忘るるアクアリウムⅠ

 駐車場に降りて、仮想体名刺と大橋さんの消えた歩道を交互に見比べていると、クラゲと共に《ウィルススキャン終了しました。李大橋の個人データを保存しますか?》という問いかけが流れてくる。私は名刺をクラゲの傘に名刺を載せて保存すると、車を出てアクアリウムのある黒い建物を目指しながら日下部さんにコールした。

「すみません、忙しいときに」

『いいのよぉ』五秒満たない早さで、いつもののんびりした口調が応えてくれる。

『体のほうは大丈夫? 仮想体の死亡体験は精神的に負荷がかかるからって、課長が休暇を出してたわよね? 休めてる? 無理しないでいいのよ? あの事故はあの場にいた私の判断ミスで、渚ちゃんが気に病むことないてないんだから』

「え、ええ。ええ、大丈夫です、大丈夫ですから。心配してくださって、ありがとうございます」

 畳みかけるような質問攻めに気圧され、一層罪悪感が増す胸中を誤魔化すのも兼ねて、さっきの大橋さんとのやり取りを記録したデータを、日下部さんに送信する。

 昨日爆発に巻き込まれた直後、緊急ニュースの次に届いた彼女の涙声を思い出す。昨日の仮想体爆死から今まで、日下部さんはずっとこんな調子だった。

 日下部さんは悪くないのに、と言い続けているものの、彼女としてはどうにもありえないことらしい。あまりに過保護な対応で、彼女の懸念するストレスがないと話すのも憚れるような状態だった。

 自分を客観視できている。とまでは言い切れないが、仮想体の死について深く考えるより先にやることがあるという現状が、もしかしたら救いだったのかもしれない。おかげで変なトラウマを被ることなく、夫人のカウンセリングやアクアリウムにも赴けるわけだから。

 カウンセリングと言えば、せっかくだから夫人や捜査官のみなさんのためにアクアリウムでお土産を買っていこうか、販売店はあるだろうかと思案していると。

『監査部の李大橋……。小湖のお姉さんが、渚ちゃんに?』

 データを受け取った日下部さんは、そう尋ねてきた。

「捜査協力の申し出がありましたけど、そちらに話は来てませんか?」

『いえ、こっちにはまだ。となると、狙いは渚ちゃん本人なのかも』

「私、ですか?」

『向こうも、渚ちゃんの見た『鯨寺ホエル』の情報が欲しいのかもしれない』

「いちおう、守秘義務で通しましたが……」

『うん、何も話しちゃだめよ、それと監視にも注意して。できればオフィスに戻ってきてほしいけど』

「ありがとうございます。用事が済んだら、一旦オフィスに戻りますね」

『わかった。課長にはこっちで報告しておくわね』

 気を付けてね、と心配されたのを最後に通信を切る。

 駐車場を抜け、階段を上り、改めて正面に広がった巨大な黒い建物を見上げる。

 遠くからの見た目は、直方体の積み木を組み上げたようなシンプルで生気を感じないデザインで、あちこちに換気用の小窓がついている。石畳を伝ってホール近くに視線を合わせると、建物のレイアウトに合わせて『カイキョウシティ記念アクアリウムへようこそ! 入口はこちらです』という豪華なロゴと案内図が表示される。ヤシの木、虹、イルカなどをあしらった表情豊かなロゴデザインと無口な建築物とのギャップが、出来の悪いコラージュに見えてしまうが、入口へ向かう少数の人だかりからはそんな白けた感情は見当たらない。

 よく言えば機能性と拡張性に優れていて、悪く言えば芸術性も面白味もないブロック小屋の集合体。

 この構造がカイキョウシティ内の建物の七~八割を占めているのは、デザインの秀逸さなんてものではなく、十五年で街を観光向けに設計するためには、ブロック化して使いまわしの効く建築デザインの発達は必然で、この汎用性がなければカイキョウシティの成立はもう十年遅れていただろうと言われているからだ。

 遠くでオートモービルが静かに車道に戻るのを背中で聞き取れるほどに、ここが娯楽施設だということを忘れてしまうくらい閑散としていて、そんな懸念をサイコトラッキングで察知したのか、マップアプリが現在地を示し始める。

 横目で、間違いなくここが目的地であると確認して、一歩踏み出す。

 瞬間、ブワッと。

 色彩の洪水が建物から溢れ出した。

 真っ黒の直方体だった建物から、色鮮やかなサンゴ礁を思わせるデザインが伸び始める。無表情を装っていた外壁に愉快さが彩られるタイムラプスを追いかけていると、足元に何かが押し寄せてくる。見下ろすと、寄せて返す小さな波が足首を撫で、どこからともなく聞こえる陽気さと神秘性を感じるハープと波の音色が、南国を連想させる。

 一瞬にして、そこには異世界が広がっていた。

「うわぁ」と、驚嘆の声が上がる。

 それが私のものだと気付くのに数瞬遅れるほど、目の前の光景に見入っていた。

 指定領域へ入った人間に、特定の映像や音楽をオーヴァーレイする場づくりのマーケティングは、この街での常套手段の一つだ。これを利用して、昼夜でお店の内装を変えているところもあって、この簡便なスペースマネジメントは、あらゆる商業に新しい可能性を提示してきたことは、十分理解していたつもりだった。

 圧巻されている私の目の前を、赤い魚群が通り過ぎていく。目を細めながらもしばらく注視していると、泳ぐ群れに追従するように可愛らしいフレームに収まった詳細が表示されていく。

 現実に生きる人間を問答無用に非日常へ引き込む光景に、自身の浅はかな知識を恥じる。

 これが、体感型未来都市の所以。

 半ば呆然とした気質で、アクアリウムの外観を眺めていると。

「あのぅ……」

「うひっ!」

 ふいに後ろから控えめに声をかけられ、反射的に体が跳ねる。

 振り返ると、そこには私よりも一回り小さい女性が、飛び跳ねた私を心配そうに見つめていた。

「ご、ごめんなさい! 何かお困りかと思いまして……!」

 肩を縮こまらせ謝る女性に、いえ大丈夫ですこちらこそ、と手で制する。

 女性は青いつなぎに、アクアリウムのロゴの入ったバッジを胸元につけている。その下にあるコードを読み込むと、顔写真付きで彼女の身元が表示された。

 入鹿海未。

 アクアリウムデータエンジニア兼サポートスタッフ。

 見慣れない役職に、首を傾げていると、あぁこれですねとバッジを摘まんで解説してくれた。

「私、アクアリウムで海洋生物のシミュレーションモデルを整備している、入鹿いるか海未うみみと申します。お客様のサポートも兼任していまして、それで……」

 なるほど、アクアリウムに圧倒されていた私を心配してくれたんだ。

 そう思うと急に申し訳なさが助長されて、入鹿さんに叩頭する。

「すみません。無用な心配させてしまって……、こういうところに来るの、初めてなものでして」

「あ、はは……、そうですよね。みなさん、最初はやっぱり驚かれるんですよ」

 入鹿さんは頬に引かれた認識マーカーを掻いて、愛想笑いを浮かべる。

 紹介にあった『無人』というのは、実体がないという意味らしかった。

「今日は、何かお目当てがあってここへ? その、迷惑でなければ、ご案内できますが……?」

「お目当て、と言いますか」馬鹿正直に捜査だというのも憚れ、言葉を濁そうとこめかみを押さえながら。

「ここでセミクジラが見られると聞いて。ここでは実物を再現したモデルがみ、ら、れる、と……?」

 どうせだからと聞いた質問が、尻切れになって意味をなくしていく。

 セミクジラという単語を聞いた途端、入鹿さんの瞳がまん丸に開いて輝きを増していたからだ。

「セミクジラって、あのセミクジラ?」

「は、はい」

「ヒゲクジラ類セミクジラ科セミクジラ属セミクジラ?」

「た、たぶん……」

「それを、見に来た……?」

「そう、です、ね……?」

 見開いた双眸に凝視され石化していると、入鹿さんは口を大きく開いて、つなぎの袖をブンブン振り回して腕を前へと持っていった。

「それ、私が作ったんです! セミクジラのシミュレーションモデル! 見に来てくださった人がいるなんて!」

「え?」

「早速ご案内します! さぁこっちですよ!」

「あ、あの、ちょっとー……?」

 おどおどした最初の印象から一転して、爛漫な様を見せる入鹿さんの手招きに引かれて、私は異世界の玄関へとなし崩しに吸い込まれた。

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