030

 英子は化学室へと足を運んでいた。

 化学室の扉の前に着くと、そっと引手に手をかける。扉はすんなりと開いた。

 目の前を見ると、あの片開き窓が全開に開かれ、そこに誰かが座っていた。開かれた窓からは気持ちのいい風が吹き、扉の前に立つ英子の髪を揺らしている。

 英子はその目の前の光景を見て、あの日の沙羅もこんな風にその窓に座り、誰かを待っていたのだろうかと思った。

 英子が来たことに気が付くと、窓枠に座る彼女が振り向いた。


「たぶん私じゃなかったら化学室、開けられなかったよ」


 彼女は笑って、キーホルダーの付いた鍵を詰まんで英子に見せる。英子も笑った。


「そうだね。でもやっぱり開けられた」


 英子は確信していた。彼女ならあの茂田枝の机から鍵を持ち出せるであろうと。


「あと手紙。あんな長文の暗号、初めて見たよ。もし私が読めなかったらどうするつもりだったの?」


 彼女は無邪気に質問する。


「そしたら、その時の事」


 英子は躊躇いもなくあっさりと答えた。


「高倉さんって案外大胆な性格なんだね。もっと慎重なタイプと思ってた」


 彼女がそういうと、2人はつい顔を合わせて笑ってしまう。やっぱり彼女とは話しやすいと思った。




「呼び出した理由、聞いてもいいかな?」


 話を切り出したのは彼女の方からだった。沈黙の間はあったが、英子は頷いた。


「あの日、ここにいたのはあなただよね?」


 英子は彼女の目を見てはっきりそう聞いた。彼女は笑うばかりで答えない。


「なんでそう思ったの?」

「美堂さんが警戒しなかった相手だから。この教室に入って来ても、その窓の淵に座り続けられる相手はあなたぐらいだと思った」


 そっかと言って、彼女は再び質問をする。


「どうして、その相手が渡だと思わなかった?」


 普通ならそう思うだろう。英子たちも今までずっとそう思って来たのだから。でも、英子は昨日の出来事で考え方を変えた。


「美堂さんは渡先生が大好きだった。だから、先生を待っていたのなら、窓に座らないで、先生の入ってくる扉を見つめていたんじゃないかと思った。そして、扉が開いたら、駆け寄る」


 そう、昨日のまーちんと呼ばれたあの子の様に。彼女はただ黙って聞いていた。


「残念ながら、渡先生の方は美堂さんの事を怖がっていた。だから、きっと教室に入っても彼女には近づこうとしない。だったら、美堂さんの方から会いに行くでしょ?大好きな人が来てくれたら、そばに行きたいと思うのが自然だと思った」


 それにと英子はつづけた。


「あの日、美堂さんが落下してから彼女の姿を見れたのはほんの数分間だけだった。だから、廊下にいた笹山君も、1年の放送部の女子部員も直接は見れなかったの。けど、あなたは1年が騒ぎを聞きつけて飛び込んだ時には、すでに放送室にいて、部屋の中で大泣きをしていた。私はそれを聞いた時、あなたは直接、沙羅さんの死を見たんじゃないかと思った。なら、どこから見ていたのかって考えた時、化学室ここしか思いつかなかった」

「わからないじゃない。もしかしたら教室で見たのかもしれないし、別の部屋で見たのかもしれない」


 彼女はゆっくりと答える。冷静で、慌てた様子は全く感じられなかった。


「それも考えたけど、彼女の死を見て取り乱していたあなたが、わざわざその場から離れて、少し離れた放送室まで駆け込むとは思えない。もし駆け込む必要があったのだとしたら、その場にいることが出来なかったから……」


 彼女はただ静かに英子を見ていた。英子も彼女にこんな話をするのは辛い。


「私ね、あなたと放送室で会った時からずっと気になっていたの。彼女の死を一番気にしているであろうあなたが、あっさりと警察の見解に納得していた。そして、自殺だと言うと取り乱して叫んで否定した。あの時、あなたが何か知っていると思ったの。何も知らないという割には辛そうな顔をしていた」


 彼女は窓枠を掴んで外を見る。


「ずっと前から、美堂さんと渡先生が付き合ってたのも知ってたんだよね?」


 英子が質問すると彼女は窓の外を見たまま頷いた。


「直接聞いたわけじゃないの。沙羅の行動がおかしかったらか、いろいろ調べてわかったの。そして、問い詰めたらあっさり認めて……。こんなことなら放送部に一緒に入ろうなんて誘うんじゃなかったよ」


 彼女はそう言って笑った。


「それからはね、沙羅と喧嘩をすることも増えたの。高校に入るまでは喧嘩なんて一度もしたことなかったのに、彼の話になると沙羅はいつも人が変わるようだった。あの日も、その話で喧嘩になったの。私は沙羅に渡と別れて欲しいってお願いをした」


 彼女は悲しそうに俯き、そして再び顔を上げて、真っすぐ英子を見た。


「そうだよ。あの日、私がこの窓から沙羅を突き落とした」


 彼女はハッキリと答えた。

 英子はぎゅと唇を噛む。本当は、この結末だけには行きつきたくなかったのだ。

 沙羅の親友の知弦の口から、その言葉だけは聞きたくなかった。


 英子は深く目を閉じる。そこからは知弦か語るように話し始めた。


「初めて沙羅に会った時、暗くて無口で全然笑わないし、つまんない子だなぁって思ってたの。だから、同じクラスになっても誰も沙羅に声をかける子はいなかった。放課後になると母親が車で迎えにして、すぐ帰っちゃうし、遊ぶタイミングもなかったんだ。休憩時間も自分の席で読書ばかりしていて、クラスメイトの事なんて気にも留めてなかった。だけどね、なんとなくかな、話しかけたくなって、私は本ばかり読む沙羅に声をかけたの。最初は無視されるかと思ったのに、本から上げた顔には涙がいっぱい溜まっていた。ああ、本当は淋しかったのに、強がってたんだってわかったよ。ああ見えて、沙羅ってすごい負けず嫌いなんだよ」


 知弦はくすくす笑いながら話した。


「それからはね、なるべく一緒にいるようにしたの。中学に入れば、お稽古よりも塾に行く時間も増やされてたし。だから、私も沙羅と一緒に塾に行った。その休憩時間とか塾まで行く時間とかにいろんなこと話したよ。連絡先交換して、沙羅の母親に見つからないように連絡しあったりして、沙羅はだんだん明るくなった。そうしたら、私以外の子も沙羅に興味を持つようになって、話しかけられるようになったんだ。途中から人気者になって、私が話しかける隙もなくなってた。それでもね、結局沙羅は意思がないから、皆の言いなりで自分の意見なんか言わなかったし、本音を隠すのが上手だったあの子の本心を聞こうとする人もいなかった。沙羅はずっと受け身だったんだよ。ずっと沙羅は皆の都合のいい偶像にされていた」


 それはわかる。英子が知る時から、周りが沙羅に対する期待、願望を勝手に押し付けている気がした。だから、彼女がいなくなった時、誰も彼女の事を知らないと気づいたのだ。


「私は高校に入ったら、沙羅ともっと接点を持ちたかった。だから、一緒に部活に入ろうって誘って、前から沙羅の声はきれいだからそれを活かしたいなって思ってて、放送部に入部してみたの。先輩もいい人ばかりだったし、沙羅に無理強いをする人もいない。沙羅の声や朗読やアナウンスの上手さを見たら、みんな納得してくれたし、沙羅にはいい環境だと思ったんだ。けど……」


 と一瞬にして、知弦の表情が暗くなる。


「あいつに会ってしまった。渡は優しかった。それは沙羅にだけじゃなくて皆に。それに渡だけが沙羅を特別視しなかった。他の子と同じように接して、気を使って、沙羅に強要するようなことは一度もなかった。だから、沙羅が渡に惹かれていくのは理解できる。けど、その感情が沙羅を壊していった。その頃、私たちの学年の数学の担当は渡じゃなくて、別の教師だったから接点がほとんどなかったの。沙羅はどうしても渡と接点を持ちたがって、放送部の部長になることを志願した。私も最初はあの消極的な沙羅が何でって思ったよ。けど、自発的にやりたいと思うあの子を快く受け入れようと思った。これも成長なんだって思って。でも違った」


 知弦は大きく息を吸う。英子は黙ってそれを眺めるように見ていた。


「沙羅は部活を利用して渡と接点を取ろうとした。自分の実績と自分に贔屓している先生、そして自分に憧れている生徒会の生徒を使って自分に優位に立つように仕組んだ。沙羅はそんな子じゃなかった。それに気が付いた時、私は沙羅を止めようとしたよ。けど、沙羅は全然私の話を聞いてくれなくなっていた。2年の文化祭の時、小酒井先輩の妹に会ったの。彼女、占いが得意で私たちの前で占いやおまじないについて話してくれた。私も面白いと思ったよ。けど、沙羅は真剣にそれを見ていた。まるで憑りつかれるように興味を示していた。そして、妹の小酒井卯月が入学すると、彼女におまじないのやり方をせがむようになったの。きっと卯月は沙羅がどれだけ渡に心酔していたのか知れなかったから、素直に教えたんだろうね。ちょと無理があるような危ないおまじないや占いまでやるようになって、私は正直怖かったよ」


 ぎゅっと掴んでいる彼女の手に力が入る。


「いつの頃からだったかな。たぶん夏休み入る前には、沙羅は今まで以上に明るくなってた。すごく嬉しそうで。だから、もしかしたらって思って、一度予備校が終わった後に沙羅を尾行してみたの。案の定、彼女は家に帰っていなかった。入ったのは少し古いアパートで、すぐにそこが渡の家だと知った。沙羅は渡が帰ってくるまでずっと部屋の前で嬉しそうに待っているの。前から、放課後とか昼休みとか私たちといない時どこかには行っていると思っていたし、正直、私たちと話していても沙羅はいつもうわの空で、窓の外を見ながら渡の事考えているのも知ってた。けど、ここまでとは思わなかった。私は渡が帰ってくるまで沙羅を観察していた。実際、渡が帰ってくると渡はすぐに沙羅に家に帰るように説得していたけど、沙羅は全然いうこと聞かなくて、無理矢理家の中に入っていった。それ以上の事は何も知りたくなくて、私はその場から逃げたんだ」


 放送室で知弦に会った時、知弦の言っていた言葉を思い出した。彼女は、沙羅が周りから好き勝手に言われることや汚されることをひどく嫌っていた。知弦にとって渡は沙羅を汚した相手なのだ。


「本当は、渡が沙羅に迷惑に思っていたのは知ってたの。知ってたから余計私は沙羅を止めたかった。だからあの日、化学室で待ち合わせしていた渡より先にこの化学室へ来て、もう別れるように言った。でもやっぱり受け入れてくれなくて……」


 知弦の目から涙がこぼれる。その続きを言うのが辛いのだ。なぜなら、それは渡が沙羅を殺そうとした理由なのだから。


「美堂さんの妊娠」


 英子が知弦の代わりに答えた。美堂さんは渡と知弦に伝えていたのだ。自分が渡の子供を妊娠していることを。知弦にとってこの真実は絶望的だっただろう。


「そう、あの日、沙羅はそれを私に打ち明けた。だから、大学受験も辞めて、アナウンサーになるのも辞めて、先生と結婚するんだって。先生の為に子供を産んで育てるって。沙羅は何もかも捨てて、渡のためだけに生きようとした。渡がそれを望んでいないのにも関わらず」


 彼女の涙は止まらなかった。きっと知弦にとってそれが沙羅の幸せとは思えなかったのだろう。受け止められなくて、苦しかった。


「だから、私は……、沙羅をこの窓から……」

「殺そうとして突き落としたわけじゃないよね?」


 知弦の言葉の上から英子が聞いて来た。知弦は顔を上げ、英子を見る。


「驚いて、美堂さんを引き止めたくて、肩を押してしまったんでしょ?」


 知弦は黙ってしまった。彼女は思い出していた。あの日、どうして自分は沙羅を突き飛ばしてしまったのかを。沙羅から聞いた妊娠の話。夢も全て諦めて、渡に生涯のすべてを捧げると言った沙羅の言葉。確かに知弦はショックだった。信じたくなかった。そして、沙羅を拒絶した。


「私は……、渡にめちゃくちゃにされた沙羅を認めたくなくて……」


 気がついたら突き飛ばしていた。そんな彼女を否定するように彼女を窓の外に追いやった。もう沙羅は知弦の理想からほど遠い存在になったのだ。知弦の好きだった沙羅はそこにはいなかった。それを受け入れることが出来なくて排除したのだ。


「違うよ、高倉さん……。私は沙羅を殺そうとした。私の目の前から消そうとした……」


 それがどんなに無意識な事だっただろうと、自分がしたことは殺人だと思った。


「私がしたことは人殺しだ。沙羅だけでなく、お腹の子供も殺してしまった。だから……」


 彼女はそう言って座ってた窓から外に向かって倒れていった。彼女はあの時の沙羅と同じように転落しようとしていた。

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