで、緊張と不安と、先ほどとは比べ物にならない罪悪感で脳裏が痺れる。

 それでも。と、一度、大きく深呼吸する。

「ホエルが人を傷つけない『カイジュウ』になるまで、私が見守るから」

 ホエルの動きが一瞬、ピタリと止まった。

 ここから、彼女に凶行を働かせない方法。

 私ができる最後の方法。

 それは、私しか見えていない、私だけが見えている目の前の災厄を、私に依存させることだ。

「本当?」

 頷く。

 できるだけ笑顔で。

 彼女が、自分に依存できるように。

「明日……そう、明日のお昼、慰霊公園の石碑の前で散歩しながら、お話ししよう」

「今からじゃダメなの?」

「うん。ホエルも、今日話したことを落ち着かせなきゃいけないから。落ち着いて、さっきの答えを自分なりに考えられたら……また明日、教えてくれる?」

 クジラの頭に顎を載せて、ホエルは考え込む。

 やがて、不安に揺れる瞳で、こちらを見上げた。

「ナギサ、ちゃんと来てくれる?」

「うん、約束する」

「本当に? 本当の、本当に?」

「もちろん。だから、それまでクジラを使うのはダメ。約束できる?」

「うん! えへへ……、じゃあまた明日ね!」

 朗らかな笑顔で手を振り、ホエルとセミクジラが消える。

 私は、ストンとその場でへたり込むと、気力を振り絞って日下部さんにコールする。

『渚ちゃん?』

「日下部、さん……」

 さっきまで喋っていたはずなのに、まるで久しぶりに話すかのように喉が震え、枯れていた。

「みなさんを呼べますか? 大変なことに、なったかもしれません……」

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